とある一族に伝わりし伝承
されど偽りか真かは、当事者にしか判らぬ噺
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――こんな世など、壊れてしまえば良いのに。
時折、そう思う事があった。
或いは、これは単なる私の夢想かもしれない。
ほんとうのことは、きっともう、誰にも判らないだろう。
***
「十六夜。――少し出かけてくるよ。」
「は? こんな夜中に、どこ行くん?」
「少し、印が解けそうな処があるんだ。…危ないから、直ぐに済ませてくるよ。」
「…、ふぅん。――気ぃつけてな。」
「ああ。有難う。――直ぐに戻るから。」
「あんたが変に急いで、しんどそうに帰ってこられる方がめんどいわ。気にせんと行っといで。」
「…、そうかい。まぁ、行ってくるよ。」
「ああ。」
***
ざく、と足を踏み出した。
前方には闇。ざわざわと何かが蠢く気配がする。
物怪は夜に蠢くものだ。
昔から接してきたそれを、今更恐ろしいとは感じない。寧ろ、親しみすら覚えている。
印を施したそれに近づく。
祀るべきものとして、岩に縄がかけてあるだけのものだ。
村人にも解りやすくするために縄をかけてあるが、それ自体が要というわけではない。
岩に手を触れ、改めて印を施す。それによって、封じることができる。
いつものことだ、と、それに手を伸ばした。何故、印の力が弱まったのかを探る為だ。
ひた、と触れると、冷ややかな感触が伝わってくる。
――…?
僅かに違和感を覚えた。原因になりそうな事象が見当たらなかったからだ。
となると、私の力不足か?
――やれやれ、十六夜と時を同じくし過ぎたか?
私は、僅かに苦笑するより他に無い。
寸分の気の緩みもあってはならない。――気を改めて、静かに己と向き合った。
ざわ、と木が揺れる。
月の無い晩だからか、やけに闇が濃いように感じた。
印を施しても、いずれはまた緩む。
願いを叶えても、いずれはまた希う。
際限の無い輪廻に身を投じるのは、もう、止めにした方が良いのかもしれない。
…否。
この印の要は、我が精神と肉体。どちらも、欠けることがあってはならない。
――惑わされるな。物怪共は、何時であれお前の心の隙を穿ってくる。
――だからこそ。…己の持つ不平や不満に、心を惑わせてはならない。
幼い頃から、何度も言われた言葉が蘇る。
そう。この心の乱れは、彼奴等の掌の上にいるからに過ぎないのだ。この程度で惑わされていては、先が知れている。
ざわざわと、心が揺れる。
――ぐにゃり、と意識が歪んだような気がした。
まずい――と思った。
あと一瞬ばかり遅ければ、全てのまれていたかもしれない。
ばきり、と何かが割れる音がする。
或いは、己から離れたその権化が、立ち上がったその音かもしれない。
「――、嗚呼…」
己の未熟さを恥じる。…十六夜と時を共にし過ぎた己をも恥じる。自由に焦がれるからだと。
ゆらり、と意識が揺らめいた。
否、揺らいだのは自身の存在そのものかも知れなかった。――もはや、判らない。
よもや物怪のそれとなった肉体は己から離れ、村の方へと向かう。
嗚呼、無論そうするだろうな。
――私は、時に縫い止められたかのように、その場から動けなかった。
否、動かない方が良かっただろう。――着いて行ったところで、片割れ程度に止められる代物ではない。結局は気に当てられ、意思を飲まれてしまうだろう。
――機会を待つのだ。きっと、十六夜ならば…
そう考え、その場に留まり、じっと時の訪れを待った…。