以前のように戻る事は容易い事だった。
つい最近までの自分のように一人で起きて一人で食事して一人で眠りにつけばいい。
寂しくなんかない。ただ、前のように戻っただけ。

戻っただけ。

そう思うのに、心にぽっかり穴が空いたような空虚感に苛まれている自分がいて、その気持ちを閉じ込めるように固く蓋をした。

あの日以降、紅は私を心配して度々部屋を訪れて来てくれたが、私は体調が悪いだの用事があるだの嘘をついて拒んでいた。
その度に申し訳ない気持ちでいっぱいになっていたが、父の事を話して嫌われるよりはよっぽどましだった。
ガチャリ、隣の部屋からドアを開ける音に反応して肩を震わせた。続けて部屋を歩く音がしたので恐らく部屋の主が自室に帰って来たと理解する。ふと、時刻を確認すると短い針は朝の6時を指していた。

朝帰り。任務帰りなのか。それとも女性の元から帰ってきたのか、

やめた。私には関係ないことだ。
深呼吸をして気持ちを切り替える。それよりも仕事に行く準備をしなくちゃ。

…引越し、視野に入れてみようかな。

シャツのボタンを掛けながらぼんやり思った。今いる部屋は日当たりも良いし家賃も手頃で気に入ってるけど、やはり隣人の物音を聞いただけで右往左往する生活なんて嫌だ。いや、それ以前に父が用意した部屋というのが一番引っかかる部分でもあった。

よし、そうしよう。

身支度を整えて、ドアを開けた。
今日は一段と冷えた朝だ。マフラーを巻いてくれば良かったな、冷たい空気に晒された首を竦めてそう後悔した。


***


「なあ、えんどう。今日、会社帰り空いてるか?」
「え、」

勤務中、隣の席で私に話し掛けて来たのは且つて体の関係であった同僚だった。最近ではめっきり挨拶するだけだったのに突然話し掛けられた事に驚く。余程ぎょっとした顔で同僚を見ていたのだろう、同僚はそんな顔するなよと言いたげに私を呆れた目で見た。

「久しぶりに飯でも食べに行こう」

飯、その言葉を本当に信じて良いのか悪いのか。これまでに一緒に食事をして来て楽しい思い出など一つもなかった。いつも食事をした後は体を求められていたし、何より同僚と食べるご飯は紅と一緒に食べる食事よりもうんと不味かった。
私が悩んでいる事を察したのか、同僚は大丈夫だと口にする。何回その口車に乗せられた事か。指折り数えてもきりがない。

「ほら、今までのお詫びにご馳走したいからさ」

同僚の顔は絶対に断らせないと笑みを貼り付けていた。こうなると後々面倒になるのを私は知っている。半ば強引の同僚に渋々快諾した。
‥どうせ前の生活に元に戻りつつあるのだから、いっか。そんな投げやりな気持ちに身を任せた。

「ここの店、美味くて有名なんだよ」

いつもは会社近くの手頃な居酒屋に行っていたが、今日は違った。
洒落た外観に少しの量でも値が張る料理達。本当に今日はどうしたものか。訝しげに目の前に座る同僚を見れば、すかさず乾杯しようと私にワインが入ったグラスを傾けた。

「で、えんどうはさ、隣の部屋の男とどこまでいったわけ?」
「は?」

ナイフで肉を切る事に集中していた私は素っ頓狂な声を上げて同僚を見た。同僚は相変わらず貼り付けた笑顔を私に向けている。意味が理解出来ず言葉を失う私に痺れを切らせたのか同僚はだから、と苛立ちながら言葉を続けた。

「あの男と付き合ってるんだろ」

予想外の言葉に驚きを隠せないでいた。え、待って。なんでそんな事になってるの。冗談で言っているのかと同僚の顔を伺ったが、見た限り冗談ではなさそうだった。

「…付き合ってないよ」

私が小さく否定すると同僚はやっぱりな、確信したように鼻で笑った。同僚の高圧的な態度に苛立ちを覚えたが気を紛らわせるように切った肉を口に運んだ。相変わらず同僚と食べる料理には味がしない。それがどんな高級な食材を使ってもどんな有名な料理人が作っても同僚と一緒に食べる限り同じなんだろうと気付いた。

それに比べ、紅と一緒に食べた料理は本当に美味しかったな。

「絶対おかしいと思ったんだよ。アイツに言われた時は疑ったけど、最近のお前を見てるとやっぱり違うだろって」

品もなく背もたれに寄り掛かって高慢な態度で話す同僚にここ一応高級レストランなんだけど、そう注意しようとしたが開きかけた口からは意に反して違う言葉が漏れた。

「アイツに言われた?」
「だから、部屋の隣人。口元隠して変な色の髪をした男。お前と付き合ってるから俺に近寄るなって言われたんだよ。まんまとはったりかまされたわ」

得意気に話す同僚の言葉が耳からすり抜けてゆく。違う。はたけさんは嘘を吐いたんだ。いくら鈍感な自分でも分かる。その嘘は優しい嘘であって、

ーー私を同僚から守るための嘘。

その後、目の前で饒舌に話す同僚の会話がまともに頭に入って来なかった私は「うん」だとか「そうだね」だとか相槌を打つ事が精一杯だった。
それよりも頭に浮かぶのははたけさんの事ばかりで、なんで彼にあんな事言ってしまったのだろう。なんであんな態度取ってしまったのだろう。後悔ばかりが私を支配していた。

「…で、これからどうする?」

同僚は会計を済ませ店を出た後、私に問いかけた。これからどうする?この言葉の意味は俺の部屋に来い、だろう。今まで食事をした後に幾度も聞いてきたものだったのですぐに理解できた。
でも今日は出来ない。帰って謝らなくてはいけない人がいるから。はたけさんは部屋にいるだろうか?

私はご馳走してくれた同僚にお礼を述べて帰ろうとした。

「おい、待てよ。奢ってやったのにナシかよ」

グイ、強く腕を掴まれて思わず重心のバランスが取れなくなる。同僚は転倒しそうな私の事など構いもせずに言葉を続けた。

「いいだろ?前みたいに、なあ?」

アイツとも付き合ってないんだし。先程まで貼り付けていた笑顔がそこにはなかった。ただ無表情でこちらに目を向ける同僚を見て初めてゾクリと背筋が凍り付く。けど、私はどんなに同僚に脅されても跳ね返さなくてはいけない。
はたけさんは私の為に嘘を吐いてくれたのだから、自分を守らないといけない。

「…いや、離して」

ようやく出せた声は本当に微かなものだった。私は自身の腕を強く掴む同僚の手を引き離そうとした。
ちっ、頭上から舌打ち音が聞こえる。同僚の顔を見上げれば、何故言う事を聞かないんだと言わんばかりに私を睨み付けていた。
私は意を決して、もう一度大きく息を吸って震える唇で声を発した。今度は先程よりも大きく、はっきりと

「お願い、離して」

負けないくらい同僚を睨み付けて言ってやった。同僚の顔はみるみる内に赤くなってゆく。一目で怒りに満ちた表情だと分かった。同僚は私の腕を掴んでいた右手をより一層力を込めて握り、反対の左手は高く突き上げていた。

ーー殴られる。

振りかざされた左手の光景を最後に私はぎゅっと目を瞑った。


「だから関わらない方が良いって言ったじゃないの」


やって来たのは痛みではなく、低く重く、いつか聞いた威厳のある声だった。
同時に掴まれていた腕の痛みも消えた事に気付き、恐る恐る目を開けると色違いの目を持った彼が立っていた。彼は私と目が合うとすぐに視線を逸らし、背を向けてしまった。その背中は、少しだけ猫背気味の深い草色をした広い背中だった。

ひゅるり、夜風が吹いて美しい白銀の色をした髪が緩やかに揺れた。


夜に包まれた





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