いま夏に溺れる | ナノ



第十話

次の日の朝、昇降口で榎本に会った。

「……お、おはよ」

榎本は聞こえなかったのか、声の元を振りかえることもなく上履きを履いて歩きはじめた。制服の真っ白いシャツがその色を武器にして、追いかけようとする俺に歯止めをかけていた。


榎本の視界から俺が消える、それがなによりも怖い。


休み時間も昼休みも放課後も、榎本は俺の声を無視する、そんな日々が続いた。榎本は今まで特別仲が良いわけでもなかったグループと行動を共にしていた。

一番怖いのは昼休みだ。楽しそうにクラスメイトと話をする榎本の横で、一人で昼食を食べるのは勇気が要った。毎日人目を避けて屋上に忍び込み、弁当を食べた。

「…………美味しくない」

弁当は今までと同じ冷凍食品だ。以前はなんの疑問もなく食べてたいのに、今は箸が進まない。屋上は暑いし風が強いし榎本がいない。榎本がいない。

弁当箱を持ったままフェンスから身を乗り出しグラウンドを見下ろす。真下にはパンジーが植えられた花壇がある。ふと思い立ち、衝動というには柔らかな力に押し出され、弁当箱を逆さにした。

卵焼きミートボール白身魚のフライきんぴらごぼう、が、ぱらぱらと零れてどんどん小さくなっていく。数秒後色いとりどりのパンジーの上に食材が散らばった。ミートボールが本物のボールのように跳ねていた。

最低だ食べ物を粗末にするなんて本当に最低だこんな俺には罰が与えられればいいでももっとやりたい罪のないものを壊したいそして皆から軽蔑されたい。破壊衝動と常識人を装う気持ちとが同時に沸き上がり身体が震えた。そして掠れた声が漏れた。


「……えっちゃん……」


なんで俺は榎本のことばかり考えているのだろう? 期末テストもインターハイも近付いて、どちらも準備不足な自覚があるのに、準備の時間があるならそれをつかって榎本に会いたいと思ってしまうのはなぜだろう?

しゃがみこんで空を仰いだ。普段より近くなった太陽が俺を見下ろしている。けれど太陽は、俺の相談に乗ってはくれない。



「えっちゃん、帰ろ!」

放課後の教室によく通る声が響く。野球部のクラスメイトだ。近頃榎本と昼食を共にしている一人。

「あーうん、ちょっと待って今支度してるから」
「いいよいいよ、待ってるからゆっくりやって」

俺と榎本はときどき同化しすぎていて、お互いについて実は知らないことが多い。少し距離をとって初めて気付く。榎本は儚い、そして隙が多い。

「ごめんお待たせ」
「いいよ、じゃあ行こっかえっちゃん」
「うん」

男が榎本の肩に手を回す。そのまま教室を出て行く。榎本に触れ、甘えた口調でえっちゃんと呼ぶのは、俺だけの特権だと思っていた。勘違いだったようだ。

勘違いにしたくない。立ち上がった。


「わっ……」


勢いをつけて廊下に飛び出し、二人を追い抜く時、手を伸ばし榎本の腕を握った。そのまま速度を落とさず、腕を引いて走り抜けた。真っ直ぐに前を睨み、閉鎖的な廊下に響く野球部員の声に振り返ることもなく、指先の榎本の感覚だけを信じて走り続ける。教会から花嫁をさらう大学生の気持ちを思いながら。

「や、やのっ……はぁっ……」
「……はぁっ、はぁっ……」
「と、止まって」

校舎を出たところで立ち止まり、お互いに息を整える。腕は未だ掴んだまま。パンジーが並ぶ花壇の前だった。俺がぶちまけた弁当の中身は片付けられていた。自分が散らかしたものは誰かが処理してくれる、守られた高校生の無力を痛感した。

息が落ち着いたところで、榎本は震える声を絞り出した。

「……矢野はばかだよ」

そうかもしれない、ごめんね。無力な俺でごめん。でも今はとにかく、数日ぶりに榎本と向き合えたことが嬉しい。たとえ責められても、ばかだと言われても、榎本と向き合えたことが、嬉しい。







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