蝉の声がやけに騒がしい。こめかみから滲み出た汗が、輪郭を撫でるように滑り落ちた。 しばらくその場に突っ立って、彼女の背中を見つめていた。いつものように横を通り過ぎて帰ればいい。そう思うのだが、このまま何もせずに帰るのはどうも気が引けてしまい、足が一歩も動かなかった。 彼女がオレを待っていることは、決して当たり前ではないと昨日、知った。彼女がいつもの場所にいなかったことがどれだけ悔しく、悲しかったことか。 彼女には明日もあさってもずっとオレを待っていて欲しい。いつの間にかオレは、彼女のことが欲しくなっていた。 視線の先には見慣れた彼女の背中がある。炎天下のなか、オレを待ってくれている健気な姿だ。その姿を自身の瞳に映せば胸が熱くなった。この熱さは夏のせいではない。 (きっとこれはもう、) 本当はずっと前から自分の気持ちに気が付いていたのかもしれない。ただの興味本位ではなく、好意を持った気持ちでオレは柳井ナツミを見つめていたのだ。 だったらオレは、今の関係を変えてみたい。 ぎゅっと手のひらを握り締めて拳を作る。ジワリと汗が滲み出る感覚が気持ち悪い。だが、今はそんなことを気にしてなどいられなかった。 「ねぇ」 彼女の目の前に立ち、勇気を出して声を発した。焦りが生じて鼓動が走る。夏だというのに緊張で手が冷たくなった。 彼女はオレの声に反応しない。そういえば、彼女の声を聞くのは初めてだ。一体どんな声なのだろう。緊張と期待を膨らませながらじっと返事を待つが、いくら待てど彼女の声が聞こえない。どうしたのだろう。不安を拭うため、オレはもう一度、強く声を発した。 「ねぇ、」 オレの声にようやく気が付いた彼女、柳井ナツミは驚いた顔をしながら「はたけくん」と、名を呼んだ。 初めて耳にした彼女の声は思ったよりも落ち着いた声だった。オレは彼女をじっと見つめて観察する。すると、声以外にも気が付いた点が幾つかあった。 それは、今まで黒だと思っていた瞳の色彩には少しだけ茶色が入り混じっていたこと。肩上まで切り揃えられていたと思っていた髪が、本当は肩下にまであったこと。こうして遠目で見ていたことが近くで見ることにより、柳井ナツミを少しだけ知れた気がした。 なんか、嬉しいかも。込み上がる気持ちを無理矢理に蓋をしてから彼女を見る。焦げ茶色の瞳が小さく揺れた。 「…ねぇ、なんで昨日はオレの事待ってなかったの?いつもオレのこと待ってるでしょ」 問い詰めれば、彼女は明らかに動揺し狼狽えた。彼女の反応はなんというか、面白い。緊張で冷えていた手が徐々に温かくなってゆく。 「なんで知ってるの?」 「あのねぇ…こう毎日となれば気付くに決まってるでしょ」 「そっか」彼女は小さく呟くと俯いてしまった。その姿を見たオレは、思わず口元を緩ませてしまう。 彼女は、想像通りの子だった。気が弱くておとなしい。ありふれた女子だけどクラスにいる女子とはどこか違う。それが何かはいまだに分からないが、彼女には一年の頃と変わらない、不思議な魅力があった。 「帰らないの?」 いつもならオレを確認するとすぐに帰る彼女だが、何故か今日は帰ろうとしない。どうしたのだろうか。俯く彼女の顔を覗き込むと、必然的に目が合わさった。伏された睫毛が意外と長いことに気付き、新しい彼女をまた一つ、知った。 「…今日は、友達を待ってるの」 オレとの視線を逸らし、小さな声で答える彼女に苛立ちが込み上げた。いや違う。怒りを感じているのはそれではない。 友達を待ってる?…気に食わない。 「ふぅん。今日はオレを待ってるんじゃないんだね」 彼女は顔を上げると、何か言いたげにオレを見た。だが、いつまで経っても口を開いて言葉にしようとしない。そんな彼女に呆れて、オレはくるりと背を向けた。 「じゃあまた明日ね、柳井さん」 後ろ手で手を振って、立ち去ろうと歩き出す。しかし、次に発せられた彼女の一言で足が止まってしまった。 「どうして私の名前知ってるの?」 ーーしまった。背中に汗が伝い、流れ落ちる。彼女とオレに共通点などない。自分の名を知っていることを不思議に思うのは当然だろう。どうしようか。思い悩んだ末、オレはとりあえず口角を上げて笑みを作った。 「君がオレの名前を知っているのと一緒」 彼女の顔を見るのが急に怖くなり、「じゃあね」と、一方的に別れを告げてから再び歩きだす。その間も彼女からの視線が痛いほど背中に感じた。 『君がオレの名前を知っているのと一緒』 わざと曖昧に答えたのは彼女の気持ちを試したかったから。自分の気持ちが、彼女と同じかどうかを知りたかった。だけど臆病なオレは、振り向いて彼女の顔を見ることができなかった。 ジリジリと照りつける強い陽射し。鳴き散らしながら生き急ぐ、蝉の声。そして、熱く焦がれる心。 ああ、背中に張り付いたシャツがやけに鬱陶しい。不愉快に感じるこの汗も、怖がりな自分も、夏も、全てが嫌いだ。 落ちた抜け殻
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