日が暮れてしばらくした頃、俺達は修行を終えた。
父は仕事があるとかで自室に戻って行ったため、姉と二人で後片付けをすることになった。
それを、何故か狐はぼんやりと眺めている。
こう言っては何だが、それほどまでに暇なのだろうか?
…すると何かを思い出したらしく、不意に俺達の方へ声をかけてきた。
「…あぁ、せや。…宵夢。」
ふ、と手を止めて、姉は狐の方を見、応える。
「はい、何でしょう?」
「その扇子、貸してみい。」
「え? あ、はい。」
姉の手には、ちょうど片付けようとしたところだった、家宝の扇子が握られている。
それを渡せ、と言われ、怪訝な顔をしつつも狐に近づき、手渡した。
手に取った狐は、扇子を広げ、しげしげとそれを眺める。
「……………ふーん、だいぶぼろっちくなったなぁ。」
そして、ぱちん、と音を立てて扇子を閉じると、唐突に
「せっかくやし、綺麗にしといたろ。…はいできた。」――意味のわからないことを言い放った。
狐が、閉じていた扇子を再び広げる。…確かに、古びていたはずの扇子がまるで新品同様だ。
俺達は揃って目を丸くする。…近くで見ていたため特に驚いた姉は、言葉も発せない様子だ。
「はい、宵夢。礼とかはいらんからな。…あ、せやけど、あんたらのオトンとかがこれ見たら何かとややこしいかもしれんし、これからはあんたがずっと持っとくとええわ。」
「え…っと…。」――相変わらず姉は混乱している。無理もないが。
「これ…、私が持っていても良いんですか? 諒くんではなく…?」
少し落ち着いたらしい姉が、やっと口にした疑問がこれだった。…まぁ、それも姉からすると気になるところだろう。俺は口出しせず、黙々と片付けを進める…。
姉からの疑問を受けた狐は、姉に向かって言い切った。
「何言うてんの、元はといえば“あんた”のもんやったやろ。」
――「元は“陰陽師”の物だったのだ。」恐らくそういう意味だろう。
しかし、その事実を姉は知らないので、その言葉だけで通じるとは思えない…。
「…? はぁ…。あぁ、確かに元は私が次期当主でしたから…」
やはり姉は勘違いをしてしまった。それを見た狐は半ば呆れ顔だ。
「………。宵夢、あんた、気付いてへんのんか?」
「…? 何がでしょう?」
「…………。…、諒。」
「…! は、はい。」
不意に、なぜか俺が声を掛けられる。
またしても狐がチョイチョイと手招きをしているので、すごすごと近寄る。
すると、何故か肩に手をポンと置かれ、
「…あんた。今までようやった。」――褒められた。
「は、はぁ…。まぁ、姉はいつもこんな感じなんで…。」
「……。………………」
…何やら意味ありげな視線を向けられている気がするが、俺にはその意味がよく解らない。
しかし、狐が呆れるほどの姉の天然ぶり…なのだろうか? 姉は自身が陰陽師の生まれ変わりであることは知らなくて当然なので、そこまでの反応をされるとは思っていなかったが…。
「あ、あの。…俺が伺うのも失礼かもしれないんですが…。」
「…。何や、言うてみい。」
「…。あなたと陰陽師様も、こんな感じだったんですか?」
恐らく当人は語りたくないであろう過去のことなので、心なしか遠まわしに尋ねてみる…。
俺の問うた意味を知ってか知らずか、狐は答える。
「…いや、うちの頃はここまでやなかった。」
「そ、そうなんですか…。」
「…たぶん、アイツの性格が上乗せされて、この子自身の…天然、っちゅーんか。それに拍車がかかってるんやと思う。」
「………。」
「大変やろうけど、これからもガンガンつっこんでやってな。」
「…え。は、はい…。」
何を言うかと思えば…ツッコミに関してか。狐の考えはよく解らない…。
「…? あの…?」――またしても会話から取り残されている姉。
「ああ、えっと…。どうしよかな、言った方がいい?」――それに気付いた狐は、姉に改めて尋ねる。
「…?」
当然、姉がその意味を理解するはずもない。
その様子を見た狐は、どうやら意を決したようで。
「…あんた、ふわふわした子やし、はっきり言うわ。…陰陽師の生まれ変わりなんはな、諒やない。あんたやで、宵夢。」
「…え?」
突然の宣告に姉は驚く。…無理もないが。
「……うん、ゆっくり考えるとええ。待つから。」
「………。」――俺は、こう言うのも何だが、既に知っていたので特に表情を変えない。
「え…。りょ、諒くんは知ってたの…?」
「……、うん。…いろいろあってね。」
「そ、そうなんだ…。…教えてくれなかったのは、何か理由があるの?」
「…。まぁ。…でも、俺も…つい最近知ったばかりだから…。」
「せやな。言うタイミングがなかったんやんな。」――ニカッ、と笑って狐は言う。
――誰の目にも映らず、俺と狐にしか見えていない面のお陰で知った、というのは些か説明しづらい。
狐もそう思ったのかは知らないが、俺に助け舟を出してくれた。
「…。そうだったんですか…。」
姉は、しばらく考えた後、納得したような表情を浮かべた。
「…やっぱり、って感じやな。…何や、分かってるんやん。」
「いえ…。はっきりと分かっているわけではないんですけど、何となく…。」
「…。ほーか。…そういうとこも、そっくりやな。」
「え?」
「いや、何でもない。」
「…あ、はい…。」
狐は、どこか遠くを見つめるような表情を一瞬浮かべるが、溜息をひとつ吐くと、今度は誰にともなく言った。
「…しかし、こうなることが分かってたから『長子に継がせるように』って言うてたのに、勝手に変えおってからに…。」
「え、そうだったんですか。」
「せや。細かいことはめんどいから話さんけどな。…大体、同程度の力のモンが現れた途端に性別で判断するとか、あほちゃう? って感じやし。」
「…。」――姉は、何とも言えない表情で俯いている。
…ん? 待てよ。ひとつ気になることが…。
「…あの…。…まさか、祖父が変な死に方したのって…?」
「祟った。…何か問題でも?」――遠慮がちに聞いた質問に、狐はあけっぴろげに答えた。
「ああ…やっぱりそうなんですね…」
俺は、半ば畏れつつも納得する。
…俺の祖父――前当主の夫である蛍助は、表向きは単なる病死ということになっているが、ある日を境に突然食が細くなり、じわじわと苦しみながら亡くなっていったのだ。最期の方は寝たきりにまでなった。
どこかおかしな亡くなり方だとは思っていたが、前当主であり妻である朱鷺子――俺から見ると祖母だが――を亡くしてから、以前に増して厳しくなったりと感情の起伏が激しくなっていたこともあって、精神的なものなのだろうと父も言っていた…。
自らの仕える神に祟られてしまった気の毒な祖父を思いつつ考え事をしていると、姉が神妙な声色で言った。
「…あの。今までごめんなさい。」
狐に対してだろう。…当の狐は
「何謝ってんの?」と苦笑を浮かべている。
「その…気付かなくて。」
「…。ええよ、気にせんで。っていうか、あんたが気に病むこととちゃうし。」
「……。」
「あのな。生まれ変わりや、言うても、半分くらいはあんたの魂――記憶とか、性格とかが占めてるさかいな。覚えてへんくても無理はない。…ていうか、覚えてへんでくれてありがとう。」
…相変わらず俯いたままの姉に代わり、俺が質問する。
「あ…その。…やっぱり、まだ陰陽師のことは憎んでるんですか?」
「…………。どうでもええ、て感じやな。しつこい男やったから、やっと絡まれへんくなって清々しとるわ。」
「あ、あの…。」
狐が歯に衣着せぬ物言いであるのはいつものこと…らしいのだが、もう少し遠まわしに言った方が…。
当の姉は相変わらず俯いていて、表情は見えないが。
「…ああ、すまんすまん。宵夢に言うとるんとちゃうからな。気にせんで。…昔っから、こんな感じやったし…つい、な。」
ごめんごめん、と言いながら狐は姉の頭を撫でる。
姉は、そこでやっと顔を上げ
「そうですか…。」と言うと、少し微笑んだ。
「さて。ほな、昔の話はこれくらいにせんとな。…で、あんたら、そろそろ夕飯の時間とちゃうか?」
狐に時間を指摘され、俺達は揃って慌てた。
「そ…そうでした。急ごう、諒くん。」
「あ、ああ。」
「うちもそろそろ、あっちに戻らんと。やいのやいのとうるさい奴らがおるさかいな。…ほな、またね。…いや、いつでも見てるけどな。」
揃って「失礼します」と声をかけると、狐はひらひらと手を振りながら消えてしまった。
さて、急がなくては。――僅かに姉を気に掛けつつ、俺は作業に戻るのだった…。