『これはまた、えらく可愛らしい娘さんですね』――くすくす、と来訪者は変わらず笑いました。
「…。翠春さん、とやら。」
『解っておりますよ。…敵意など微塵も。ましてや此処は貴方の――』
「解っているのなら、あまり口を出すものではないよ。」
『…ええ。』
――くすくす。
『郷に入りては郷に従え。』
その言葉を聞いて、銀翅はようやく、僅かに胸を撫で下ろしました。
「よもや、こんなことになろうとはね。」
『同感です。』
来訪者――翠春も、意を同じくして頷きました。
「…。我が兄はどうしているのです?」
『おや、それをお尋ねになりますか。』
「わざわざ会いにゆくなど世迷言と同じですから。」
『…貴方らしい。』
冷やかな表情を浮かべる銀翅とは対照的に、
翠春――翠玉はさも楽しそうな様子で、くすりと笑うのでした。
「…それで、どうなんだい?」
『…。そうですねぇ…』
――翠玉は、何と言えばいいのだろう、とわざとらしく考える素振りを見せました。
『…………、特にこれといってやる事もなく一日中家に引き籠っている呆け老人、とでも申しましょうか。』
「は?」
やがて重々しく口を開いた翠玉の言葉に、流石の銀翅も耳を疑ったようでした。
『今日だって、私が「掃除の邪魔になるから出て行け」と言わなければ、日が暮れるまで縁側で呆けていたでしょう。…業が廻ったんでしょうねぇ。』
さも可笑しそうに笑いながら、翠玉は続けます。
『折角の新しい生を得たのに、誰に必要ともされず、その上老い先短いなんて。』
「…。」
『…、どうやら貴方も、そこまで薄情ではないらしい。』
僅かに複雑そうな表情になった銀翅の様子に、翠玉は目を細めます。
「君は、それで良いのかい?」
『別に。…元はそうだというだけで、今はただの介助役に過ぎませんから。――貴方のところの御子息と、変わりませんよ?』
「…………。ひとを得て、理由もなくしたか。」
――生を得て、従うべき理由も無くしたのか。
『理由がないからこそ、我々は自由なのでは?』
――過去のしがらみに囚われていないからこそ、我々は自由に過ごせるのでしょう?
「…。それでも尚、兄上に付き従っている理由は?」
『決まっているじゃありませんか。…面白いからですよ』
「面白い…?」
『…また、貴方がたの兄弟喧嘩を目にすることが出来るのだと思うと、それだけで愉快ですから。』
「…。からかわないでおくれ。」――銀翅は、またも渋い顔をして。
『からかってなどおりません。』――翠玉だけが、くすくすと笑いました。
――と。
がちゃりとドアが開く音がして見れば、花蓮が微笑みながら二人の元へやって来るところでした。
「あら。こちらがそのお客さん?」
「…。…ああ。」
『宮内翠春と申します。――葉介さんにはいつもお世話になっております。』
「ご丁寧に有難うございます。鈴原花蓮と申します。失礼ですが――夫とはどのようなお知り合いですか?」
『葉介さんのお兄さんのお世話をしております。』
「そうなんですか。…何のお持て成しもできませんが、もしよかったら、おあがり下さい」
『いえ、お構いなく。――夕飯の支度をしなくてはならないので。』
「…おかーさん、うちもハンバーグ作るん違うたん」
「…。」――見れば、ドアの辺りで瑠璃と晶が抗議の眼差しを向けていました。
『おやおや、お邪魔してしまいましたね。――ごめんね、瑠璃ちゃんに、晶くん。すぐに帰るから。』
「…。」――銀翅は、何故知っている、と言わんばかりに呆れ顔をしました。
それを見た翠春は、銀翅の方をちらりと見ながら言いました。
『お兄さん――剛史さんには、よくしていただいて。』
「………。」――成程、目には目を、という奴だな。
銀翅はようやく、少し笑いました。
「…すばる、おとうさんのしりあい?」――晶は不安げに、翠春に向かって尋ねました。
『晶くんのお父さんの、お兄さんの知り合いだよ。』――瑠璃はといえば、そう答えた翠春の様子をじっと見つめておりました。
「晶。呼び捨てにしちゃいけません。」
『良いんですよ。――家族のようなものですから。』
――『家族』という単語に、葉介は秘かに眉根を寄せました。もしも銀翅であれば、何を馬鹿なと吐き捨てていたかもしれません。
「失礼しました。…良かったら、またおいで下さい。」
『ええ。また、是非。』
朗らかに笑って去っていく翠春を、銀翅は目を細めて見送りました。
その姿が見えなくなるまで見送ると、キッチンに向かったのだろう花蓮と晶に続いて、やっと、葉介も家に入りました。
その葉介を、十六夜が気遣わしげに見上げます。
「だいじょうぶやったか?」
「ああ。」
――銀翅は、息をひとつ吐いて続けました。
「…曰く、呆け老人、だそうだよ。」
「ふぅん。――会いに行くか?」
一応聞くけど、と言いたげな様子で、十六夜は尋ねました。
「いや、いい。…いずれ、会うこともあろうさ。」
――こちらが嫌だと言っても、どうせ翠玉のことだから、無理やりにでも連れてきそうだ。
「近所に住んでいると言っていたから、それこそ…盆や正月にでもね。」
おそれているような、哀れんでいるような眼で、銀翅は言いました。
「…おねえちゃん、お手伝い。」
「あ、晶。…せやったな、今行く」
とたたた、と走り去る二人を見送り、葉介はようやく上がり框を踏みました。