名前が示すもの


伏黒恵がまだ幼かったとある日。
恵はその日、初めて三月が怒るところを見た。

「どいつもこいつも。…そんなに命に値段をつけたいのか。価値を測るものは金しかないのかよ。下種がども」

三月が、怒っていた。いつも朗らかに笑っている、あの三月が。
どうしてかは分からない。けれど、恵が原因であることだけは察していた。

「そこまでいうなら僕が恵を買い取る。…いくら?」

まだ小学生と言えど、会話の内容から己が商品として金でやり取りされていることが分かった。三月がそれに対して怒っていることも。
目の前に居る男はただ怯えるばかりで、一向に口を開こうとしない。

「ねえ、早くしてよ。こんな胸糞悪いとこ居たくないんだ。家で津美紀も待ってるし…」
「禪院は、10出した、と…」
「あ、そう。…じゃあ倍でいい?」
「……」
「沈黙は了承と解釈するね。…はい」

紙切れを一枚、三月はそこに何かを書き込んでから渡した。
もっと成長してから、その紙切れが小切手であったことを知った。三月が20億という大金で自分を買ったことも。その原因が、もう長いこと顔を見ていない父親であることも。

「ごめんね、恵。本当にごめん。突然あんなところに連れて行かれて怖かったよね。大人に金でやり取りされるなんて、不愉快だったよね」

悪いのは恵の父親であるはずなのに、三月は帰りの道中でしきりに謝っていた。現状を把握できていない恵は、悲しそうな顔をする三月が見ていられなくて、「泣かないで」と声を掛けたことを良く覚えている。

そんな調子のまま帰路を進み、家に帰れば姉の津美紀と三月の後輩である五条さんが出迎えてくれた。
三月はわざとらしく高い声で出迎えるキモい五条さんをぶん殴ろうとしたが無下限術式で阻まれる。機嫌の悪い三月が術式を分解する呪いの込められた三月お手製の呪具を持ち出そうとしたので、慌てて津美紀とそれを止めた。普段の穏やかな言動が嘘みたいに、三月は五条さんが関わるとキレやすくなる。
慌ただしいやり取りをしたまま居間へと向かい、用意されていた夕飯にありついた。

「五条。…お前、知ってたの」
「何を?」
「…そうか」

今ならわかる。
三月さんは「伏黒恵が禪院家に売られることを知っていたのか」と問い、五条さんは誤魔化した。…つまり、知っていた。

「チッ。…どいつもこいつも、呪術師ってのはろくでもねぇな」
「それ、自分も入ってるけど」
「そうだよ、僕も含めて呪術知っていうのはクズばっかりさ」

珍しく舌打ちをするほどに怒りを露わにしている三月さん。怒りを隠しもしないその姿が怖くて、…でも、津美紀と俺を見る目はいつも通り優しいから、そのアンバランスが恐ろしかった。






三月さんに初めて出会ったのは、津美紀が5歳、恵が4歳の時だった。

父親は滅多に家に顔を出さないし、母親ももうずいぶん長く家に帰ってきていない。血のつながらない姉の津美紀と二人きり。親という庇護を無くし、幼いながらに危機感はあった。これからどうなるのだろう、と。

そんな時だった。
父親を名乗る男に連れて行かれたのは京都の三条。勝手知ったると進んでいく男について行き、とある民家に入った。

「おい、三月」
「…んぁ?…あー、弁慶か。何かあった?ごはんなら冷蔵庫に…」

「弁慶」と呼ばれた父は、身体を丸めて眠る一人の青年をたたき起こした。眠気眼のまま、気の抜けた顔をした青年は追い払うように手を振ってキッチンの方を指さした。

「ちげぇよ。…ほら、これやるよ」

背中を押されて差し出された俺と津美紀を認識すると、三月さんは驚いたように目を見開いて、次に疑心の籠った目で

「誘拐、ろりこん、幼児虐待…」
「ふざけんな、俺のガキだ。母親蒸発したっぽいからここに置いてくな、面倒は頼んだ」
「は?」

どれだけ告げて父は消えた。
俺と津美紀の親権は父が持っていたらしいが、俺が三月さんに買われた時に三月さんへと移行したそうだ。



そんなふざけた出会いを経て、その三年後には父親に金で売られた俺は禪院ではなく三月さんに買われて、三条家で平和に過ごすことになる。





三条三月という人間は、控えめに言っても頭のおかしい男だった。

大きなたれ目が特徴的な綺麗な顔に、日本人の平均を遥かに超えた長身、男にしては長い黒い髪は綺麗な漆黒。その恵まれた容姿は黙っていればモテることは間違いないだろう。だがしかし、その容姿をもってしても補いきれないほど、人間性は底辺で難あり。
俺から言わせれば五条先生と同じくらい。
世界的にも有名な刀鍛冶であるらしく、日がな一日刃物を作っていた。時折それにしっかりと呪力を込めて呪具にしては高専に送り、気まぐれに火薬を弄り銃火器を作る。

彼が興味と関心を示すのは刃物とそれを扱える人間、三月と親交のある少数の人間だけだった。その中でも、俺と津美紀、禪院家の双子の片割れである真希は特に気に入られていた。真希さんに至っては将来嫁にするのだと豪語するくらい。

俺と津美紀は、突然押し付けられた他人なのに。一番手のかかる時期の幼児を二人も預けられ、本来なら怒って然るべき状況だというのに、

「弁慶もバカだなぁ。こんな可愛い良い子を二人も手放すんだから」

なんて言って、実の子みたいに扱って大切に育てて。
5歳の女児と4歳の男児。養育費は嵩むし、かかる手間もバカにはならないというのに。俺にも津美紀にも、貧しい思いも寂しい思いも微塵もさせず、俺に至っては禪院家に売られた時に20億で買い取るなんて暴挙に出て。



バカじゃないのか。
どうして赤の他人にそんなことができる。
20億なんて大金を支払ってでも買うほどの価値が、俺にあるとは思えない。



可愛くないとは思うが、そう問いかけずにはいられなかった。
手間も金もかかるだけの、津美紀とは違って可愛げのない俺に。どうして三月さんはそこまで尽くしてくれるのか。昔から不思議だった。

「甚爾が君たちをここに連れて来た日から、津美紀と恵は僕の家族だよ」

家族のために行動することに、理由が要るの?

さも、分からないという顔でそう問われて、俺も津美紀も、三条家に連れてこられてから初めて泣いた。
母親は居なくなり、父親は金と引き換えに俺たちを捨て。しかし幼さゆえにそんな現実に翻弄されることしかできず。保護者として子ども扱いしてくれたのは、三月さんが初めてだったのだ。

刃物狂いの刀剣オタク。
「三条三月に刃物の話題を振るべからず」と学生時代を共にした人間たちに言われるほどの変人刀鍛冶。
俺と津美紀の保護者で、バカみたいに優しい怖いくらいのお人好し。

たった二人の俺の大事な家族。






「恵、怪我してるよ。…また、喧嘩したの?」
「あっちから殴ってきたから、抵抗しただけだ」
「恵、喧嘩したの?もちろん勝ったでしょ?」
「三月さん!」
「津美紀、あんまり心配しなくても大丈夫だって。男ってのはバカな生き物だからさ、拳で語らないと理解できない時があるんだよ」

中学生になった時、喧嘩が多かった俺を津美紀は心配して、三月さんはやんちゃ坊やだなぁって笑っていた。
なんでも三月さんは、小学校も中学校もろくに登校したことが無かったらしい。学校に行くよりも、工房に籠って居たかったのだとか。
だけど、その分青春を味わい忘れたと、ちょっと残念がっていた。

「だからさ、喧嘩でもなんでも、学校で他人と関わってるだけ僕なんかよりよっぽど健全だよ」

なんて言って。
体術は得意じゃないから教えてあげられないけれど、口八丁だけは得意だから効果的な煽り方は教えられるよなんて生き生きと。まともに教えてもらったのは刀剣の知識と口喧嘩の勝ち方くらい。

そんな一般家庭で味わうような幸せな日常を過ごせたことは、今でも深く感謝している。
誕生日を祝うとか、連休に遠出するとか、イベントごとを満喫したりだとか。季節の移り変わりをしっかりと意識して、四季を感じられるようになったのは三月さんのおかげだった。

「津美紀ももう少しで高校生かぁ。なんか早いなぁ。…津美紀、卒業祝いは何がいい?」
「おめでとうって言ってくれたら、それ以上はいらないですよ」
「ダメダメ。ちゃんと形あるものをあげたいんだよ」
「ふふ。そうだなぁ…じゃあ、恵の手作りケーキがいいです」
「だって、恵」
「ケーキ、…不味くても文句言うなよ?」
「言わないよ」

なんて、津美紀の中学校卒業を祝って。
金銭感覚がおかしい三月さんは、売れば一千万は下らない綺麗な髪留めを贈っていた。もちろん三月さんが作ったもの。
受け取った津美紀の手が震えていた。そして、祝ってもらったことで嬉し泣きしていた。

「来年は恵を泣かすからね」なんて言って三月さんと笑ってた津美紀が、呪いで昏睡状態になったのは、その二週間後だった。



絶望した。自分が売られた時以上に。
なんで、なんで津美紀が。津美紀じゃなくて俺を呪ってくれた方が良かった。いつもそうだ、良い人、優しい人ばかりが報われない。酷い目に遭う。呪いなんてクソ喰らえ。



呪術界には入らないと決めていたが、津美紀を救うためなら喜んで行こう。
少しでも可能性があるなら、津美紀が起きてくれるなら。どんな地獄でも構わない。


こうして、俺の呪術高専進学が決まった。





「恵」
「…三月さん」
「津美紀は起きるよ、絶対に起きる。…起きてくれなきゃ困るんだよ、だから起こして見せる」
「はい」
「高校の入学と卒業祝いだってしたいし、成人式には振袖を着せたい。恵の高専の入学式に三人で写真撮ろうって約束もした。津美紀に化粧を教えてあげる約束もしたし、学校帰りに制服姿で遊ぼうって話してたんだよ。今年のクリスマスは二人で恵のマフラー編もうねって約束してて、…全部、すっぽかされたら、困るじゃん」
「は、い」

津美紀が眠る病室で、二人で津美紀の手を握った。昔は俺より大きかった津美紀の手は、いつの間にか包み込めるくらい小さくなっていて、三月さんが成長したねぇって笑った。
上下する胸元だけが生きてる証拠だった。心電図の規則正しい音だけが、津美紀の命の証だった。
早く起きてと願った。流れる雫には、気付かないふりをして。



それから一年以上が過ぎたが、津美紀はまだ眠ったままである。




高専に入学して、三月さんは相変わらず変人のまま呪具職人として仕事をして、俺も五条先生にウザ絡みされながらも任務をこなして。けじめとして、三月さんのことは「三条さん」と呼ぶことにした。

本人には言ってないが、どれだけ時間がかかっても、あの時俺のことを買うために三月さんが支払った20億は返そうと思っている。幸い、入学した時から2級の俺は熟す任務も報酬がそれなりに高く、…多分、不可能ではない。

三月さんがご執心の禪院先輩にも良くしてもらって、…というか一方的に扱かれて。呪言師にパンダに元特級被呪者の特級呪術師、と、個性豊かな先輩方に囲まれて、同級生も両面宿儺の器に芻霊呪法遣いとバラエティー豊か。

唯一生存していて現役の特級呪具を作れる職人として多忙を極めている三月さんに紹介する間も無く、両面宿儺の器である虎杖悠二は亡くなってしまったが。
もう一人の同級生の釘崎野薔薇とは、なかなかインパクトのある出会いをしたようだが、それなりに仲良くやっているようだった。
美容知識が多い三月と、外見を磨くことには余念が無い釘崎。二人が打ち解けるのは早かった。




おかげで、こうして二人の買い物に連れ出されるくらいに。
目の前にはかれこれ小一時間は同じ場所から動かずに悩んでいる三月と釘崎。
片や美容には余念のない女子高生、片や三十路も過ぎた刀鍛冶の男。場所はショッピングモールの化粧品を扱っているフロアのヘアケア用品のコーナー。

「やっぱノンシリコンシャンプーがいいかな。…でも、ここのメーカーの匂い嫌いなんだよね」
「あ、わかる。匂いだったらこっちのブランドの方が好き。でもここのは髪がきしむし保湿力が微妙なのよね」
「そうなんだよねぇ。保湿ならヘアオイルですればいいかなって一回使ってみたけど、やっぱり匂い以外良いところなかったからなぁ…」
「匂い気にしないならやっぱりこっちよね。…でもなぁ、ここのメーカーって詰め替え用のやつ置いてる店少ないのよねー」
「ねー。あと、ここのメーカーのトリートメントは正直微妙だった。トリートメントは断然これがオススメ。値段はそれなりにするけど、仕上がりが全然違うから」
「三月さんが勧めるなら使ってみようかしら…」

楽しそうに話す二人。
恵の手には複数のショッパー。野薔薇が買った洋服、コスメ、小物、三月が買った和菓子、日本酒、ワイン。他にも色々エトセトラ。

「まだかかるようなら、俺もう帰っていいすか」
「え、…あ、ごめん恵。暇だったよね。とりあえずお会計してくるから二人は先にフードコートにでも行っててよ」

この日は久しぶりに釘崎と被った休日だった。
朝からたたき起こされて、いつの間に仲良くなったのか、駅で待ち合わせしていたという三月さんと合流して、三人は街へと繰り出した。
釘崎は服やらコスメやらを買い込み、三月もそれに便乗して和菓子や酒を買い込み。
高校生を連れて酒を買うなよ、とは思ったがどうせ聞きやしない。
時折、釘崎に「これはどうか」とアドバイスを求められ、適当に返事をする己とは反対に、三月は的確なアドバイスを返していた。気を良くした釘崎はそこからもコスメやら小物やらを買うたびに三月にアドバイスを求め…。
かれこれ、もうすでに半日は過ぎていた。

「ごめんね、恵には退屈だったよね」
「まあ…」
「津美紀が起きたらさ、こうやって三人で出かけたりしたいなぁって思ったら楽しくなっちゃって」
「津美紀?」
「僕の娘だよ、恵のお姉ちゃん。今、高二で、美人さんなんだよ〜」

起きてる津美紀と撮った最後の写真を釘崎に見せながら、自慢している三月さん。写真を見た釘崎は俺とは似てないとか美人だとか言っている。
三月さんが適当に買い込んできたジャンクフードを食べながら、買った服やコスメの話題で話し込む二人を見て、…三月さんが言っていたように津美紀と来ていたらこんな感じなのだろうか、と、想像する。津美紀なら自分の服やコスメよりも三月や俺のものを選びそうだとか、帰りに夕飯の買い物をするんだろうなぁとか。
…あぁ、早く起きてくれないだろうか。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか。あんまり遅いと真っ暗になるし」
「とか言いながら、三月さん私のこと送ったついでに真希さんに会いたいだけでしょ?」
「あ、バレた?」
「真希さんに惚れる気持ちは分からなくないけどね」
「だよねだよねー!?真希ってば本当に美人だし、呪具を使いこなしてくれるし」

騒がしいまま帰路に着いて、禪院先輩の話題で盛り上がる二人を無視して、釘崎の部屋に荷物を置くと自室へと戻った。戻る道すがら、禪院先輩の叫び声が聞こえた気がしたけれど、自分が行けば余計にややこしいことになるのは分かっているにで知らないふりをした。

部屋に入り、机に飾ってある写真を見る。
津美紀の中学の卒業式、津美紀を真ん中にして三人で撮ったもの。柔らかく笑う津美紀と、朗らかに笑う三月さん。隣には、そこに五条先生も加わった賑やかな写真が並んでいる。

「あぁ、…くそ」

じわりと滲んだ涙に、悪態をついた。
三月さんの家で、三人で暮らしていた頃がひどく恋しい。今の日常が嫌いなわけではないけれど、帰っても三月さんと津美紀が出迎えてくれないことにはいつまで経っても慣れない。


また、三人で過ごすためにも、もっと強くならなくては。少しでも多くの善人に、平等を享受することを実現するためにも。





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