「葉介さん、お先にお湯、いただきました。」
風呂から上がった花蓮は、葉介にそう声をかけました。
「…あら?」
…しかし、返事はありません。不思議に思って様子を窺うと、葉介はソファに座り、そのまま眠り込んでしまっているようでした。
その様子を察し、きゃっきゃとはしゃぐ子供たちに、花蓮はそっと告げます。
「二人とも。すこし静かにして。」
「…?」
「…??」
幼い二人は素直に黙ると、首を傾げ、花蓮と同じ方向を見ました。
「あ。おとーさん、寝てる」
「…。」
「…風邪をひいてしまうわ。」
「さっき、うちらが使うてたやつ、あるで」
「そうね、ありがとう。」
花蓮は、瑠璃からブランケットを受け取ると、葉介の肩に掛けようと手を伸ばしました。
しかし、ブランケットが僅かに触れた瞬間、葉介は目を開けました。
「…、眠ってしまっていたか…」
「ああ…ごめんなさい、起こしてしまいましたね」
「いや。……そうだ、風呂に入らないと…。」
そうぼやいて立ち上がると、――気遣い有難う。と言って、葉介はすぐに風呂場へ向かいました。――湯冷めをしないうちに、布団にお入りよ。
その足取りはそう速くはありませんでしたが、まだ何か考え込んでいるようで、すこし近寄り難く感じられました。
「…。…おかーさん、おふとん」
心配そうに葉介を見送った花蓮の袖を、瑠璃はそっと引きました。
「あ、…あぁ、そうね。…お布団敷きましょうね。」
瑠璃の言葉に、はっとした表情でそう言うと、花蓮は手に持っていたブランケットを畳みました。
「しんぱい?」――そう花蓮に声をかけた晶も、同じく心配そうな様子でした。
「そうね…。なんだか少し、ぼうっとしてらしたような気がするけれど…。眠っていたせいかしら。」
――何だか今日は、いつもとは様子が違ったわね…。
いつもは誰にでも穏やかに振舞う葉介が、剛史や翠春に対しては、妙に冷たく振舞っているように見えたのでした。
そうは考えつつも、子供たちに心配をかけないようにと、花蓮は笑いました。
しかしそれでも、その表情から不安は拭い去れておりませんでした…。
――おとーさん、…つよしのこと、あんまり好きやないんとちゃうかな…。
瑠璃は咄嗟にそう言おうとして、それでも口を鎖すのでした。
子供達に笑顔を向け、ブランケットを片付けに行った花蓮でしたが、子供達も、花蓮と同様、すこし心配そうな様子でした。
「…あきら。どう思う?」
「……………、わるいことじゃ、ないと思う」
「ほーか。…ほなまぁ、ええけど」
すこし心配そうな表情を浮かべながら、瑠璃――十六夜は、花蓮から聞いた話を思い返しました。
瑠璃と晶は、風呂で、花蓮から剛史のことを尋ねました。
「お父さんが小さい頃のことを話していたけれど、それがどうしたの?」と、花蓮は首を傾げました。
「どんなこと、聞いてたん?」
「お父さんが昔、お風邪をひいたときに、おにいさんが看病していたのですって。」
「…! それでおとーさん、なんて?」
「覚えてない、って言ってたわ。…昔の事だからと、おにいさんは笑ってらしたけど」
「ふうん…。」
そら、上の空にもなるわな。と十六夜は腑に落ちた表情をしたのでした…。
考え込むうちに眠ってしまうのはよくあることだ、と十六夜は思っています。
――或いは考えきれなくなって、眠ってしまったのかもしれないけれど。
眠っていた葉介の呼吸が穏やかだったので、十六夜は安堵しました。
――あきらも、しんぱいせんでええて言うてたし、だいじょうぶやろう。
瑠璃はそう考え、晶と共に寝室へ向かいました。
***
その頃、狐塚家では。
「へぇ、随分賑やかだったんだな。」
宵夢は、帰ってきた郁馬に、今日一日の出来事を楽しそうに話しました。
「――良かったじゃないか。」
「えぇ。時が過ぎるのがあっという間でした。」
「そうか。いずれまた、ご挨拶に行こう。」
「えぇ。それがいいわね。」
「…あぁ、そうだ」
「なぁに?」
「賑やか、で思い出した。…今度、鹿園の奴がこっちに戻るらしい。うちにも顔を出すと言っていた。」
「あら、そうなの。楽しみだわ。――いつくらいになるかは、もう聞いてるの?」
「そうだな…、丁度、桜が咲く頃だろうと言っていた。」
「もうすぐじゃないの。…そっか、春だもんね。」
「あぁ。時季がちょうどいいと思ったんだろうな。」
「…慌ただしいわね。でも、確かに賑やかで楽しいわ。」
「何よりだな。」
――賑やかなのが好き、と笑う宵夢に、郁馬はそっと微笑みました。
宵夢の感じていた寂しさが、このまま少しずつでも癒えてゆけばと、郁馬はそっと祈りました。
***
「…葉介さん。――何か、あったんですか?」
「うん?」
花蓮は、風呂から上がった葉介に、心配そうに尋ねました。
「なんだか今日は、ぼんやりしてるように見えて。…剛史さんのことで、何か気になることがあるのかしら、って…。」
「…。そうか…。」
葉介は、しばらく考え込むような素振りを見せました。
「――君には、兄がどう見えた?」
「どう、…?」
「…。………」
「…、えぇと…、少し気難しい方に見えたけれど、…子供達ともよく遊んでくださったし、見た目とは違った方なのだ、と思ったわ…。」
「…。…成程。」
――葉介は、花蓮の話に頷きましたが、その笑みは上辺だけのもののように見えました…。
「…。もしかしたらと思っていたけど、葉介さんは…、お兄さんのことが好きではないの…?」
まるで何か重大な秘密を打ち明けるときのように、花蓮は恐る恐る、その問いを口にしました。
「…ふむ。」
葉介も花蓮と同様に、声を抑えて言いました。
「…嫌い…というよりは…。――どう接すれば良いか、よく分からないんだ。 」
「え…。」
「兄とは歳が離れているので、昔から接する機会が少なくて。互いに、好きに過ごしていたんだ。…子供の頃はそれでも良かった。けれど、歳を重ねるごとに、そうはいかなくなるだろう?」
「…。…えぇ。」
「当然のことだが――兄は、幼い頃から私を知っているから、私のことを親しくも思うかもしれない。けれど、私からすれば…、それまでほとんど関わりのなかったものが、突然…それも妙に親しげに、あちらから関わりを求めてくる…。それに――少なからず、戸惑ってしまうんだよ。」
「つまり…。葉介さんは、お兄さんのことをよく知らないのね。」
「そうだ。」
「…それなら、これから知っていけばいいのだと思うわ。」
「…。…そうだね。」
――一体どんな事情があって、兄弟が離れてしまったのかは分からないけれど。
きっといつか、その辺りの事情も聞かせてくれるだろうか…と考えながら、花蓮はそっと葉介に寄り添いました。
「…私こそ、あなたのお兄さんのことは、よく知らないけれど…。あなたのことを、とても気遣っていらっしゃるのは、わかるわ。」
「…。そうかい…。」
――このままでは、いけないね。
そう言った葉介はまだ目を伏せたままでしたが、力強く握られた手には、確かに決意が滲んでおりました。