第九話
「えっちゃん、寒くない?」
「ん……平気」
榎本の半袖から出た腕に、鳥肌が立っているのを眺めながら「そっか」と頷いて黙り込んだ。波の音、風の音、何時間も座ったままでいると、砂は腰元をぐずぐずと飲み込む頼り無いものだと分かる。
「矢野、はさ」
「うん」
榎本の声がかすれている。榎本はぜんそく持ちで、夜になるとぜんそくが出てしまうことがある。不安になる。早く帰るべきなのかもしれない。
「俺のこと好き?」
「……好きだよ。えっちゃんは?」
「……好き」
海辺の告白はこんなに陰欝に響いてしまうのか。背筋が凍った。陽が沈みかけて、辺りは暗くなってきた。闇と海の境目はものすごく曖昧だ。
「矢野のこと、世界一好き」
インディゴブルーの闇と西の空に少しだけ残る橙の色が調和して、榎本の告白は余計に大袈裟に響いた。夜に向かって世界が終わっていく。俺達はそれに逆らうことができない。
「……東京の大学行くことになるかも」
海と潮風しかないこの街と、大都会東京は、天と地ほど離れている。免許も万札も持たない俺たちに、距離を埋める術はない。
「……うん」
今の俺には、冷静に返事をすることしか出来ない。何も言ってはいけないのだと、直観で分かっている。張り詰めたこの空間では、榎本の鳥肌を撫でることさえ許されない。
「俺、勉強しかできないから、親が有名な大学行ってほしいみたいで。今まで色々迷惑かけちゃったし、これからもお金出してもらうから……反抗できない」
「……うん」
「とりあえず、四年間はあっちで暮らして……もしかしたら院とか行くかも。そしたらそっから、また」
「……うん」
榎本は「また」の後を言わなかった。榎本が黙ってしまうと、波と風が力を持ち始める。それは恐ろしい力だ。無力の高校生を飲みこんでしまう圧倒的な力に、俺たちは反抗できない。親の意志にさえ反抗できないんだから。
「……なんで止めてくれないの」
榎本を見た。迫りくる暗闇に、肌の色は順応できていない。バイパスを通る車のライトが、俺たちを照らしたり、隠したりする。一定の間隔で浮かび上がる榎本は無表情だった。
「……本当に行くよ?」
榎本は、怖いくらい綺麗な顔をしていた。
榎本の声が震えている。けれどそれはぜんそくがもたらすものではない。感情が声帯を震わせているのだ。
何も言ってはいけない。けれど、何も言わないのは、いけない。
「……本当に行くからね」
榎本の頬を涙が伝った。静止画のような光景に、触れて熱を確かめることすら出来なかった。榎本の言葉は、決断だった。
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