俺の期待はどうやら当たったらしい。
あの日から数日経ったが、鹿園に絡まれることもなければ、先輩も訪ねてこない。
どうやら、先輩は俺を部活に引き戻すことを諦めたようだ。
こう言うのも何だが、実に気分が良い。…週末であることも相まって、俺はとても機嫌がよかった。
帰宅し、玄関に来客者の靴があることに気付く。…同時に、その来客者と話す父の声にも。
父は、週末だからか、仕事を早く済ませたのだろう。ともあれ荷物を置こうと自室に向かいかけ――足を止める。
来客者の声に聞き覚えがあるからだ。
そう――二階堂先輩の声だった。
俺の上機嫌な気分はあっけなく吹き飛び、疑問へとすり変わる。
…何故、こんな時間から。しかも、何故父と親しげに会話を…?
とても気になったので、俺は荷物を置く前にそちらへ足を向けた。
声のする方へ向かうと、客室で父と二階堂先輩が楽しそうに会話をしていた。
「おお諒、お帰り。」
「ただいま帰りました…。」
先輩の方をちらりと見る。――よう、と言いたげな視線をぶつけられた。
俺はその視線に僅かに怯んでしまい、おそるおそる尋ねる。
「あの…。なぜ先輩はここに…?」
「…。先日話しそびれた内容の件でお邪魔させていただいていたんだが、お前の帰りの方が少しばかり遅かったようだな。」
「今日は部活動のある日じゃなかったんですか?」
「顧問に休みを貰った。…それだけだ。」
「はぁ…。」
弓道部顧問であり二階堂先輩のクラスの担任でもある熊谷先生は、運動部の顧問としては優しい先生だ。
優しい、と言えば聞こえはいいが、要するに、ゆるいのである。――まぁ、お陰で俺は簡単に部活を辞めることができたわけだが。…俺のクラス担任の猪上先生も、熊谷先生みたいに“優しい”先生なら良かったのにと、時々思う事がある。
話を戻そう。
「…で、何で父とまで仲良く談笑を…?」
その言葉に父がくすりと笑うと、楽しそうに答えた。
「いや、彼が案外博識だったもので、つい話しこんでしまってね。」
先輩は、いえ狐塚君のお父様には及びません…と謙遜しているが、
父に「博識だ」と言われる先輩はどんなに博識なのだろう、と感服せざるを得ない。
父は、よほど先輩との会話が楽しかったのだろうか、唐突に
「…しかし、君くらい博識なんだったらいっそ宵夢を嫁にでもしてもらって息子に迎えたいものだね」と冗談交じりに言った。
案の定、真に受ける先輩。思わず笑ってしまう俺。
父は、先輩の様子と俺の苦笑から先輩の心情を察し、俺と同じく苦笑気味に――いや、ほほえましそうに笑う。
ハッ、と俺達の様子に気付いた先輩はまたも慌てる。
それで確信したのか、父はいよいよ声をこらえて笑いながら、続けた。
「…どうやらまんざらでもないようだけど?」
「い、いえそんなとんでもない…。あんな素敵なお嬢さんを頂くわけには…」
墓穴を掘る先輩。俺はこらえきれずに顔を背ける。
少し深呼吸をして先輩の方を見ると、これではただ肯定しているようなものではないか! と気付いたらしい先輩が顔を赤くして俯いていた。
「何ならお父さんと呼んでくれてもいいんだぞ?」
「!? …ちょっ、父さん」――さすがにそれは度が過ぎるのではないか? 父よ。
「はははは、冗談だよ」
……驚いた。父はこんな冗談も口にするような人だったのか。
俺は、先輩とは別の意味で驚きつつ、さもおかしそうに茶化す父を、少し呆然とした顔で見つめるより他になかった。
父は、ひとしきり笑ったあと、ああ、そうそう。と話を戻した。
「ところで、二階堂君は諒に話があってうちへ来たのだろう?」
その問いかけに、やっと平静を取り戻した先輩が答える。
「あ、はい。そうです。」
「ふむ。では私はこれで退散しよう。…そのような用がなくとも、また来ると良い。」
「はい。ありがとうございます。」
「…なんだったら今度は、宵夢も交えてな。」
「…!?」
平静を取り戻したばかりの先輩が、父に茶化されてまたしても慌てだした。
その反応に父は、またしても大いに笑いながら去っていった。
俺は、父の意外な一面と、先輩の分かりやすすぎる反応に少し笑い…いや、笑いをこらえながらも、先輩の話を改めて尋ねた。
「それで…先輩、部活の話ですが…」
話を切り出した俺の言葉を聞き、先輩はハッとして平静を装う。
「あ、ああ。…いや、もう部活の話は良いんだ。」
「…え? 部活の再勧誘の話じゃなかったんですか?」
「ああ、違う。お前の…家の話だ。」
「は、はぁ…?」――何で俺の家の話になるんだ?
「…。お前の父上から伺ったんだが、お前の家は神職を務めてるらしいな。」
…父よ。何故それを喋った。よほど先輩との会話が楽しかったのか。しかし――どうしたものか。
「…い、いえ、神職というほどのものでは…。それが、どうかしたんですか?」
「俺も手伝いたい。」
「はっ!? あ、いや…。………何故ですか?」
「俺の家も似たようなものだったから、何か手伝えるかと思ってな。次期当主はお前らしいから、お前にも一応話をと思っただけだ。」
「そ、そうなんですか…。…それで、父と話していたんですね…。」
「そうだ。」
「…父は、そのことについては何と?」
「手伝いたい。と申し出たら、快諾して下さった。蔵には入るなとの条件付きだがな。」
「そうですか…。」
それなら、俺に否とは言えない。
というか、父が良いと言っているのだから、何か他に理由があるのだろうかと考えてしまうのもあり、無下にはできない、というのが本音だろうか。
「…駄目か?」
「…いえ。父が許可したのなら、俺は構いませんよ。」
「そうか…。」
先輩は、ほっと胸を撫でおろしたようだ。…しかし、こんなことになるとはなぁ。
「…。良かったですね、先輩。…次期当主が姉じゃなくて。」
俺は、ささやかながら反撃してみる。
「……………………。その話はやめてくれ」
先輩は、苦虫を噛み潰したような顔をして俯いてしまう。
…。まぁ、元々はそうだったんですけどね。
「! そうだったのか…。何故お前に変わっ…、あ、いや、何でも無い。」
思っていただけのつもりだったのだが、どうやら言ってしまっていたらしい。
先輩は興味を持ったようだが、深入りしすぎかと思い直したらしく、聞くのをやめた…。
俺は、二重の意味で苦笑しつつ、
「…大したことじゃないんですけどね。…それが腹立たしいんですけど。」と返すよりほかはない。
少し気まずくなった空気を切り替えようと、俺は続きを促した。
「…それで、話はそれだけですか?」
「あ、ああ、そうだ。そろそろお暇しよう…」
そう言いながら、先輩が帰ろうと立ちあがった時、
玄関の戸が開く音と共に「ただいま帰りました」という姉の声が聞こえた。
先輩はそれを聞いた途端、サッと緊張した表情になる。
…何というか、悪いとは思うのだが、こうもからかい甲斐のある人だったんだな、先輩。
「…じゃ、じゃあ俺は帰る」
「はい、お気をつけて。」
「笑うなッ!」
「す、すみません。」
…気をつけていたつもりだったのだが、笑ってしまった。
途端に先輩に小声でたしなめられたが、どうしても頬の緩みを我慢することができない…!
また先輩に何か言われるかと思ったが、本人はそれどころではないようで、
やたらと周りを気にしながら、姉が自室に向かったのを見届けて帰って行った。
…しかし…。分かりやすすぎるだろ、先輩…。
俺は、思い出し笑いを堪えながら自室に向かった。