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向こうに落ちれば名前の勝利。
しかしこちらに落ちたらタイブレーク、名前の負けが目に見えている。
「(頼む、向こうに落ちてくれ。頼むから向こうに落ちろ!)」
何度も心の中で叫んだ。落ちろ、落ちろと呪文のように呟き、目を強く瞑った。ラケットを握る手も無意識に力が籠もる。
静まる場内。
ボールはぐらりと揺れると小さな音をたたせて緑のコートへ落ちた。
ゆっくりと目を開けた。少しずつ広がる視界に薄らと黄色いボールがネット越しに映る。ボールは向こう側へと落ちていた。名前は目を見開かせた。
未だ静まる場内に、ゲームセット、ウォンバイ名字! と審判の声が響いた。
突如、大きな歓声が沸く。その中に名前の声もあった。握り拳を高々と上げ喜ぶ名前の頬には涙の筋が出来ていた。
***
盛大な歓声と拍手に包まれながら、雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔を裾で何度も拭う。目や鼻は真っ赤になり、口からはしゃくり声があがる。しかし口元は確かに微笑んでいた。
相手の選手の所へ向かうと、豆だらけの手を伸ばして握手を求めた。
しかし相手の選手は名前を鋭く睨み付けた。そして伸ばされた名前の手を拒むように叩いた。
「勝った気になるなよな。女だから手加減してやったんだよ! 手加減さえしなければ……、俺が勝ってたんだからな!」
降り注がれた罵声に呆然とした。負け犬の遠吠えだとは分かっていても、突き刺さるような言葉だった。
握手を求めて伸びていた手は、力を失ったかのように下がる。
名前は頭を俯かせた。俯くざるおえなかった。
その様子に相手の選手は悪怯れる様子もなく、それどころか名前を見下すように鼻で笑った。そして何事もなかったようにコートを後にしたのだった。
コートに一人残された名前の頬には涙が伝っていた。今度のは喜びの涙ではなかった。
「っ、……ち、きしょー……」
グリップをぎゅうっと握り締める。勝ったはずなのに、負けたような敗北感。そして屈辱。
“女だから手加減してやったんだよ”
頭の中でこの言葉が何度も繰り返される。まるで脳裏にこびりついたように頭から離れない。
「くそっ、くそっ……!」
苛立ちと悔しさから手にしていたラケットを何度も地面に叩き付けた。しかし一向に気が晴れる気配は無かった。
ゆっくりとコートを後にする。
唇を噛み締めて涙する名前の後ろ姿は勝利を手にした者とは思えない程、惨めなものであった。
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