-folclor-

「よいか。お前はいずれ、生き神様に嫁ぐ身なのだぞ」
――わたしがお転婆をすると、父は必ずそう言って叱った。

この村には【生き神様】と呼ばれるお方がいる。
わたしの爺様のそのまた爺様の…、とにかくとんでもなく昔から、この地にいらっしゃるお方なのだそうだ。
 
生き神様は滅多に人前に姿を御見せにならないので、どんなお方なのか知る者は少ない。わたしも、村長である父の娘でなければ一生知ることはできなかったかもしれない。

――将来嫁となる立場であったせいか、わたしは生き神様に何度かお目にかかっている。
初めて彼に会ったのは、物心ついた頃。わたしを見下ろす目は冷たくも温かくもなく、大して言葉を交わした記憶もない。生き神様は大層長くこの地におられるというのだから、てっきり翁のような方なのだと思っていたけれど、会ってみたらごく普通の男のようにしか見えず、ひどく拍子抜けしたのを覚えている。
側にいた父に何か挨拶しなさいと促され、ひどく緊張して口籠ってしまったわたしだったのだが、彼は何の感情の揺らめきも見せなかった。
結局、特にこれといって会話もないまま、側についていた世話役の者にすぐに下がるように言われ、彼のことは何もわからなかった。わたしとは裏腹に、彼はこちらに関心を示しているように見えなかった。

その後も何度か彼に会ったが、彼は相変わらずひどく不愛想で無口な男だった。
こちらを見ても、にこりともしない。それどころか、会いに行っても門前払いされることすらあった。

しかし彼の目は、冷たくはなかった。
──彼がもし、本当はただの人間の男なのだとしても、きっと産まれてからずっと、生き神として扱われてきたのだろうから、情というものを知らないのかもしれない。
はじめから知らないのだから、それをこちらに向けることなど出来はしないだろう。出来るとしても、それはきっと至難の技のはず。

──もしそうだとしたら、彼は何も持っていないのだ。せめて何か、与えたい。できればそれが、温かいものであってほしい。
そう考えたわたしは、出来るだけ彼に朗らかに接した。結局、輿入れの日を迎えるその日になっても、彼の態度が変わることはなかったのだが…。

それから何日かが過ぎた頃、神妙な面持ちで彼は言った。
「この屋敷に、地下があるのは知っているね?」

はい、とわたしは答えた。すると彼も頷いて、淡白に続けた。
「十六夜の晩には、そこへ近づいてはならないよ。――決して」

「何故ですか?」――訝しげな表情を隠せぬままそう尋ねると、彼はまったくと言っていいほど変わらぬ表情のままで答えた。
「地下にはおそろしい力を持った獣がいて、十六夜の晩になると騒ぐのだ。――わたしはそれを封じる役目をしている。だから皆から、生き神として崇められているのだよ」

「…わかりました…。」
なるほど、とわたしは思った。どう見たってただの若者にしか見えない彼が、何故ここまで皆から尊敬されているのか。それがようやくわかったからだ。──尤も、彼の姿を知る者は滅多にいないのだろうが…。

もちろん、話だけは父から聞いていた。
しかし父は、わたしを納得させようとして少し信じがたいような事柄も口にするような人だったから、鵜呑みにしすぎないように心がけていたのだ。…今までは少々眉唾な話だと思っていたのだが、本人がそう言うのだから、信じてみてもいいのかもしれない。

――思えばそれは、わたしが彼と交わした唯一の約束だった。

それからというもの、十六夜の晩になると、地下からおぞましい獣の唸り声が聞こえてきた。その声があまりに恐ろしいので、気づくと夜が白んでいることもしばしばあった。
いつ眠ったのかも定かでない、そもそも眠っていないのかもしれないような浅い眠りが、十六夜の月の晩にだけ訪れるのだった…。


何度目かの十六夜の晩を越えたとき、わたしはあることに気づいた。…低く唸る獣の声は、彼の声にどこか似ている。

──まさか。
そうは思ったが、それ以来わたしは彼のことが気になって仕方がなかった。

どうにかしてもう一度、彼の声を聞いてみたい。…そう思って話しかけるのだが、わたしが何を言っても彼は小さく微笑むだけで、決して口を開かなかった。
それは最早いつものことのようにも思えるのだが、彼がここまで無口なのは、もしかすると声を聞かれたくない理由があるからなのかもしれない。

──一度首をもたげた疑念は、時が経つほどに膨らんでいった。

もう何度目かもわからない十六夜の月の晩、わたしは意を決して屋敷の廊下へと身を乗り出した。屋敷には獣の唸り声が響いている。
家に仕えてくれている家人たちは、今宵だけはどこにもいない。皆が獣の声を恐れるので、十六夜の晩だけは暇を取らせているのだ。

わたしはひとり喉を鳴らし、ひたひたと足を進めていく。時折吹く風が屋敷を揺らす度に立ち止まり、何度引き返そうと思ったか知れないが、とうとうそこへ辿り着いてしまった。
――深く息を吸い、吐く。一枚の戸板を挟んだ向こうからは、ひと際大きな声が聞こえてくる。…痛みを堪えているような、或いは何かを怨んでいるような。

わたしは薄く戸を引いた。闇夜に目が慣れていたせいで、室内の薄明かりさえひどく眩しく感じ──いや、違う。
そこには黄金の毛並みを持つ大きな獣がうずくまっていた。黄金の毛並みが光を広げるせいで室内に光が満ちているのだ。

わたしは口許を覆い、室内を見渡した。――夫の姿はどこにもない。

獣は絶え間なく唸り声を上げている。
よくよく見ると、何か細い紐のようなもので縛られているように見えた。何だろうと思いさらに目を凝らすと、そこにはびっしりと細かい文字が刻まれている。

何か術がかけられているのだろうか、鋭い爪痕が刻まれ乱れた室内は、獣が激しく暴れたことが容易に想像できるのだが、それにも関わらず獣を縛り続けているそれは、ただの紐とは到底思えなかった。
それどころか、黄金の毛並みには血が滲んでいる。紐を振りほどこうと暴れる度に、かえって傷ついて酷くなる痛みにまた暴れるのだろう。

少し。――ほんの少しだけ、哀れに思った。
もしもこの紐が解けて獣が村に放たれれば、村はただでは済むまい。そう解ってはいるのだが、苦しむ声をこうして間近で聞けば、化け物とはいえあまりにも哀れだった。

「…なんてこと――」
気づけば声が漏れていた。刹那、獣の身体がびくりと震え、毛並みと同じ色をした美しい瞳がわたしの姿を捉えた。
わたしは戦慄する。ああ、わたしはなんてことを――唯一の言いつけを破ってしまったことを悔いる気持ちが、泉のように湧いてくる。

【見たな――】
不意に、獣の唸り声が意味を帯びた。

刹那、彼を縛っていた紐がぶつりとちぎれた。それと時を同じくして内からどうと風が吹き、わたしの身は木の葉のように舞った。
――その後のことは、よくわからない。気づけばわたしは廊下の隅に転がっていて、獣がいたはずの地下室にはなにも残っていなかった。

不思議と怪我ひとつない身を起こし、辺りを見回した。
上階への階段からは光が差し込んでいる。瓦礫を避けながら階段を昇ると、そこは空き地となっていた。――屋敷そのものが忽然と消えてしまっていたのである。

それ以来、男の姿も忽然と消えてしまい、生き神を見た者は誰ひとりとしてなかった。

folclor:フォルクロル
スペイン語
意味:(民謡・伝説などの)民間伝承、民俗学。
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