twilight


 日差しは斜めで、日陰の坂を少し急ぎ足で上った。昨日気付いたときに取りに行けばよかったものをと後悔している。無くなっていたらという可能性も否定できない。テキト−な性格の僕が悪い。藪道はなにか不快だった、と言うよりもちょっとした恐怖を感じた。霊的なものというより悪い者につけられているような不安を妄想した。夜明けも日暮れも暗さは変わらないのに、この気分差は何なのだろう。坂を上りきった僕は辺りを見渡す。
 先客がいたことに驚いた。それがさらに、制服を着た警察官だったから驚いた。なぜか気まずさに襲われて、引き返そうかと思ったけれど、別に負い目はないのだからそのまま昨日の崖を歩いた。この場所は僕しか知らないと思っていたのに。

「捜し物ですか」
と不意に尋ねられて、ひやりとした。警察官の制服のせいだ。

「本を、落としてしまって」

 相手はまだ二十代らしい人当たりのよさそうな男で、強さおそろしさは感じない。職業権力と顔が釣りあっていないのかもしれない。とか、失礼な事を考える。

「文庫の『変身』なんですけど」
 警官は目を丸くした。
「でしたら、これじゃありませんか?」
 そうして取り出した、カフカの表紙。よかった。
「それです!」
「丁度ここに落ちていましたよ。一応、本人確認をしたいから、学生証かなにか見せてもらえないかな?」

 突然くだけた口調になったことが舐められたようで不満を感じたが、扉に名前を記入しといてよかったと思う。鞄から学生証を取り出した。

 八月一日 夏生

 相手はまじまじと僕の字面を見る。初見で読めた人はほとんどいない。しかし本と学生証の名前は合致しているから問題はないはず。
「ありがとうございました」
 確認を済ませると、ちょっと困ったように返してくれた。読めないのも困られるのも慣れている。
「すいません、名前、なんと読むんですか? ハチガツ……」
 申し訳なさそうに尋ねられるのも慣れている。生まれてこのかたずっとこれだった。もうなんとも思っていない。出来るなら、もっとかんたんな名前が良かったけど。
「八月一日って書いてホズミで、夏に生まれるで夏生。ホズミ、ナツオ」

「夏生まれ? もしかして、8月1日生まれとか」
「いや、6月なんですよ」

 相手も苦笑する。名前と誕生日の面倒臭さなら自慢出来る。荻原にも何年罵倒されたきたことか。十年位だろうか。
「初めて見ましたよ、『八月一日』なんて。僕なんてただの高田ですから、おもしろくも何ともない」
「いや、でもフツウの名前の方がいいと思いますよ。何度も間違われるのって正直面倒です」
「そういえば高校のとき、同級生にすごい珍名の奴がいたな」
 高田という男はなぜかそのとき鼻で笑ったように言った。親しい仲ではないんだと思った。

「生徒手帳見たけど、M高なんだ?」
「あ、はい」
「僕も実はM出身なんですよ。柔道部だったんだけど。きみ、何部?」
「帰宅部なんです、今は」
 何だか申し訳ない気分になった。
 割と進学校のMから警察官になるとは、高田氏はちょっと変わった経歴なのだと思った。
 パトロールの途中に崖に寄ったのだろうか。込みいった場所だから地元民でなければ分からない。

「高田さん、地元の人なんですか?」
「ああ、そうだね。小中高ずっとここに住んでて、配属されたのがなぜかそこの、公園のそばの交番。すごい地元だよ。偶然」
「公園って」
 言いかけたところで高田は含みげな顔を見せた。さっきまでの人の良さとは違う、珍名の同級生に対してと似た表情だった。
「ホズミ君は、見たことある?」
 知ってるんだと思った。おまけにこういう訊き方をするってことは、詳しいんだろう。
「直接には、ないです」
「どこまで知ってる?」
 誘導尋問という語が頭をよぎった。
「celestaの件まで」
 言うと、相手は驚いたような、満足したように目を見張った。
「掲示板見てた?」
「はい」
 相手も見ていたらしい。さすが地元掲示板。
「高田さんは……誰ですか?」
「ホズミ君は?」
「……ROMでした」
 嘘、その一。言ったら弱みになる気がした。
「僕は、K缶。警官だからケーカン」
 高田は笑った。眼下の街は薄桃色で、空は橙色の雲が浮かび、昨日朝陽を見上げたビルのあたりはもう夜の群青がひろがっていた。ああ、どうしてこんなに気分が違うんだろう。
「celestaはどこへ行ったんだかねぇ」
「最初からうそだったんでしょうか。彼女の存在さえ自作自演だったりして」
 嘘その二。彼女自体は(彼女が本当に女子で学生かは確定出来ないにしても)存在している。だって僕は彼女とあの事件の前から直メを交わしている。掲示板の別のスレッドで出会ったのだ。IDも一致している。事件前から実在する彼女はなりすましの存在ではない。
 しかしそれとは関係なしに、高田はcelestaを確信していた。
「celestaは実在する。確実に中高生として。……ホズミ君くらいの年齢だろうね」
「なにか、証拠とか、あるんですか?」
 高田は彼女の足取りを掴んでいるのだろうか。

「この辺りで痴漢があったことは知ってるよね?」
「はい、なんとなく」
 地元民だからそういうニュースは届く。この界隈は街路樹が植えられて緑が多いが、街灯が木々で遮られることもあって夜間はひっそりしているために、痴漢変態のたぐいは減らない。
 核心に迫る予感に気がついて、僕の顔はゆがみそうだった。

 高田は
「それがcelestaだったんだよ」

 足もとが沈んだような気がした。


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