先に視線を外したのは彼の方だった。はたけくんは表情一つ変えることもなく、別の場所へと視線を向けた。

私はほっとした反面、少しだけ胸が苦しくなった。はたけくんは、私のことを覚えているだろうか。焼けるような暑い日差しの下で私の名字を一度だけ呼んでくれたことを。私はあの夏の日を決して忘れることが出来なかった。この季節が訪れる度に彼を思い出し、苦しくてどうしようもなかった。

「なにぼんやりしてるの?ほら、行った行った」

突っ立っている私を心配したのか、先輩は肩を叩いて声を掛けた。大丈夫よ、あの人優しそうだし。何かあったら私が助けに行くから。言いながら先輩は私の背中を押す。その反動で、動かなかった右足が一歩前へ進む。はたけくんと私との距離が少しだけ近くなった。

はたけくんは近付く私の気配を感じ取ったのか、今度は下を向き俯いてしまった。私が手に持っているのはアンケート用紙が挟まれたバインダーと試供品の化粧品サンプル。どう見たって今の自分の姿は街頭アンケートを目的とした人間だ。きっとはたけくんは、私に声を掛けられるのが嫌なのだろう。けど、もう後には引けなかった。私はバインダーを抱え直して、勇気を振り絞った。

「あの、アンケートをお願いしたいのですが…」

なんて情けない声なんだ。落ち込んだ私の視線は必然的にはたけくんの足元へ落ちる。彼が履いている靴はスニーカーではなく茶色の革靴。大人になった彼の一面をまたひとつ知って、少しだけ戸惑った。

「ちょっとオレ、あまり時間ないんだよね。あと少しで待ってる人も来るだろうし」
「…あ、そうですよね」

頭上から降り注がれた声は夏の暑さと反して、冷ややかなものだった。断られた私はすっかり怖気付いてしまい、より深く頭が垂れた。

「けどまあ、少しだけなら答えてあげてもいいよ。貸して、それ」
「え、」

見上げた彼の背は高く、私の記憶にある『はたけくん』とは若干、異なった。はたけくんは私からバインダーを奪うと、早速アンケートの項目に目を通した。
「んーオレには関係のないことかな」呟きながら、ペンを走らせる。私はその間、彼の顔を密かに窺っていた。
筋が通った高い鼻。髪色と同じ睫毛。あの頃と変わらない唇の左下にある黒子。端麗な顔立ちの彼に、つい目を奪われてしまう。ふと、彼は顔を上げた。カチリと目が合う私と彼。久しぶりに見た瞳の色は、記憶のままの色だった。

「はい、どーぞ」

はたけくんは静かに瞼を伏せて、記入し終えたアンケートを渡した。「ありがとうございます」気持ちを落ち着かせながらアンケートを受け取り、代わりに化粧品サンプルを渡す。「ありがとーね」彼は受け取ったものを一瞥したあと、さほど興味もない様子で礼を口にした。

「…では、失礼します」

一刻も早くこの場から立ち去りたい。そんな思いから勢いよく頭を下げて彼に背を向けた。早く先輩の元へ帰ろう。踵を返し、先輩がいる方向へ足を向ける。だが、「待って」と私を引き止める声が背中から聞こえ、私の足は反射的に止まった。

「…柳井さん、だよね?」

心臓が大きく跳ね上がった。彼の口から発せられた自分の名字。なぜ、どうして。もしかして覚えてくれてたの?驚きと嬉しさで胸いっぱいになり、声にならなかった。一体どんな顔をして振り返れば良いのだろう。私の体は硬直したように動かない。

「もしかして違ったかな?似てた気がしたんだけど。…同じ中学の柳井さんに」

はたけくんの声は確信を持った声だった。もしかしたら彼は、私の反応を見て楽しんでいるのかもしれない。昔にも似たようなことがあった。彼が知らないはずの私の名字を呼んだ時。あの時、私はどんな表情をしたんだっけ。私は、ゆっくり振り返ると彼を見た。目の前のはたけくんは、口角を上げて綺麗に笑っていた。

「…覚えてるよ。はたけくんだよね」

できるだけ平然を装い、笑顔で応える。はたけくんは「良かった」と安堵の息を吐くと、さらにクシャリと笑みを零した。

「まさかとは思ったけど本当に柳井さんだなんてね」

驚いたよ。照れ臭そうに頭を掻きながら笑うはたけくんは中学の頃よりも柔らかい雰囲気を纏っていた。彼は真っ直ぐに私の目を見る。ずっと恋焦がれていた深い海のように真っ暗な瞳。どんなに大人になって変わろうとも、中学の彼がまだそこにいる気がして安心した。

「…オレね、ずっと柳井さんに秘密にしてたことがあるの」
「え?」
「けどね、今はまだ言えない。心の準備がまだ整っていなくてさ」

「ごめんね」と申し訳なさそうに謝るはたけくんに私は首を横に振る。内心では、はたけくんの『秘密』が気になって仕方がなかった。はたけくんは、形の良い唇で言葉を紡いでゆく。

「だから、秘密を知りたかったらあとで電話して」

はたけくんは私が胸に抱えたバインダーを指差すと「じゃあまたね」と手を振り、後から現れた男性と去って行ってしまった。
私は彼の背中を目で追ったあと、記入し終えたアンケート用紙をそっと広げてみた。

左端の空いたスペースには走り書きで書かれている彼の携帯番号。いつの間に書いたのだろう?疑問を抱いたが、驚きよりも嬉しさが込み上げた。彼と繋がりが持てた。決して叶うことのなかった夢が、叶った。浮かれた気持ちのまま電話番号が書かれている箇所を破ると、紙の断片をポケットに入れた。


「外は暑いから気を付けてね」


不意に、玄関を出る前に言われたサトルの言葉が頭の中で響いた。先程まで喜びに満ち溢れていた心が、夏の夕立雲のような薄暗く厚い雲で覆われてゆく。その黒は、サトルに対する罪悪感だ。

私は本当にクズで、最低な女だ。

それでもポケットの中で触れている紙を捨てることは出来なかった。それどころか、私の手は守るようにしてただの紙切れを包み込んでいた。

恋うまぼろしの断片


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