明け方だった。
「……りばひ?」
薄っすらと開いた瞳を、リヴァイは見逃さなかった。
「ナマエ」
熱をもった頬はすぐに冷たいリヴァイのてのひらで覆われる。目尻や頬の辺りに、優しいキスを添えて。
「わらひ……ろうしらんらっけ?」
「無理して喋るな。まだモルヒネが完全に抜けてねぇから、呂律が回ってねぇ。高速走ってる途中で、特殊一課のスナイパーに麻酔銃で撃たれた。ついでに熱もある」
目は覚めたのに頭がぼんやりしている。痛みの類が全く無いのはモルヒネの効果だ、悲しいかな。順にそれらの情報を整理し、ナマエは深呼吸をしながら頷いた。
(ずっと起きてて、側にいてくれたんだ)
点滴が刺さった腕を持ち上げ、リヴァイの頬に触れると冷たかった。リヴァイはナマエの手を取り、薄く微笑む。ほっとしたような愛しさを伝えるような、そんな笑みだ。
「ここはハンジのセーフハウスだ。公安の他の連中にも知られてない、個人的な建物らしい。お前はしばらく療養だ」
「ごめ……」
「いや、俺が無理をさせた。悪かったな」
勢いよく首を横に振ると、ナマエの髪は枕の上で無造作に乱れる。リヴァイはいいから、という風に頭を撫でながらナマエの髪を整えた。
「もう少ししたらファーラン達も起きてくるだろ。俺も一緒に買い出しに行こうと思うが……ハンジと2人で平気か?」
ナマエは喋ろうとしたが、思っていたよりも舌が重たいことに気が付いた。口を動かし辛いのだ。仕方が無いので、首を縦に2回振る。大丈夫、の意だ。
「何か要るものはあるか?近くにやたらとデカいモールがあるらしい。欲しいものがあるなら、何でも買ってきてやる」
今度は首を横に2回。
「り、ば、い」
「あ?」
人差し指でリヴァイの頬をつつく。リズムをつけて、おどけた風に。
(欲しいものなんて、リヴァイだけだよ)
大げさに口角を上げて笑って見せると、リヴァイも呆れたように笑う。
「もう持ってるモンを言ってどうする」
ナマエの頭の左右に手をつき、リヴァイは襲い掛かる勢いで熱いキスを送る。あまり無理しては体に障るので、短い時間で。それから「いくらでもくれてやる」と囁いた。
「なぁ、そろそろ入っていいかー?」
大げさに開いた扉をノックしていたのはファーランだ。リヴァイは起き上がると、少しバツが悪そうに眉間に皺を寄せる。
「目が覚めたんだな、ナマエ」
起き上がることが出来無いので、ナマエはベッドに横になったまま、ひらひらとファーランに向かって手を振った。
「イザベルの奴がいくら起こしても起きねぇんだ。ハンジさんとこ行ったら買い物リストもらったから、もう出るか?早い方がいいだろ」
「そうだな。朝早い方が安全だろう」
リヴァイはそう言って立ち上がったが、ファーランはわざわざナマエの顔を覗き込みにベッドの側へと立ち寄った。目が合うと、ファーランも安心したように笑った。
「ま、熱はあるけど元気そうだな。心配かけやがって」
いつも私に心配をかけるのはファーランとイザベルでしょ──ナマエはそう言いたかったけれど、今は黙って頷いておいた。心配をかけたのは本当だ。
「じゃあ、行ってくるからなー」
そう言ってファーランから先に部屋を出たので、リヴァイはもう一度、軽いキスをしてからファーランの後を追った。
しんとした室内は薬品のにおいが立ち込めていて、病院特有の冷たさが響く。
1人残されたナマエは、薄暗い蛍光灯を点滴のスタンド越しに眺めながら、また眠りの世界へと誘われる。たっぷり眠ったせいか、浅い眠りは夢と現を行ったり来たり。
分厚いカーテンから僅かな陽の光が零れて来た頃、買い出しに行ったリヴァイとファーランよりも先に、部屋に入って来たのはハンジだった。
「おはようナマエ」
「おひゃようごらいまふ」
「あはは、まだモルヒネがキマっちゃってるね。ゆっくり横になってなよ。さっきリヴァイから連絡が入ったんだ。ナマエが起きたから見ててくれって」
一応ナマエは「はじめまして」だ。昨日のテレビ電話の時、ナマエはベッドから顔が出せなかった。
ハンジは改めて自己紹介をするわけでも無く、ルーティンワークのように雑務をこなしていく。ボサボサの髪を荒く結わい、書類を片手にフラスコから水を注ぎ、コーヒーメーカーのスイッチを入れ、出来上がったコーヒーをビーカーに注いだ。
(お医者さんの白衣着てるし……お医者さんみたい)
研究者だ、とリヴァイは言っていたけれど。
「とりあえずもう一袋、点滴落としておくよ。それが終わる頃にはきっと、随分体が楽になるはずだ」
「ありはとうごらいまふ」
「ん。いい子だね」
琥珀色の液体が一滴ずつ、管を通って落ちていく。ハンジはクランプを調節して、注入速度を整えた。
それにしてもハンジはよく喋る。ナマエが飲むスポーツ飲料や背中を拭くタオルを用意しながらも、淀みなく喋り続けた。
これまでのリヴァイの戦歴や研究結果。アッカーマン一族の血統がどれだけ特殊で希少か、その上でリヴァイがナマエを主だと定めたのは歴史的にも前例が無い貴重なパターンだとか。
うんうんとナマエは一生懸命頷くけれど、ハンジとしてはあまりナマエからの返答は求めて無いらしい。
「あ、そうそう。私にも部下がいてね。彼も公安特殊三課研究部の一員なんだけれど、今は特殊三課の研究室に行ってもらってるんだ。協力者になってもらってて、過去のアッカーマン一族の資料を持ってきてもらうようにお願いしている」
「へぇ……?」
「リヴァイがナマエの記憶を保ったままマイクロチップが取り出せるように。協力してくれる人は、他にもいるんだよ」
に、と笑うハンジの顔は頼もしい。ナマエもつられて笑った。
そこからはハンジの部下の話しに移った。他にも数人、研究部にはハンジの部下がいるらしい。新人のニファや仕事が早いケイジ、それからいつもゴーグルをかけてるアーベル。今資料を取りに行っているのが、ハンジの部下であり助手というモブリット。彼の話しになる頃、ナマエの体も随分楽になっていた。ハンジの言った通りだ。
「……ちょっと喋りやすくなってきたかも」
「本当だ。モルヒネが抜けてきたんだね。ん?」
ぴくり、とハンジが耳をそばだてる。窓の外から、僅かなエンジンの音。バイクの音では無いので、リヴァイ達では無い。
「噂をすればモブリットかもしれない。資料が見つかり次第、すぐに来るように伝えていたからさ」
リヴァイを助ける解決の糸口が届いたのかも。そう思うと、ナマエの胸は高鳴る。玄関のチャイムは鳴らず、モブリットはおそらく持っていた合鍵を慌てて回し、大きな物音を立てながら2人がいる部屋の中へと転がり込んできた。
「ハンジさん!」
「おはようモブリット。彼女がナマエでね……」
「いや、それどころじゃないんですよ!あ、いえ。失礼しました。でもですね!」
ナマエとは初対面のモブリット。呆気にとられるくらい、ひどく慌てている。
「落ち着きなよ。何かあったのか?」
「それが……エルヴィン団長が……」
団長?とナマエは呟いた。課を率いているなら、課長と呼ぶものでは無いのだろうかと。
「ああ!エルヴィンやミケはもともとレンジャー出身なんだ。レンジャー時代の名残でね、その頃から一団を率いる程の統率力を持ってたから、団長ってニックネームなんだよ」
「今はそんな説明いいですから!聞いて下さい!エルヴィン団長が……表まで来てるんです」
「なんだって?!」
思わぬ緊急事態だった。ハンジはモブリットの襟ぐりに掴みかかり、尾けられてたのか?と詰め寄る。
「それが……ナマエさんと話しをしたいだけだと。話しをしたら今日はすぐに帰ると……仰っていて」
「なんてことだ。ここもエルヴィンには早々にバレてたってわけか……」
モブリットの襟を掴んだまま、ハンジはゆっくりとナマエの方に振り返った。
「タイミング良く点滴も終わってるね。ナマエ、どうする」
「どうって……」
「エルヴィンと話しをしてみるかい?」
寝覚めの頭に、リヴァイの不在。最悪のコンディションで、選択は迫られる。
「話して……みます」
逃げられないと思ったのは、ナマエの心のどこかにいつもあったからだ。リヴァイを血と宿命で捕えているのが彼の存在で、いわばナマエにとっての宿敵ということが。
逃げるわけには、いかなかった。
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