兄貴が言葉の続きを待つ。

 長い沈黙の末、結局俺はその問いには答えなかった。


 大切だ。
 どうしようもないくらい、大切だ。

 相手がこうして宣戦布告してきたというのなら。

 前に立ちはだかって、牙を向こう。

「……分かった。ようはどっちがよりあいつを幸せに出来るか、だろ? 俺は負けるつもりはねえ」

「…ま、予想はしてたけど、やっぱりそう言うか。悪いけど俺だって引くつもりはないよ、例え弟が相手でもね。失って痛いほど分かったから。俺は唯を、愛してる」

 俺は、こいつのように簡単に言葉は言えない。
 けど。

「余裕そうなその笑み、壊してやるよ」

「はは、余裕そうに見えるんだ」

 二人の間に緊張した空気が稲妻のように走って消える。
 緩和すれば今までの話など何もなかったかのように兄貴は立ち上がった。

「そういえば、最近いろんなところでお前を見るようになったよ」

「顔が似てなくて助かっただろ」

「まあ、弟があの橋本伊織なんて知ってる人は今は周りにあんまりいないけどね。……いい道、見つけたな。これからも頑張れ」

「言われなくても」

 俺はずっと憎んできたのに、兄貴は俺を憎まない。ちゃんと“兄貴”として“弟”を想っている。俺は昔からそれが気に喰わなかったが。


 
「苗字、唯からもらったの?」

「羨ましいだろ」

「まあね」

 この“兄貴”は、いてくれて助かった。

 本気で牙をむける相手なんて、そうそうはいない。





「じゃ、また今度。年末年始くらいには帰ってくるかな」

「親父には会ってかねえのか」

「今日はそれ目的じゃないからね。それじゃあ」


 玄関から出て行った兄貴の姿を見送って部屋に戻ろう身を翻す。そこで視界に入った傘立てにあの傘を見つけた。

「……何だよ。結局持ってかねえじゃねえか」

 ただ、わざわざ俺に言うために。


 ……次唯に会えるのはいつだ。

 学校? いや、店に直接行く方が早いか。なるべく早くあの馬鹿の顔を拝んでやらないと。

 今も多分、苦しんでいるんだろう?

 俺なんかのために、ずっと好きだった相手に手を伸ばせずに。


 ああ、腹立たしい。


「ただいま…って、何してるんだ、そんなところに突っ立って」

 光志とすれ違いと言ってもいいタイミングで帰宅した親父が玄関の戸を開けた。
 靴を脱ぐ親父を横目に俺は居間へ入って行く。

「今さっきまで光志が来ていた」

「光志が? 何か用事でもあったのか」

「……親父」


 振り返って改めて呼ぶと、親父は怪訝そうな顔で俺を見ていた。

 まあ確かに気色悪いものはあるだろう。俺だってそう感じる。

 多分、生まれて初めてだ。

 親父にこんなことするなんて、少し前までは想像も出来なかった。
 もちろん今でも虫唾が走るくらい嫌だけど。

 でも、出来なくはない。

 あいつがちゃんと“憎い”という感情以外を与えてくれたから。


 ……もう、いいだろ。
 充分なんだよ、俺は。

 だから、お前は自分の幸せ掴めよ。

「親父───頼みがある。聞いてほしい」

 人生で初めて親父に頭を下げるという行為をした。
 さしもの親父もこれには目を丸くして。

「……何だ。嬉しいから、何でも聞いてやるぞ」

 驚きのさなか、まるで無表情で言う親父に噴き出す。

「嬉しいとか、何だよ」

「……いや、ようやく俺を頼ってきてくれたと思ってな。子供が親を頼る……まあ、当たり前だな。うん。うん……」

 うわ言のように繰り返す親父は本当に嬉しそうで、そんな様子を見ていると余計にこっ恥ずかしくなる。
 頼まれ事がそんなに嬉しいのか……と、悪態をつく気にはなれなかった。なんとなく、親父の苦悩なんかをその表情の片鱗に見た気がした。

「……何でも聞いてくれるんだろ?」

「そう前置きされるってことは、ロクなことじゃないんだろうな」

「簡単なことだよ」

 本当に、欠伸が出るほど簡単なことだ。

 親父に頼みごとをするのも。




 やってしまえば、ああこんなに簡単なことだったんだと、拍子抜けするくらいには簡単だった。





 * * * *



「はい、OKでーす」

 休憩を挟みながらも三時間続いた撮影がようやく終わりを迎えた。

「お疲れ様でした」
「お疲れ様です。今日はこれで終わりですね。明後日は劇団の指導に合流するので、追って連絡します。それでは」

 マネージャーの指示を仰ぎ、軽く挨拶をする。

 それが済んでから、スタジオの奥の方にいる唯に出るぞと合図をして、暖房が効力を出し過ぎている空間から抜け出した。

「なんか、すごかった……」

 後ろからついてくる唯がぽつりと呟く。
 友人という立場でずっと見学していたが、その最中にマネージャーやスタッフなど割と多人数に声をかけられていた。

「話しかけられた時、何話してたんだ」

「何って、別に。名前はとか、伊織の学校の様子とか聞かれた」

「学校? 何て答えたの、お前」

「いや、学校での様子とか聞かれても分かんないし。適当に元気一杯ですよとか」

「……」

 まあ、下手なこと言われるよりはマシだ。

「何時間も疲れただろ」

「や。面白かった」

 今日の仕事が終わり次第家に来いと呼びだしたのは今朝。自分でも随分と急な誘いだったと思う。


 それでも唯は分かったと返事をし、何時に撮影が終わるのか分からないと告げたら、じゃあ撮影現場を見たいと畳み掛けてきた。

 正直面食らった。まさか俺の撮影姿を見たいなんていう好奇心が唯にあるなど。

 少し渋ったが、最終的にマネージャーにも了承を得て連れてきた。
 結果三時間も付き合わせるハメになってしまったが。

 楽屋で素早く着替え、専用出口から建物を出る。

 中では聞こえなかった木枯らしの音が強く聞こえてきた。唯が空中に漂うミッドナイトブルーのマフラーを巻きなおす。

「でもあんなにポーズとかいろいろ指示されるんだ。少しでも動いたら戻されててさ、何か凄い大変そうだった」

「もう慣れた。……で、何でこんなの見たいなんて思ったんだよ?」

 朝に聞いても「まだ分からない。見たら分かるかも」と曖昧に言われ答えてもらえなかったことを再度聞く。

「んーと、…伊織のいろんな姿見たかった、っていうのが一番合ってるかな?」

「何で疑問形だよ」

「いや、言葉では表せないのっていっぱいあるじゃん。急に見たくなったんだよ」

 それは……光志と俺と、という現状に関係があるのだろうか。



「……それで、満足出来たか?」

「うん。連れてきてくれてありがと。……みんなさ、伊織が作る世界に安心するんだって感じた」

「? 何の話だ」

「伊織がその場に立つと、空気が変わってスタジオ全体が一瞬無言になるんだ。プロデューサーもカメラマンもスタッフも、全員が伊織の方に向いて、伊織が作る雰囲気に浸っている。伊織だけしか、みえなくなる。……きっと世界にそのまま浸かっていけるから、安心して撮影が出来てるんだと思う」

 唯はたまにわけが分からないことを言う。
 俺が考えてもみなかったような深い視点から世界を眺め、それをそのまま受けとめようとする。

 俺にないものをこいつは数え切れないほどたくさん持っていて、それに触れるたび俺の世界はあかるくなっていく。

 世界に浸かるなんて、それこそ唯と話している俺自身が感じることだ。

「だから役者の道に進んでも、俺伊織は絶対成功すると思う。こういうことよくわかんないけど、でも本当、今日凄かったから。…いつか伊織がトップに立つ日が来るっていうか…あー、そうじゃなくて、んー」

 自分でも言ってるうちにわけが分からなくなったらしい。


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