真っ暗な夜空に浮かんだ眩い光を放つ星屑はまるで私達だけを照らしているようだった。未だひっそり泣いて震える彼の背中を優しく撫でると彼の肩が小さく揺れる。何をそんなに怯えているの?掛ける言葉を探してもどれも軽はずみに聞こえてしまうものばかりで声にならない言葉は凍てついた空気と共に飲み込んだ。 「…ごめん、チフユ。オレ、お前に嫌われるためにわざとあんな態度取った」 耳を澄まさなければ聞き逃してしまう微かな声は彼自身も消えてしまいそうで怖い。存在を確認するかのように彼の胸に耳を置くと一定のリズムを刻む心音が聞こえてほっと息を吐いた。 「失うのが怖いんだ」 カカシの唇から漏れたその言葉は重く、胸に突き刺さる。いや、違う。重いなんて一括りに纏めてはいけない。彼がその目で絶望や悲しみを見てきた物は、きっと自分になど到底想像出来ないものだろう。涙を流すカカシの声は微かに震えている。私に出来ることはその声を聞き漏らさないように必死に耳を傾ける事ぐらい。無知で無能な自分が歯痒くて悔しい。 「大切だと気付くとみんないなくなってしまう」 「オビトもリンも先生も、みんな」 オビト、リン、先生。カカシの口から私の知らない名を聞いて、ふとアスマの言葉を思い出した。それはカカシにはお父さんの他に大切な仲間を失くした過去があること。手に触れている彼の少し曲がった背中には一体どれほどの重みを乗せているのだろう。カカシの大きな悲しみは私には計り知れない。だけど私はカカシの事をもっと知りたい。悲しみを分かち合いたい。そんな事を願う私をカカシはどう思うだろうか。疎ましく思うだろうか。 「…私、カカシのこと何も知らない。だから、教えてよ」 気付けば声に出していた。無意識にカカシを抱き締める力が強くなってしまう。鬱陶しく思われたら嫌だな。後悔したが、カカシも同じように私を抱き締める力が強くなったので安心した。彼の背に置いた冷たい手のひらは彼の体温によってじわりじわりと少しずつ温かくなる。 「カカシの背中にある物、半分私も持つよ」 「そしたら少しは楽になるでしょう?」 そう強く口にすればカカシは私の肩に埋めていた顔を上げてふっと笑った。その拍子にまた一つ、目尻から滴が零れ落ちる。たくさん涙を流したカカシの目は充血して腫れている。その色違いの両目は変わらず見惚れてしまうくらい儚げで。もっと近くで見たくなった私は互いの息が掛かる距離まで詰めた。カカシの瞳には自身の顔が映り込んでいる。カカシと同様、泣き腫らした情けない顔だ。 「オレ、チフユが好き」 カカシの唇からぽつりと溢れたその言葉に胸が高鳴った。すごく嬉しい。素直にそう思った。だけど晴れた私の心は瞬く間に曇ってゆく。頭に浮かんだのはカカシの部屋にいたあの女性だった。 「…でも、カカシには彼女がいるじゃない」 つい思っていた事が唇から零れ落ちた。そう、カカシには立派な忍の彼女がいる。それが勘違いだったらいいなと思うのはただの願望だ。私の放った言葉に一瞬カカシは気抜けした表情を作り、黙り込んだ。そしてしばらく悩む素振りを見せた後、思い当たる節があったのか小さく「もしかして…」と呟いた。 「チフユ。前から思っていたけど何か勘違いしてない?オレの部屋にいたのは彼女じゃないよ」 「嘘。だってあの彼女、髪が濡れたよ?」 間髪入れずカカシに訊ねる。だっておかしいじゃない。彼女でもない女を部屋に入れて、しかも髪が濡れているなんて。やっぱり考えられるのは一つしかないよ。 思い悩んだ私の顔を見て何か察したのかカカシは突然にして声を上げて笑い始めた。なにがおかしいの?未だ笑い続け、止まる様子のないカカシを訝しげに睨み付けた。 「違うよ。あれは任務中に汚れたから風呂を貸したの。彼女、自宅の風呂が壊れているからって言うから」 本当?疑うようにカカシの顔を覗き込むとようやく笑うのを辞めた彼は本当だと念を押した。 「…じゃあ、なんで病院で告白したときに断ったの?」 私の問い掛けに目を泳がせるカカシ。ほらね、やっぱり私を好きだなんて嘘じゃない。カカシの様子を見て悟った私は背中を回す腕を解いて距離を開けようと彼の胸を押した。しかしカカシは離さないと言わんばかりにきつく私を抱き締める。厚い胸板に押し付けられ、息ができず苦しい。 「ちょっと、カカシ。いい加減にして「チフユを失うのが怖かったんだ」 大切だと気付くとみんな消えてしまう。抑揚のない弱々しい声色を聞いて言葉が胸に詰まる。彼はずっと一人で生きてきたのだろうか。誰に求めるでもなく、たった一人で。彼の小さな背中はどうしても自分と重なり合ってしまう。ふと私は遠い過去を思い出した。 父と母、一人ずつ私から離れていったあの日。私はもう二度と大切な人など作らないと固く誓った。愛して簡単に消え失せるものなら最初から愛なんていらない。だったら一人で生きていく。そう決めて地に足をつけて今まで強く生きてきた。そしてこれからもそうやって生きていくはずだった。ーーカカシと会うまでは。 私達は隣同士の部屋でずっとひとりぼっちだったんだね。もっと早く気付けば良かった。もっと早く出会っていれば良かった。もっと早く、 「だから、チフユはいなくならないと約束して」 縋るように私を抱き締めるこの腕を二度と離さないと私も腕を回した。どんな表情をしているのだろう?カカシの顔を見上げた。そこには眉を潜め、揺れる眼差しで私を見る男がいた。 ーー全てを見てみたい。震える指ですっと彼の口元を隠す布を下げた。見慣れた色違いの両目。初めて見る端麗な薄い唇。その左下にあるのは小さな黒子。私は今日、知らない彼をまた一つ知った。 「私はここにいるよ。これから先もずっとカカシのそばにいるって約束する」 言葉だけでは足りない。背の高い彼に届くようにぐっと背伸びをして彼の唇に自身の唇を静かに重ね合わせた。小さくぴくりと揺れたカカシの唇は少しだけ涙の味がした。 「私もカカシが好き」 真っ直ぐ見つめて放った言葉には迷いも戸惑いもなかった。かかとを地面につけてカカシの顔を見上げる。彼は目を見開いて私を見下ろしていた。しばらく見つめ合ったあと、カカシは弓のように弧を描いた目で笑った。彼のその笑顔が好きだ。 「オレも」 見慣れない薄い唇から当たり前の様に放たれた言葉は私をたちまち高揚させた。 ふいに冷たい風が吹いて彼の白銀の髪をふわりと揺らす。廊下から覗く夜空は先程よりも星屑が散らばり、より一層煌めいていた。視線を落とした先に見える住宅街の明かりは深夜のせいか数えるほどしかない。 「…寒いね。部屋に上がる?」 言葉と共に吐いた白い息が彼の鼻を撫で付けて消えた。寒いねは部屋に入れる口実だろうか。気まずそうに訊ねた彼はそっと私の手を握り、部屋へと誘導した。羞恥に駆られた私はカカシの顔をまともに見れずに小さく頷く。 「…うん」 *** 静寂な部屋に響き渡るのは時計の秒針の音と衣服が擦れ合う二つの音だけだった。 男性の部屋に女性一人で上がる意味は成人した私には容易に理解できた。リビングではなく寝室に通された私はいつの間にかカカシによりベッドの上に組み敷かれている。 彼の色違いの双眸は私の目を捕らえて離さない。その目に見透かされてしまいそうで、逃げるように瞼を閉じた。 「…オレもあいつと同じ事してるかな。嫌じゃない?」 一つ一つ丁寧に外されたシャツのボタンはカカシの手により胸元が露わになっていた。部屋から差し込む月の光を頼りに彼の顔を窺うと、彼は眉を寄せて窮した目で私を見下ろしていた。 あいつ、一体誰のことだろうか。疑問を浮かべた私の表情を見て、カカシは私の首筋を指差した。その仕草にはっとする。あいつとは同僚の事だ。カカシはキスマークをつけるのを戸惑っているのだ。 「…そんなことない」 だから、して。カカシの頬に手を添えて、ねだるように呟くと彼は小さく頷き、私の首筋にゆっくり顔を埋めた。カカシの柔らかい髪が頬に触れて、擽ったい。チクリと感じる痛みは温かく優しくて思わず涙が溢れる。 「やっぱり嫌だった?」 「違うの。嬉しくて涙が出てくるの」 大の大人が恥ずかしいよね。顔を隠すように覆った手を払い除けたカカシは溢れた私の涙を唇で拭う。それだけでは物足りない。瞼、鼻先、頬、そして唇にキスを落とした。 慣れない感覚を堪えるようにぎゅっとシーツを握り締める。強張っていた私の手に気付いたのかカカシは自身の手を重ね合わせて指を絡めた。その温もりがますます私を煽らせ、頬を火照らせる。 カカシにもっと触れたい。カカシにもっと触れて欲しい。 「チフユ」 名が呼ばれたと同時にぽたりと温かい水が頬に落ちた。私の流した涙ではない。彼の涙だ。確かめようと閉じていた目蓋を上げれば彼の顔がすぐ近くにあって、思わず息を呑む。目の前の両目からはまた一つ大粒の涙が零れ落ちた。その涙は私の涙と交わり合いながら枕に染みを作り、滲んだ。 「オレ、チフユが大切過ぎて怖い」 止めどなく流すカカシの頬をそっと撫でる。きっと今、カカシと私は同じ事を考えている。私もカカシが大切過ぎて怖い。大切だと気付いた先に訪れるものが怖い。 「幸せになれるよね、私達」 確かめるように彼に訊ねた。幸せになろうねと言えなかったのは幸せになる事が怖いから。答えを彼に委ねてしまう私は臆病で卑怯だ。それでもカカシがどう思っているのか本人の口からちゃんと聞きたかった。答えを促すようにカカシを見つめるとカカシは憂いを帯びた瞳で私を見つめ返した。 「幸せになりたい、一緒に」 一緒に。その言葉は私の心にゆっくり染み渡るように溶けた。 「うん、そうだね」 私の返事を聞いて笑ったカカシはまた一つ涙が溢れて私の頬を濡らす。カカシは私と同じくらい泣き虫だ。もっとたくさん知らないカカシを教えて欲しい。知らないから肌に触れて欲しい。願望は止めどなく胸から溢れてゆく。 「一緒に幸せになろう」 今度こそ迷いや揺らぎもなく、はっきり言い放った。カカシは真っ直ぐ私の目を見つめ返して、しっかり強く頷く。 「ああ」 どちらともなく私達は確かめ合うように唇を重ね合わせた。徐々に深くなる口付け。口内で広がる熱は溶けるようにあつい。 「好きだよチフユ」 「私も」 私達の思い描く幸せは一体どんなものなのか分からない。ただ願わくば、共に歩幅を合わせて歩いて行きたい。カカシと一緒に生きて幸せを作ってゆきたい。 カカシも同じことを思っていたらいいな。 繋がっていけたらいいな。 彼の熱に酔いしれながら触れる唇に願いを託して、そっと瞼を伏せた。 |