決して叶わぬ恋だった。カカシには付き合っている人がいて、その恋人はカカシの部屋にいた忍のあの女性。

過酷な忍の世界で生きるカカシと守られて生温く生きる一般人。誰がどう見たって明らかに不釣り合いだ。だから忍の彼女は相応しかった。当たり前なこと。

『あなた、カカシさんを殺す気?』
『私だったらそんな事しない。大切な人だもの』

本当、そう。一番カカシの事を理解しているなんて思った自分が甚だ図々しい。彼女の方がずっとカカシを支えられる力を携えているのに。なんで私の方が彼を理解しているなんて思ったのだろう。彼女の言葉を思い出すたび、そう後悔した。

この気持ちは自分の胸の内にだけ収めておこう。これ以上募らせても苦しいだけ。せめてこの気持ちが消えるまでカカシとは距離を置こう。

柔軟剤を入れずに洗い直した毛布を紙袋に入れてカカシの部屋のドアノブに掛けた。ありがとうと書いたメモを入れておけばカカシの事だ、察するだろう。

入浴剤、渡したかったな。

カカシに渡そうと用意した入浴剤が入った白い箱は紙袋から抜け落ちた所為で黒く汚れてしまった。
これで良かったのだ。強い香りを放つ入浴剤をプレゼントされても迷惑なだけだ。女性のあの言葉を思い出して、また胸が痛くなった。

ーーどうせ捨てるだけだ。だったら自分で使ってしまおう。

テーブルの片隅に置いた薄汚れた箱を見てそう思い立ち、入浴剤を手に取って風呂場に向かった。
体を洗い、その間に浴槽にお湯を汲む。しばらくして湯が張った浴槽を覗き込めば、情けない自分の顔が水面に浮かんでいた。

なんて酷い顔。

自嘲して、顔を消すように入浴剤を入れた。緑掛かった乳白色がじわりと霧の様に広がり、たちまち私の顔を消してゆく。
同時に強く放つ香りが鼻につき、苦笑した。

確かに、こんなに強い匂いだと駄目だよね。

思い出すのはやはり彼女のあの言葉で。忍の彼女だからこそ知識があり、彼を守る事が出来る。守られてばかりいる私には到底敵う相手ではないと苦い感情が胸に広がった。

目を閉じてしばらく湯に浸かっていると隣からシャワーを浴びている音がした。どうやらカカシも風呂場にいるようだ。ドキリと心臓が跳ね上がり、焦燥感に駆られる。まだ暖まりきれていない身体を起こして浴槽から出た。

カカシの事、考えたくないのに。

着替えて寝室に戻り、ベッドに倒れて突っ伏した。隣の住人の事を頭から振り払うように読み掛けの本を開いてみたが、それでも頭に浮かぶのは彼の事ばかりで本の内容など到底、頭に入っては来なかった。

ーーコンコン

…カカシだ。いつもならその音が耳に入れば、たちまち嬉しくなるのに今日は気持ちが沈んでゆく。居留守を使うにしても私の気配など、以前のように容易く見抜いてしまうだろう。しばらくすると案の定、私の名を呼ぶ低い声が聞こえた。

「チフユ?」
「…ごめん、今日は会いたくない」
「どうかした?」

黙り込む私に何か察したのか、カカシは優しく包み込むような声色で私に訊ねた。
やめて、そんな声しないで。カカシの優しさを疎ましく思う自分はつくづく身勝手で我儘な人間だ。

「明日は?会える?」
「会えない。…明日も、ずっと」

壁越しの私達の会話は静寂なこの部屋でやけに響き渡る。カカシはしばらく間があった後「そう」と、小さく返事をした。カカシはどう思っただろうか。私を嫌いになっただろうか。

ごめん、違う。本当は会いたい。

言いたくても口にできないその言葉は息を詰まらせ、喉の奥で刺さるように痛みを与える。
きっとこれ以上カカシに会ったら好きを募らせてしまうだろう。そしたら私は歯止めが効かなくなる。もっと好きになってしまう。

薄い壁の向こう側にはすぐ近くに彼がいるのに遠くにいる様な気がして。部屋を仕切る壁に額をつけて、そっと指先で壁を撫でた。ごめんね。再び心の中で詫びると余計に切なさを感じて、目を閉じた。


***


「ほら、チフユ。これ食べて元気出して」

あれから数日が経ち、紅は長期任務の後、わざわざ部屋まで会いに来てくれた。彼女は憔悴した私の顔を見るなり、美味しい物でも食べに行きましょうと部屋から連れ出した。

「ありがとう。心配かけてごめんね」

訪れた場所は初めて紅と出会った定食屋だった。店内が活気で賑わうなか、私は暗い気持ちのまま紅に笑みを向けた。紅はぎこちない私の笑みを見ると眉を潜め、未だ心配そうに見つめる。それでも私の気持ちを察して何があったとは聞かない。美味しいものを食べれば元気になるわよ。そう言って励ましてくれる彼女の優しさが私は好きだった。

「そういえばアスマは元気?」
「ええ、元気よ」

紅は相変わらず優美な笑みをこちらに向けて答えた。そういえばアスマとも久しく会っていないな。たまにカカシの口からアスマの名が出てきた事もあったけど。ここでもカカシの事を思い出す自分にうんざりした。…そういえば、紅とアスマも忍同士のカップルだ。やはり忍同士で付き合う人は多いのだろうか。

「紅やアスマのように忍同士で恋人になる人って多いのかな」
「え?」

思っていた事がついぽろりと唇から漏れた。私の呟くような問い掛けに紅は目を見開いて驚いた声を上げる。そしてしばらく考え込むようにそうねぇと顎に手を置くような仕草を見せると結んだ赤い唇が再び開いた。

「チフユが言う通り、忍同士で恋人になったり夫婦になる割合は高いわね。私達は不規則な生活だし、長期任務でしばらく里を離れないといけない時もあるから。そういう点で互いに理解し合える忍を恋人に選ぶ人は多いわ」

紅の言葉に愕然として落ち込む。やっぱりカカシと私では住む世界が違い過ぎて不釣り合いなんだ。なんで私、忍じゃなかったんだろう。単純で稚拙な思考を巡らせれば、常に死と隣り合わせの忍達へ浅はかな考えだと気付き、ますます落ち込んだ。

「カカシと何かあった?」
「え?」
「最近のカカシとチフユの様子が一緒だったから」

最近といっても長期任務から帰ってきたばかりでカカシと会ったのは昨日だけど。そう言葉を付け足した紅は本当に心配そうな顔をしていた。滅多に何かあったか聞かない彼女が訊ねるのだから余程心配しているのだろう。申し訳ないと思いつつも紅が言った、私とカカシが一緒だという言葉に引っ掛かった。

「カカシ、どうも元気ないのよ。心ここにあらずというか以前のように殺伐したカカシに戻ったというか」

だからチフユとの間に何かあったのかと思って。

それでなんで私なのだろう。聞こうとしたが、店員が料理を運んできたので、問うタイミングをすっかり逃した。目の前に置かれた料理は日替わり定食の秋刀魚の塩焼きだった。こんな時期に珍しいと思い、頼んだのだ。箸でつまんでひと口食べてみると旬でもないのに脂が乗っていてじわりと旨味が口内に広がった。

そういえば、4人で居酒屋で集まった時にカカシはやたら壁に貼られた秋刀魚の塩焼きと書かれた紙を見つめていたな。好きなのかな、秋刀魚。本日何回目か分からないカカシの顔が浮かび、悲しくなった。

会いたいな。話したいな。

願望は膨らむだけで叶わない。いや、叶えてはいけない。そう思えば思う程、心に矛盾が生じていった。

「じゃあ、私これからまた任務に行かなくちゃいけないから。ねぇ、チフユ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ。今日はありがとう」

無理矢理口角を上げて見せるが、作られた笑みを見抜いた紅は眉を潜ませる。空気を変えるように任務遅れちゃうよ、ほら。と促すと彼女はそうね、と名残惜しく頷いた。

「何かあったら言うのよ」

去り際に振り向いて声を掛ける紅の優しさに胸が苦しくなる。本当は言いたい。声に出して全てを曝け出してしまいたい。けど、自分の気持ちを誰かに告げてしまえば、好きの気持ちを抑えきれなくなる。臆病者の私はどうしても打ち明ける事が出来なかった。

紅と別れた後、暇を持て余した私は商店街をぶらぶら歩いていた。一通り店を見てみたが、特に目を引くものもなく、時間が過ぎるだけだったので帰る事にした。

空を仰ぐと太陽が赤に染まりかけていた。私は夕方が一日の中で一番好きだった。カカシとベランダで会える夜が近付いている証拠だったから。

ふと通りすがりに母と手を繋ぐ子供と目が合った。よほど手を繋ぐのが嬉しいのか子供の頬はあの夕日の様に赤い。純粋で無垢な子供を羨ましく思いつつ、子供に微笑み返すと照れてしまったのか目を逸らされてしまった。

私もあんな風に純粋な気持ちでいられたらーー

続く言葉は考えても何も意味を持たないのでやめた。いつの間にかアパートに着いていた私は足を止めて自室の前で鍵を鞄の中から取り出していた。鍵を開けてドアノブを握ろうとした瞬間、隣の部屋の扉が開く音に気付き、心臓が跳ね上がった。

「チフユ?」

聞き慣れた何度も聞いた声は微かに戸惑うような声色も混じっていて、こちらの様子を窺っているようだった。恐る恐る声の主に視線を向ければ、一番会いたくて会いたくない人が立っていた。

「カカシ」

思わず熱を帯びた声でその名が唇から漏れてしまい、はっとする。駄目だ。これ以上カカシといたら伝わってしまう。愛しさが溢れてしまう。
我に返り、鍵を開けたドアノブを回して扉を開けようとしたが、大きい手のひらが手首を掴み阻止した。

「なんで避けるの?」

オレ、悪いことでもした?そう口にするカカシの目は弱々しく瞳が揺れていた。初めて見るカカシの表情に胸が苦しくなる。

「…してないよ、だから離して」
「離さない」

抵抗すればするほど私の手首を掴むカカシの手の力が強くなってゆく。
こんな怖いカカシ初めてだ。ぎしりと音を立てて骨まで軋んでしまいそうな痛みは同僚に腕を掴まれたあの日を思い出してしまう。
カカシは冷たい目を向けて私を見下ろす。恐ろしい。怖い。

「…離してっ」

声を上げてようやく手を振り払った。手首がじんじん痛い。カカシの顔を見るのが怖くなり、彼の足元に視線を向けると一歩、私から退く足が見えた。

「…ごめん」

ぽつり、微かに聞き取れる声で呟くように謝るとカカシはこちらに背を向けて歩きだした。猫背気味のその背中はまるでどうしようもない重い荷を乗せている気がして。いつもより曲がっている背中を見れば、自分がいかに彼を傷つけてしまったのかを思い知らされた。

「ごめん、ごめん」

遠ざかる背中に何度謝ってもこの場にいない彼には届くこともなく、声は冷たい空気に無残に散ってゆく。涙が零れ落ちそうになったが、泣くのは間違っていると思い、咄嗟に空を見上げた。
廊下の手摺りと屋根の間から覗く空は、燃えるような夕日の赤と一番星が映える夜の紺色が混ざり合っていて、カカシと一緒に見たいつかの朝日が昇る色に似ていた。

もう二度と二人で同じ景色を見ることはない。

目に焼き付けるようにあの夕日を見続けた。


戻れないあの日





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