きみの、いき  漆




 * * *






 光志さんの家から帰ったあの夜、ひたすら考えて、考えて、考えて。

 その翌日も、どうしたらいいのかをずっと思案していた。

 光志さんを想う気持ちは変わらないまま、伊織の姿も頭の中にずっとあり。

 光志さんは俺を真っすぐに想ってくれて、伊織はいつも影からやさしく支えてくれる。どちらがいいも悪いもない。

 ……それでも、二日間考え抜いて、ほんの少し、一筋だけ僅かに輝く自分の気持ちが見えたような気がしたんだ。




「…あのな、いい加減気付け。また騙されてるってことに」

 突如伊織に言われて、言葉を失った。

「俺はお前のことなんかなんとも思ってねえ。光志にフラれてからお前を慰めたのも……ずっと傍にいたのも、全部、頼まれてやったことなんだよ」

 そんな馬鹿なこと、あるはずないと思ったけど。

「この親父に慰めろって頼まれたから、俺は今までお前に付き合ってやってたんだ。お前があまりにも痛々しく見えたらしいからな。……そうだろ、親父?」

 物陰からはその張本人である直樹さんが出てきて、さらに伊織からの問いに頷いた。

「……ああ。悪かったな、唯……」


 光志さんに付き合うように頼んだ直樹さんが、別れて傷ついた俺を慰めるのも伊織へ頼んだ?

 当本人が認めているというのに、どうしてもその事実を受け止められなかった。

「正直もうお前の相手するのにも疲れていたからな、いつこんな日が来るか楽しみだったぜ」

 ──嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 そう思うのは、そう「思いたい」自分がいるからだと気付いた。


 
 伊織は二階にのぼっていってしまった。

 そのまま立っている直樹さんは、気まずそうに咳払いした。

「……唯、光志は間違いなくお前のことが好きだ。自分の息子がそうであることに何とも思わないと言えばそうでもないが……否定はしない。光志なら……お前を大切にしてくれるだろう」

「……分かってる」

 光っている携帯を開き、メールボックスを開くとそこには今まさに直樹さんが口にした名前があった。

『元気?
今日は俺、久しぶりにロールキャベツ作ったよ
調子乗って結構作り過ぎちゃった
いつか唯にも食べてほしいな

唯、あとな 迷っていて辛いなら、俺に縋ってきていいよ
利用してもいい
とにかく辛かったら、俺のところに一度おいで
まあ、俺が会いたいだけかもしれないけど』

 ……光志さんらしい、真面目で俺のことをよく考えてくれているメールだ。
 文面を見ていたら少し涙腺が震えて、慌てて抑えた。最近の俺は涙腺が緩みっぱなしだ。

 携帯を閉じてもまだ直樹さんはそこにいた。



「唯、今月の給与明細を渡しておく。振込はいつも通り明日だ」

「……今ここで?」

「……今ここで、だからだな」

「……?」

 直樹さんの言動が分からない俺は、どこかに消えてしまった彼を待っている間何も動かなかった。

 やがて直樹さんが廊下から数枚の紙切れを持ってきて出てくる。

 内一枚は俺のだろうけど……あとの紙は何だ?

「これも全部、給与明細だ」

 かつて二枚以上も渡されたことがなかったから余計に意味が分からない。

「約束は破るがな。あいつは……怒るか。まあ、怒られてもいい」

 ぼそぼそと不明瞭に呟いてから、直樹さんは俺にその全部を差し出した。






 玄関の端にある傘立てから青いものを選んで柄を握る。伊織に言われた通りに俺はそれを差して自分の寮へ持ち帰った。

 振り騒ぐ雨脚は風がないからか真っすぐだ。真上に差していれば光志さんの傘はちゃんと俺を雨から守ってくれた。

 夕立だったのか、雨はピークに達してからは急速にやんでいく。

 家に着くころにはもう既にぽつぽつとしか降っていなかった。日差しもさしていたから、外に傘を開いておいて置く。乾いたらちゃんと光志さんに返せるように。

『会いたい』

 とにかくその四文字。
 それだけ打って、返信にした。




『遅くなってごめん。明日、会える?』

 そうやって返信が来たのは一週間後だった。

 それまでは普通に登校し、普通に学校生活を過ごしていたけれど、その間伊織とは一度も視線を交わすことはなかった。



 昼休み、俺自身も例のいつも一緒に食べていた場所へは足を踏み入れなかった。
 一度だけ伊織が来ている日の昼休みにその場所を遠くから確認してみたけど、風のみが吹き抜けていた。

 少し前までだったら廊下ですれ違ったら少しは話くらいしていたのに、俺が少し伊織の方を見ても、相手は前を見てその横を通り過ぎて行った。

 俺の存在なんか、無視するように。




『明日 大丈夫だよ』
『じゃあ噴水で。なるべく人がいない方がいいだろうけど…夜でいい?』
『うん』
『8時くらいに』

 約束のメールはいつも簡潔だ。

 この一週間、仕事は休んでいた。学校が終わってそのまま帰宅して、やることがないからなんとなく勉強して、それからまたボーッとしての繰り返し。

 暇と言えば、暇だった。
 それに体力が余って仕方ないのか中々寝付けない。

 その代わり授業中に寝てしまうから結局いつもと変わらずだ。

 今日はなんとか寝ないよう努めたら、逆に先生に奇妙な眼で見られて複雑な気分だった。

 寝なかったから夜の今にちゃんと眠気が襲って来ている。ようやく普通に寝つける、と思っているうちに携帯を握り締めたまま眠っていた。




 夢を見た。
 起きた時にはもう確かな記憶がなかったけど、温かかったような気がした。
 あの人の温もりに包まれていたんだ、と目が覚めた瞬間思った。

 頬には涙が伝っていた。
 足の爪先から、寒さが駆けあがった。



 顔を何度も執拗に洗ってから登校した。
 受験とか就職とか、進む道がそれぞれの中でみんなで騒ぎ、下らないことして笑っては周囲を困らせ、でも終わりは悟っている。

 そういう空間で俺も会話して、笑ったり、怒ったり、なんだか仕事をしていないと本当に普通の学生なんだと、初めて共有感を味わった。

 俺はこの学校の生徒なんだ。
 そんな、当たり前のようで今まで感じたこともなかった感覚を噛み締めた。

 卒業は後四カ月。益岡が言っていた通り、あっという間なのかもしれない。




 冬の公園はどことなく寂しくて、ネオンに照らされている水の勢いもどことなく弱い。水面が波打って静かに揺れていた。

 光志さんは俺より先に来ていて、俺の姿を確認するとゆっくり歩き始めた。
 公園内をぐるりと一周、小さな公園だから時間はそんなに取らない。

「もう、大分寒くなったな」
「そうだね」
「去年もこんなふうにしてたの、覚えてる?」
「……うん、覚えてるよ」

 まだ付き合う前だった。付き合う前から光志さんとはこんなふうにたまに会って、話をして。
 光志さんはどんな学校生活しているかよく聞いてきた気がしたけど、俺は彼の望むように上手くは喋れなかったと思う。



 いつかあまり話せることがなくてごめんって言ったら。

「あんなふうに、ゆっくり言葉を話してくれてる唯も、好きだったな」

 そう。
 そうやって、あのときも彼は答えた。
 俺の喋るスピードとか、声の心地とか、そういうのがいいんだ、って。

 当時の俺には理解できなくて、今の俺ならなんとなく分かる気がする。
 俺も光志さんの喋る声が好きだし、光志さんの紡ぐ言葉が好きだ。



 一周して、また噴水の前に戻って来た。

「ごめん……」

 足並みが停止したところで彼の背中に呟いた。

 ゆっくり、暗闇の中青色街灯を半身に浴びながら光志さんが俺を振り向く。

「やっぱもう、答え出てたか」

 柔和な笑みを浮かべ地面に視線を落とした彼を、俺は真っすぐ見つめた。
 いつも彼が、そうしてくれたように。

「……俺、光志さんを今でも大切に思ってる。こんな俺をここまで追ってくれて、……愛してくれて……。だけど、俺は……俺は、伊織が好きです。光志さんの気持ちには、こたえられない」

 僅かに震える声で、それでもはっきり言えば彼は片足を立てて爪先で地面を軽く二三度叩いた。

「…………結局、叶わなかったか。唯、伊織のどこが好き?」

「…伊織、自分がモデルとかして稼いだお金を、ずっと俺の給料に上乗せしてたらしいんだ」

 意外な言葉に、彼は顔を上げてこちらを見た。驚きと戸惑いが混ざっている。
 先日直樹さんにこの事実を教えてもらった俺の反応と同じだった。


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