▼ 3.Go home(帰還)
教会を出てからしばらく。僅かに開いた窓からは潮風が流れ込み、景色は流れるように過ぎてゆく。
「ナマエ」
ラジオのスイッチを回しながらリヴァイが呟いた。海岸線のドライブウェイのせいか、ラジオは音楽番組を拾っている。いつかの時みたく。
「リヴァイ、私はどうしたらいい」
柔らかな音楽だ。電子音がメロディを奏で、ふわふわとした音の中に消え入りそうな声でナマエは言う。
「どうする必要もねぇ」
「父さんのせいだった……この島がこうなってしまったのも。大勢の人が死んだのも」
「まだそうと決まったわけじゃねぇだろ。ロッド・レイスの話しだけで確定するには不確定な要素が多すぎる。そもそも、だ。どうしてお前の親父がマーレに
「それは……」
「どうにかしようとしていた可能性もある。お前とエレンに、
ため息が零れると窓が白く曇る。ナマエはそこへ、額だけを預けた。
「父さんは医者だったの。何かの研究をしてたって。母さんが死んだあとに父さんがいなくなって……一度だけうちに、軍の人が尋ねて来たことがあってね。エレンが士官学校に入ったから、私てっきりその関係かと思ってて」
今思えば。
真実の一端が紐解かれると、これまでバラバラになっていた点が繋がり始める。
「万が一そこでお前が何かに気付いたとしても、このパンデミックは広がっていた。お前一人の力じゃ止めようもねぇモンが動いてやがる」
「でも……」
「全くクソみてぇな世の中だ。エルヴィンの判断も正しかった。軍が黒幕だったとなるとどうしようもねぇ」
早い段階でエルヴィンは精鋭達を引き連れて私兵軍隊を設立していた。何か、予感もあったのかもしれない。
「ただ一つよかったのは、お前がいることだな」
リヴァイは一瞬だけ車を停め、素早くナマエにキスをした。
「……デカイ買い物だった?」
「それを言うんじゃねぇ」
困った様に、ナマエは笑う。
「私もリヴァイに会えてよかった。リヴァイがいるから、私もまだ世界に存在していて良い気がする。愛してる」
は、とリヴァイは鼻で笑う。少し、照れ隠しをしたい時の笑い方だ。リヴァイが口を開こうとしたその時だった。
ラジオから流れる穏やかな音楽を遮り、無線が入る。
「……こちらリヴァイ・アッカーマン」
「リヴァイ、今どこだ?!大変なんだ!」
ハンジの声だ。
「これ以上大変なことがあるってのか」
「あるから言ってんだよ!」
長いため息のあと、ハンジが呼吸を置く。口に出すのも、煩わしいような様子で。
「……エルヴィンも感染した。急いでくれ」
「わかった」
それだけ言うと、リヴァイはすぐに無線を切った。
「ナマエ、さっきの」
「血清でしょ?よかった……ちょうど二つある。エルヴィン団長の分も、ちゃんとあるよ」
「そうか」
アダムとイブと名付けられたからなのか。対になっているわけでもないのに、ロッド・レイスから奪った箱の中には二つの小瓶。
(その血清に効果がなけりゃ、
エルヴィンがいるから。それだけで保っている私兵軍隊だ。彼の統率なくして、あの壁に取り囲まれた狭い中、人々が暮らすコミュニティを保つことは不可能だろう。
「ハンジ、聞こえるか。本部まであと6マイルってとこだ。南の門へ車両を着ける。ナマエを持ち上げなくちゃならねぇから、誰か寄越してくれ」
「わかった。十分に気を付けてくれ。壁の周りのアンデッドはまだ数が減っていない。総員で警備にあたってるような状態だ」
「了解だ」
エレン達がリベリオ製薬会社から帰還してすぐに、アンデッドの大群が
「……どうやって門を越えるの?門を開けることは無理なんでしょ?」
「強行突破以外ねぇだろうな」
リヴァイは天井を指さした。二人が座る座席の真上辺りには、見張りのためにサンルーフのようになっている部分がある。そこから二人が、車両の上に上がることは十分に可能だ。
「え……本当に強行なの?門の前まで車をつけて?そこの天井から飛び出して?」
「車高が高いやつで助かった。俺が持ち上げれば、壁も越えられる」
「待ってよ。リヴァイは?」
「俺の跳躍力をナメるんじゃねぇ。それに俺にはコイツもある」
コイツ、と指さすのは
「大丈夫……だよね」
「ああ。例の血清はお前が持て。腰のとこに挟めるだろ?」
リヴァイは片手を、ナマエのショートパンツと腰の間に滑り込ませた。
「もう!」
「そこがちょうどいい。血清をエルヴィン達に渡しちまったら、代わりにまた俺の手をくれてやる」
ナマエが言い返そうとしたその時、リヴァイが車を止めた。再び無線をつけて、これから突入する旨をハンジに伝える。それからナマエに、軽いキスを。
「行くぞ」
「うん」
発電所に続く道は獣道だ。これまでの壁外調査で、かろうじて軍用車両一台が通れるだけの道筋がある。鬱蒼とした森林。耳をすませば、数多の呻き声が響く。
二人を乗せた軍用車両は一瞬でスピードを上げる。線が走るように過ぎてゆく景色。縺れる視界の中、ナマエは目を見開いた。
アンデッドが取り囲んでいる──それは想像していたよりずっとひどい有様だ。びっしりと蠢く黒の集合体。彼等の脅威は数だという。まさに脅威そのものが、
一刻も早くエルヴィンとアルミンに血清を使って、何か良い策を講じてもらわないことには。
スピードは一切落ちない。リヴァイはブレーキを踏むつもりはなかった。左手でしっかりとハンドルを握り、右手ではナマエが助手席から飛びださないように彼女の体を押さえ込んだ。
大粒の雨が落ちるような音を立て、アンデッドがフロントガラスにぶつかってくる。飛散する肉片や血液。いくつかの顔らしきものと目があった瞬間、ナマエは固く瞳を閉じた。間もなくして、訪れる衝撃。
衝撃が収まるのを待たずして、リヴァイはサンルーフから破片手榴弾を投げた。車両の一部も破損する。かろうじて運転席の上部分には二人の体が乗り出せそうだ。しかし項を削いだわけではないアンデッドはすぐに復活する。リヴァイはナマエを引っ張り上げ、車両の上へと躍り出る。アンデッド達は壊れかけた軍用車両のボディを叩きながら、今にも登ってきそうだった。
「姉ちゃん!」
南門の一部はまだ金網の状態だ。その隙間から、エレンが顔を覗かせた。
「エレン!」
エレンの周囲にはアルミン以外の104期の面々や、ペトラ達リヴァイ班も揃っている。
エレンだけが、壁の上へと身を乗り出した。ナマエとリヴァイに手を貸すためだ。壁の上には人が一人、ぎりぎり立てる程の幅がある。
「兵長、ナマエを押し上げてもらえますか?」
「わかってる。落とすんじゃねえぞ、エレン」
軍用車両の上から壁の上まで、ナマエの身長分くらいの高低差。ナマエだけのジャンプでは届かないだろう。
「そこの壁の上まで飛べ、俺が押し出すから……」
ナマエが壁上を目指して踏み切ろうとしたその時だった。車両の下で揉み合いになっていたアンデッドのうちの一体が、リヴァイの足のあたりに飛び出して来たのだ。ナマエを両手で支えていたリヴァイの反応がほんの数秒、遅れる。ナマエが視線を動かしてリヴァイの傷を見たのと、リヴァイが斧を振るったのは同時であった。
「リヴァイ……うそ」
足からは出血が見られる。ナマエが巻いた左足のテーピングが、アンデッドに噛み切られていた。
「行け!」
リヴァイはナマエの腰辺りを掴むと、渾身の力を込めて体ごとを持ち上げた。動揺したナマエは両手を宙に彷徨わせる。その手を取るのは、壁の上で待機していたエレンだ。
身をよじる。視界と、行動と、思考とが、バラバラに動いていた。
(エレン、離して。リヴァイがアンデッドに噛まれてしまった)
脳内で揃える言葉は口から出て来ない。ただ悲鳴に近いそれが、アンデッドの呻き声の上をキンとしたトーンで突き抜ける。エレンは有無言わず、ナマエの体を引っ張った。ナマエのショートパンツが壁の上に擦れた時。
煙草が零れた。
エルドにあげようと、コンビニエンスストアでナマエがポケットに滑り込ませたものだ。リヴァイはその煙草を、落ちる前に宙で掴んだ。
「リヴァイ!リヴァイ、ねぇ、いや!リヴァイ!」
暴れて泣いて。こんなにも取り乱す姉の姿を見るのはエレンも初めてだ。エレンはナマエを壁の下で待機していたジャン達に託すと、リヴァイに向かって手を伸ばした。
「兵長!兵長も……早く……!」
「いいなエレン、命令だ!血清はエルヴィンとアルミンに使え。俺はこのまま、こいつらを片付ける」
腰に携えた斧を振りかぶると、車両に乗り上げようとしていた数体のアンデッドが沈黙する。
普段リヴァイは煙草を吸わない。しかしジッポーライターは持ったままだった。ナマエのポケットから落ちた煙草のフィルムを剥がし、一本だけを取り出して、残りの箱は壁の中へと放り投げる。それは奇しくも、エルドの前へと落ちた。
口に咥え、火を点けると、甘い油のにおいがリヴァイの鼻腔をかすめる。息を吸い込めば肺に含んだニコチンの分だけ、灰が長くなった。
煙が立ち上る。
壁の内側から、ナマエは声にならない声で叫び続けた。金網の隙間から、まだリヴァイの姿は見える。
段々と涙で滲んで見えなくなってしまう。何度も自身を抱いた逞しい腕や、背中にまではっきりとわかる固い筋肉のフォルム。声も、遠くなる。一瞬だけリヴァイが振り返った。口に咥えた煙草をアンデッドに向かって吐き出し、ナマエに向かって「愛してる」と口を動かした。
「いや……お願い、行かないで」
もう手は届かない。煙草が落ちていった方へ、リヴァイの姿も消えてしまった。
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