あれからカカシとは会うどころか隣の部屋から物音がすることはなかった。恐らく長期任務か、それとも彼女の部屋に身を寄せているのかーー。
考えれば考えるほど悪いことばかりが頭に浮かびその都度自分を駄目にさせるので、頭から振り払うように仕事に打ち込んだ。

「えんどう、」

仕事が無事に終わり、会社から出てしばらく歩いていると意外な人物に後ろから声を掛けられて足が止まった。
声の主を見れば、ついこの間まで体の関係があった同僚が立っていた。なんだろう。同僚と目を合わせると気まずそうに目を逸らされ、話し掛けて来たのはそっちなのにと不満に思った。

「なに?」

あの件があって以来、同僚とは仕事上でしか会話をしたことがなかった。だが、今は定時を迎えた時間だ。恐らく仕事内容ではないだろう。
どっちにしろ同僚が私的で話し掛けられた大半はろくでもない事ばかりだったので、あまり期待せず言葉を待った。

「これ、渡したくて」

同僚がポケットから取り出したのは失くしたと思っていたイヤリングの片割れだった。別にいいのに。そう口にしようとしたが、いくら嫌いな同僚でも失くした物を持っていてくれていた事実は変わらないので、ありがとうとイヤリングを受け取った。

「じゃあね、お疲れ様」

別れの挨拶をした声は自分でも冷たい声だと思う。未だ同僚を許していない私は正直言って関わりたくなかった。

「俺、お前に謝りたくて」

弱々しく発する同僚のその声に苛立ちを覚えた。あんな事をしておいてよくそんな事を口に出来たものだ。怒りを通り越して呆れた私は溜め息をひとつ吐く。もう二度とあなたの言葉を信じないと決めてるの。睨み付けて同僚に言い放つとますます居づらそうに俯いた。
いつもなら傲慢な態度を取っている同僚の今の様子にますます怪訝に思ったが、正直これ以上話を聞くつもりはなかったので、止まったままの足を再び踏み出した。

「俺、お前と離れて気付いたんだ。お前に依存していたんだって」

依存、その言葉を聞いて思わず足を止める。振り向きもせず背を向ける私に同僚は言葉を続けた。

「あれからお前の事を考えて、俺はお前なしでは生きていけないと思ったんだ。それなのに大切にするどころか逆に酷い事をしてしまった。…もう遅いと思うけど、本当にあの時はすまなかった」

何をいまさら。そうやって謝れば済むと思っているの?何度も嘘を吐かれ、悔しく嘆いた日々を思い返せば、同僚にますます怒りが込み上げた。

「また嘘をつくの?あなたって懲りないのね」

嫌味のひとつでも言ってやろうと同僚に詰め寄った。一体どんな顔しているのだろうか。未だ俯き地面を見やる同僚を睨み付けようと顔を覗き込めば、頬に流れる物に驚愕して、え、と小さく声が漏れた。

「何で泣いてるの」

あの冷酷で残忍な同僚が止めどなく涙する姿に思わず問い掛けた。同僚は私に顔を背けるとごめんとまた一つ謝罪する。
同僚の涙を目にした事で戸惑ったが、まだ同僚を信じることが出来ない私は平常心を取り戻そうと深く息を吸い込んで口を開いた。

「…あなたのした事、私はまだ許せない。それはこれからもずっとその気持ちは消える事はないと思う」

こちらに背を向けて涙を流す同僚はいつかの自分と重なって、カカシと一緒に朝日を見たあの日を思い出した。私もこうやってカカシの前で泣いたんだった。
認めたくはないが、同僚の口から発せられた依存という言葉に共感してしまった私は未だ顔を手で覆い、涙する同僚に声を掛けた。

「でも、あなたの気持ちはなんとなく分かるよ。私も依存している相手がいるから」

私の言葉に驚いたのか同僚は顔を上げて私を見た。同僚の目は赤く腫れていて、濡れた瞳にまた一つ記憶が蘇る。そうだ。あの日、私もカカシの事を依存してしまうと告げたのだ。そしたら彼は依存しても良いと口にした。
同僚に言われてみて初めて気付いたが、依存される側は重く苦しい。それでも受け入れてくれようとしたカカシはどんな気持ちだったのだろう。

「あなたの気持ちには応えられない。でも、もし、次に好きになる人がいたら大切にして。相手の幸せを願えるようになって」

それは同僚に掛けた言葉なのに自分に言い聞かせる言葉のようで。正論を口にしながらもこれから先に彼以上に好きになる人などいないだの、相手の幸せを本当に願えるかだの、矛盾した気持ちが募るばかりでどうしようもない。

「えんどう、変わったな。なんていうか、芯が強くなった」

俺が言うのもなんだけど。同僚は照れ臭そうに言い放った。生まれて初めて言われた言葉に戸惑いを隠せない私は狼狽する。そんなわけない。さっき同僚に言った言葉だって偽りの言葉だ。不安定で優柔不断でどっちつかずの私が芯なんてある筈がない。

「そうさせたのはあの忍の男なのかもね」

あの忍の男とはもちろんカカシの事だ。咄嗟に同僚の顔を見ると、同僚は私を見て柔らかな笑みを浮かべていた。この人もそんな顔するんだ。驚きつつ、先程言われた言葉の意味を考えて返す言葉を探したが、見つからず俯いた。

「何かあったか分からないけど、えんどうとアイツがうまくいけばいいな」

私の様子を察してか、同僚は語り掛けるように言った。うまくいけばいいな。励ましてくれているのだろうがそんな事、永遠にないだろう。小さくありがとうと礼を言うと同僚はじゃあなと手を振り去って行った。
遠ざかる背中をしばらく見つめて、まるで私みたいだと同僚と自分を重ね合わせた。
好きな相手を傷付けて、大切にしたいと思えばそれはもう遅くて。掛け違えたボタンが一つずれれば、それは永遠に戻る事はない。ずっとそのままだ。

ふと冷たい風が吹けば、髪を攫って首に巻いたマフラーのフリンジが楽しそうに揺れた。
帰ろう。そう呟き、私は家路を再び歩き出した。


***


それから暫くしたある日、仕事が休みだった私はリビングのソファで読み掛けの本を読んでいた。昼下がりの時間帯もあって、窓から温かい日差しが入り込み、睡魔が襲う。このまま寝てしまおうか。本をソファの隅に置いて重い目蓋を閉じた。柔らかな日差しが気持ちいい。これなら容易く眠りにつけるだろう。

ーーピンポンー…

ふいにインターフォンが鳴り響いた。さっきまでの眠気が一気に吹っ飛んだ私はソファから勢いよく飛び上がった。スリッパも履く事も忘れて急いで玄関まで向かう。
あの人だったらいいな。性懲りもなく扉の向こう側に期待するのはやっぱりカカシのことで、どこまでカカシの事が好きなんだと自嘲しつつ淡い期待を込めてドアを開けた。

「チフユ」

名を呼び、扉の外に立っていたのは待ち侘びた白銀の髪の男ではなく漆黒の長い髪を持ち、赤の似合う彼女だった。

「ーー紅?」

名を呼ぶと余程慌てて訪ねて来たのか、彼女の髪は乱れ、美しい顔は酷く窮した表情で私を見ていた。どうしたのだろう?問い掛けようと口を開く前に彼女は私の腕を引っ張った。

「チフユ、一緒に来て」

カカシが大変なの。そう言い放つ紅の言葉に一瞬、時が止まる。カカシが大変?理解出来ず、ただ呆然とする私に紅は落ち着いて聞いてねと前置きした。

「カカシが任務中に怪我をして倒れたの」

真っ赤な唇から発する言葉にどくんと心臓が波打った。同時に身体が震え、紅を見つめる。紅は腕を掴む手を離すと私の手を握り、燃える様な真っ赤な双眸で見つめ返した。

「長期任務で他里に行っている最中、敵に襲撃されたカカシは仲間を庇ったの。それで大怪我を負いながら木の葉に戻って来て、」

続く紅の言葉が頭に入って来ない。それよりもカカシは無事なのか。ちゃんと生きているのか。聞きたくても怖くて出来ない私は縋るように紅の手を強く握った。どうしよう、カカシが死んでしまったら。どうしよう、

「カカシはどこにいるの?」

ようやく絞り出せたのは弱々しく小さな声で。頼りない自身の声に更に不安を煽る。

「木の葉病院よ。でも、あっ、待ってチフユっ」

いても立ってもいられなかった私は続く言葉を聞かずに家を飛び出した。
遠くで紅が私の名を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らずに走り続けた。私の住むアパートから病院まではそう遠くない。走れば間に合うだろうか。

「痛っ、」

小石に躓いて大きな音を立てながら派手に転んだ。人々の視線が集まり、遠慮なしに好奇な目で見る者もいれば心配して声を掛けようとする者もいる。
気にせず起き上がり膝を見ればストッキングが伝線して血が滲み出ていた。じんじんと痛む感覚に泣きそうになる。違う。カカシがいなくなってしまうかと思うと怖くて涙が出て来るのだ。
ああ、どうか神様、彼を助けてください。どうか、どうか。
縋るように願いながら立ち上がり、汚れた服も払い除けず再び走り出した。

「チフユ、どうしたんだその格好」

病院に着き、事務員にカカシのいる部屋を訊ねようと口を開き掛けた刹那、ロビーからやけに目立つ大柄な男に話し掛けられた。その姿を見て少しだけ安堵する。…アスマだ。

「怪我してるじゃねぇか」

マスマは私の膝を見るなり眉を潜めて痛いだろ、と口にした。私の怪我はいいの。それよりカカシはどこなの。アスマに詰め寄り、そう問い掛けるとアスマは先程の紅のようにみるみる困窮した顔付きに変わる。やだよ、そんな顔しないでよ。

「こっちに来い」

大きな体の割に小さく呟くアスマを見て嫌な予感が頭によぎる。アスマの広い背中に遅れを取らぬよう着いてゆくが、恐怖を感じて鉛のように重い足は思うように動かない。どうしよう、カカシがいなくなったら。そんな事ばかりが頭に浮かぶので、振り払うように動かぬ足に力を入れてアスマの背中をただひたすら追い掛けた。

「ここだ。でもなぁ、チフユ」

案内された病室の入り口にはカカシの名が書いてあり、胸がざわつく。震える手で戸に手を掛けようとする私を見てアスマは言いづらそうに私の名を呼んだ。

「分かってる。覚悟は出来てるから」

アスマが言いづらいのなら無理して言わなくていいよ。そう口にすればアスマは硬い表情のまま頷いた。意を決して戸を横に引く。音を立てて開けた扉の先には病院特有の白い壁が広がっていて、幾つかあるベッドの内に一ヶ所だけカーテンに囲まれたベッドがあった。きっとそこにカカシがいる。

閉ざされたカーテンまでゆっくり近付き、小窓から入る風で揺れた布に手を掛けた。さっとそれを引いて中を恐る恐る見渡すと最初に視界に入ったのは最後に目にした時と変わらない、窓から漏れる日差しに照らされた眩い白銀の髪があった。
ーーカカシだ。その体には痛々しく包帯が巻かれ、うっすらと血が滲み出ていた。顔を覗き込めば、顔色はいつもより蒼白く、息をしているのかさえわからない。
額当てをしていないのでいつもより露わになった長く伸びた睫毛は伏せられている。左の頬まである傷跡が相変わらず痛々しいが、その傷跡を見てやはりカカシだと認識させた。


「カカシ」


ようやく振り絞るように発した声は広い病室に響き渡り、消えた。返事もなく目を瞑るカカシを見て相変わらず足の震えが止まらない。
嫌だ。カカシ、目を開けてよ。縋るようにカカシの冷たい手のひらを思わず握る。当然ながらその手に握り返される事もなくてますます恐ろしくなり、何度も強く握った。

起きてよ、ねぇ。カカシ。

こんな事ならもっと話せば良かった。あんな態度取るんじゃなかった。…もっと早く好きって伝えれば良かった。きりがないカカシへの思いが止めどなく溢れ出て息が苦しい。

『いなくなってから後悔しても遅い』

あの日、ベランダで悲しそうに呟くカカシの言葉を思い出した。本当、カカシの言う通りだ。こんな形であの言葉の意味が分かるなんて。私、馬鹿だ。カカシは後悔しないよう、教えてくれたのに。

「私、カカシが好き」

気付けば唇から溢れた。思いを告げて耳を澄ましても返してくれるあの優しい声は聞こえない。伸ばした手の先で消えるものほど惜しくなる。何もかもが遅かった。握り返されることもない手の力を緩め、離そうとすると冷たい指先がぴくりと微かに動いた。

「ーーチフユ?」

同時に聞こえたのは何度も耳にした低いあの声で、驚いた私は咄嗟に声の主を見た。
薄く開いた瞼から覗く血のような赤い左の瞳と闇に溶け込むような影色の右の瞳。色違いの双眸が私を捕らえていた。

カカシ、カカシ、

気怠そうに見つめるカカシは上半身だけ起き上がろうと力を入れたが、傷口が痛むのか顔をしかめてバランスを崩した。咄嗟に背中を支えると、彼は苦痛の笑みを浮かべ、ありがとうと口にした。

「カカシ、大丈夫なの?」
「オレは大丈夫だよ。お前こそ大丈夫なの?…膝」

カカシに言われ自身の膝を見ると破れたストッキングから覗かせた膝小僧から、どくどくと血が滲み出ていた。そうだ。私、転んだんだ。カカシの安否を気にしてばかりで傷口など気にも留めていなかったが、無事だと安心した途端、痛みが一気に押し寄せた。苦笑しながら痛いかもと口にするとカカシは呆れたように嘆息を溢した。

「本当ドジだね。チフユ」

久しぶりに見たカカシの笑顔に嬉しくなったが、同時に胸が苦しくもなった。とりあえずこれで止血したほうがいいとポーチから取り出したのは白い清潔な布。自分の怪我の方がずっと痛い筈なのに相変わらず私の心配をするカカシは優しい。それなのに避けるような態度を取ってしまった自分に罪悪感を感じ、思わず涙が出て来そうになった。

「死んじゃうのかと思った」
「オレが?」
「だって紅もアスマも今にもカカシが死んでしまいそうに言ったから」
「あの二人がね…」

思い当たる節があったのか、カカシは合わさっていた視線を逸らし、アイツら次に会ったら許さないだの何だの紅とアスマに対して悪態を吐いていた。その姿を見てほっと胸を撫で下ろした。思った以上に元気そうだ。

「でも、本当に良かった。カカシが生きていて」

目の前にいるカカシを見て抑えきれず、思わず抱き締めた。

「ちょ、チフユ、」

カカシは驚いたのか、咄嗟に私の腕を離そうと力を込めたが、それでもなおしがみつく私に諦めて抵抗するのをやめた。
良かった。本当に良かった。カカシが生きてた。ちゃんといる。じわりと涙が瞼から溢れた。

「いい加減、「私、カカシが好き」

カカシの言葉を遮り、募る思いを告白した。ようやく体を離して見ると、目を丸く見開いて驚くカカシがそこにいた。

「カカシに彼女がいるのは知ってる。だけど、気持ちを伝えたかったの」

だって、もしかしたら当たり前の明日が来ないかも知れない。そしたらきっと、さっきのように後悔して嘆くだろう。
後退りをして過去ばかりに囚われるのはもう、うんざりだ。だったら私は過ぎてゆく日々に振り向くより前を向いて堂々と明日を迎えたい。例え不毛な恋でも、断れても、告げないで悔恨に思うだけは絶対に嫌だ。
未だ鳴り止まぬ心臓の鼓動を感じたまま、真っ直ぐカカシの目を見つめた。


「…ごめん」


合わせた瞳を逸らし、カカシは小さく返事をした。その答えにやっぱりなと落ち込む。だが、不思議とすとんと胸に入り、納得する自分もいた。最初から答えは分かっていた。言えただけそれでいい。私はカカシに微笑んだ。

「ううん。カカシに告白出来て良かった。ありがとう」

礼を口にすればカカシはますます俯き頭を下げて項垂れてしまう。違うの。そんな顔をさせるために告白したんじゃないの。自分の気持ちを整理したかっただけだから気にしないで。そう口にすればカカシは弱々しくまた一つ、ごめんと呟いた。
カカシと出会えて良かった。好きになれて良かった。誰かを好きになり、想いを告げるなんて昔の自分だったら考えられなかっただろう。自分が変われたのはやはりカカシのおかげだ。同僚に言われた言葉を思い出し、あの言葉もあながち間違っていないなと苦笑した。
あの日、自分に言い聞かせるように同僚に告げた言葉も今だったら素直に言える。

どうかカカシとあの彼女が幸せでいられますように。カカシがずっと笑って生きられますように。
未だ頭を下げて俯く白銀の髪を持つ彼を見て、そっと小さく祈った。


密かな願い





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