ただ、俺を元気づけようとしているのは分かる。

 頭を悩ませる唯に笑って、その頭をぽんと叩いた。

「……サンキュ」

「……!」

 唖然とした唯の顔に紅みがさす。相手は慌てて顔を下げた。

「…つまんなよ。俺まで照れんだろ」

「や、だって急に、こんなことするし」

 身体を売ってるとは言っても心は純朴で、純粋で、本気で触れ合うことに慣れてない。

 そんなこいつを見ていると、いつも俺は自然に笑ってる。



 ……笑える。

 こいつの隣だと、俺は笑えるんだ。


 ──でも、お前は違うだろ。

「……雨、降りそうだな」

「あ、本当だ」

 上を見上げると湿った空気に分厚い雲が空を覆っている。

「降らないうちに、早く帰るぞ」

「うん」

 唯の方はまだ今日呼び出したことについて理由を聞いてこない。
 当たり前についてきて、当たり前に一緒に歩いている。

 新学期に初めて出会ってからの期間。
 繰り返して距離が縮まった分だけ、こいつの想いの強さを知った。


 家に帰る途中、目の淵が赤く染まってる唯を、相手に気付かれないように時折見ていた。



「少し濡れたな」

「少しだし、まだ良かったよ。これから降るかもしれないけど」

 会話しながら玄関を開いて家に上がった。居間に入れてタオルを渡すと唯はありがとうとそれを受け取る。


 時計を確認すると午後3時を少し回ったくらいだった。予想とそれほど違ってなく安心する。ちょうどいい頃合いだ。

「で、今日はどうしたの?」

 いよいよ聞いてきた唯をソファーに座らせ、心の内で深呼吸する。

 俺は立ったまま、唯を見下ろした。

「今日は仕事休みか?」

「うん。直樹さんに言われたから」

「……そうか」

 これも、予定通り。
 全部整ってる。準備万端だ。


「……光志に、この前会っただろ」

 濁しても仕方ないからストレートに聞いた。
 俺の言葉を聞いた瞬間唯はびくりと肩を震わせ、俺を見上げた。視線がぶつかる。分かりにくいけれど、泣きはらした目だ。

「……光志さんから聞いたの?」

「全部な。……俺とあいつの間で揺れてるんだって? 初耳だったぜ。お前、俺のこと好きなのか」

 さっき頭に触れたときのように唯はぽかんと口を開け、それからすぐに困惑をあらわにしてその瞳を揺らした。思わず抱きしめたい衝動に駆られたが、抑える。


「……んな困った顔すんなよ。正直に言え」



「…………すき……」

 消え入りそうな声で、今にも泣きそうに言う。

 やっぱマジだったのかと、そこで今更なことを痛感した。そうするとやはり胸には熱いものが込み上げて来る。

 頭を振ることでそんな自分を自制した。

 幻惑を壊さなきゃいけないのにこんなことで動揺している場合じゃない。



「お前は兄貴が好きなんだろ」

「……好きだよ。今でも、好き。でも……俺は……」

 俺も、好きで。

 言葉には出されなかったが、隠された心のせめぎ合いを既に知っている。

 本当、とことん馬鹿だ。

「馬鹿だな、今更……。そういうの何て言うか知ってるか? つり橋効果っていうんだよ」

「つり橋……」

「そうだ。お前のそれは、ただの勘違いだ。傷ついたときにたまたまそこにいたから俺が気になってるだけなんだよ。…そういう馬鹿な考えは、さんざんだ」

 こいつのことだからきっと、俺とここまで深くかかわっておいて今更簡単には光志のところには行けないなんて思っているんだろう。

 俺を気遣って、俺を想って。


 だけどな、それじゃ駄目なんだよ。

 光志を想って来た唯の気持ちは、嫌というほど近くで見てきた。
 俺の中で答えはもう出ている。
 光志と一緒にいるのが、唯にとって一番の幸せだ。
 純粋に恋して、純粋愛した人間。


 もう、いいんだ。
 生まれてからたくさん傷ついて、たくさん泣いて、どうして今俺なんかを想うんだ。

 いい加減、自分のことに目を向けろ。



「……違うよ。勘違いなんかじゃ、ない……」

 まだ、唯は認めず。

 溜息をはいて、冷たく言い放つ。

「だいたいよく考えなかったのか? 俺を好きだって言っても、俺はお前に恋愛感情を抱いてねえ。…その点、光志はお前を今でも好きなんだぜ。自分を想ってくれている奴の所に行くのが、一番だろ」

 光志なら、きっと唯を笑わせられる。


 依然として首を振らない唯の拳が強く握られているのを端に見た。ここまで言っても、俺が望むようにはしない。 

「…あのな、いい加減気付け。また騙されてるってことに」

 分かれよ。
 光志が一番なんだって、認めろよ。

「…だ、まされ……?」

「そうだよ。俺はお前のことなんかなんとも思ってねえ。光志にフラれてからお前を慰めたのも……ずっと傍にいたのも、全部、頼まれてやったことなんだよ」

 ……分かれよ。

 俺の世界を広げてくれた相手の、そんな泣きはらした目は、もう見たくないんだよ。

「……何、言ってんの?」

「……はっ、急すぎて分かんねえか。おい、出てきていいぞ」

 食器棚の奥のデッドスペースに向かって声をかけると、唯の目もそちらの方向を追う。
 そこで出てきた人物を見て、その目が命一杯開かれた。



「な、直樹さん? いつから……」

「最初から聞いてたんだよ」

 その場に立っているだけの親父の変わりに答えると、唯は再度俺の方を向く。

「この親父に慰めろって頼まれたから、俺は今までお前に付き合ってやってたんだ。お前があまりにも痛々しく見えたらしいからな。……そうだろ、親父?」

「……ああ。悪かったな、唯……」

 突然告白された現実にすっかり混乱しきっている。
 低い声で応じた親父と俺とを、唯は我が目を疑うように交互に見た。

 嘘だ、と言いたいのは分かるが、結局何も言えないだろう。
 何せ当本人である親父が認めているのだから。

 光志が親父に言われ付き合っていたと明かしたときも、同じような表情をしていたのだろうか。

 やがてその表情が力を失っていくのが分かる。

「正直もうお前の相手するのにも疲れていたからな、いつこんな日が来るか楽しみだったぜ」

 これは本心だ。

 なあ、光志はきっと俺じゃ言えないような歯の浮くような台詞もお前に簡単に言ってのけて、お前が笑えるようにいつでもお前を支えて、お前のことを一番に考えて行動する、俺が認められる数少ない奴だから。

 幸せに、なれよ。

「もう沢山だ」

 苦しむお前を、目の当たりにするのは。


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