きみの、いき W * * * 兄貴を忘れられなくて苦しむ唯をずっと傍で見てきた。 離れろ。 抜け出せなくなるぞ。 警告音も無視して見続けた。 もういいだろ。どこまで苦しむんだ。どこまで一途なんだ。 いい加減俺を見ろ。 何度も心の奥で叫んだし、実際声にも出した。 俺を好きになれと。 いくら言ってもあいつは答えない。答えないくせに身体は預ける。逆に俺を慰めるみたいに。 どれだけ触れても、どれだけ傍にいても、あいつの瞳の中にいるのは俺じゃない。 「ドラマ出演依頼とかも来てるんですよ。脇役らしいですけど」 撮影を終えてから、おおよそのスケジュール打ち合わせ。 ぱらぱらと忙しくメモ帳を捲りながら喋るマネージャーに、その中の一ページを見せられた。 雑誌撮影はもちろんラジオなどの依頼リストの中にドラマという文字もある。 「まだモデルで売り出してるやつに?」 「それだけ注目されてるってことですよ。事務所が売り込んでもないのに使いたいなんて普通は言われないです」 どちらかというとモデルよりタレントや俳優を抱えている事務所だからそちらの方面の進出も意外ではないけど、自分に白羽の矢が立つとなると話は別だ。 「最近やけに声だしとか演技指導とかされてきたのはこれで?」 「まだまだ表面的なものですけどねー。これから時間を増やして、本格的に演技指導にも通ってもらいます」 「ドラマなんて無理だって」 「もちろん今はまだ断ります。笑う役じゃなかったら大丈夫でしょうけど、受けたら何言われるか分かりませんからね。でもいずれ…でしょう?」 高校を卒業してもこの道を歩んでいくことはもう決めた。 モデルだけで終わりだと後々苦しくなることも分かってる。 演技をするのは構わない。でも笑えないのにどう演技をしろっていうんだ。笑わない役ならまだしも。 溜息を吐くとマネージャーが困ったように笑う。 「どこも手に入れたいんですよ。笑わないモデルの初公開笑顔、って。材料としては完璧です」 「公開出来るならいつでもしてやりますけど」 「無理しなくていいんですよ。自然が一番だから」 自然に笑える日が来るのか。 それこそ想像できない。他のどんな表情も出来るのに笑い顔だけは上手く作れない。 はっきりとした原因も分からずにずるずると、自分でも上手い具合に事が転がってるよなと思う。 一つだけ分かってるのは、俺はまだカメラの前じゃ笑えないってことだ。 今は、無理だ。 だからといって、いつ笑えるかなんて聞かれても答えられやしない。 「まあ今はまだ上手くいってるからいいでしょうけど…笑えるようになったらもちろん本気でかかりますので覚悟しておいて下さいね」 「そもそも俺の笑い顔に価値があんのか分からないですけど」 ありますよって、マネージャーの言葉が気遣いだったのか本気だったのかはあえて考えないことにした。 暗い夜空の中帰宅すると見慣れない靴があった。親父はまだ帰宅していないはずだ。 居間には誰もいなく、まさかとは思いながらも二階に上ると部屋の灯りがついている。 中にいた人物は予想できたが、場所が問題だった。 「…おい、起きろ」 ベッドの上で寝ている兄貴の布団を引っ剥がした。 一体いつからいたんだ。 「ん…ああ、唯おかえり」 「電気つけたまま寝てんなよ。しかも人のベッドで」 「ごめんごめん、ついね」 ──違う、言いたいのはそこじゃねえだろ。 「何でいるんだよ」 前に戻って来たのはお盆だった。誕生日が過ぎ去ってすぐのことだ。 兄貴は寝ぼけた眼の色を変えて体勢を整える。 「そうそう、傘取りに来たんだ。ほら、結構前に貸しただろ。返さなくていいっていったけど、この前の嵐でもう一本が壊れちゃって」 確かにあの嵐は酷かった。一日中風の音が唸るように煩く耳に入ってきて落ち着かなかった。 「んなもん、勝手に持って帰ればいいだろ」 「や、あと宣戦布告もしとかなきゃなって。だから待ってた」 「…?」 この男と闘うなどという予定はカレンダーに書きこまれてない。 わけがわからず兄貴を見ると例の如く俺の嫌いな笑い顔を浮かべていたが、すぐにその表情の色は消えた。 「嵐の日、唯に会ってきた」 耳の奥で金属音が鳴り響く。 口にされた言葉を頭の中で反芻しても、上手く身に入って来なかった。 「正直な気持ちを伝えたよ。夏場にも一回伝えたけど…それはお前も知ってるよな?」 「…ああ」 かろうじて返事はしたものの、まだ何がいいたいのかは分からない。 「伊織が言った通り、それでも俺は諦めきれなかった。だからまた伝えた。夏のときは拒まれたけど、今度は認めてくれた。俺が好きだったって」 ──そうか。 ようやく認めたのか、本人の前で。 思えば遠回りしすぎだったんだ。 やっとあいつが自分の幸せを掴める。 俺の慰めは、もう必要ない。 「はっ、やっとかよ……。遅すぎんだよ」 安堵だった。恐ろしいまでに。 しかしそれと同時に脆い音を立てて崩れていく何か。鈍い衝撃。 「……それで、だから何だよ。まさか惚気にでもきたのか」 出た声は思ったよりも弱弱しく、動揺がモロに出ている。お粗末な自分に自嘲気味に嗤う。 相手も笑いたかったら笑えばいい。しかし兄貴の表情は未だ内容にそぐわぬ真顔だった。 「いや、惚気なんかの段階じゃない。付き合おうって昨日言ったけど……俺は半分フラれた」 「……は」 好きだって認めたくせに、何でフラれてるんだ。 「なにかヘマでもやらかしたか」 光志は両目を閉じて、ゆっくり首を横に振る。 「唯の中には……伊織、お前がいる」 衝撃の第二波。 どうしてそこで俺の名前が出てくるんだ。わけがわからない。頭で言葉を理解する前に光志は続ける。 「分かるだろ、伊織? 唯は、俺とお前との間で揺れてる」 「な……」 そんな、馬鹿な。 あいつはずっと光志を追っていて、こちらがもうやめろと言いたくなるくらいひたむきに追っていて。 唯の中で兄貴の存在は、俺では微塵も届かないところにいた、はずだ。 だって、ずっと見てきた。 光志を思い出しては暗い表情をする唯を。 俺に触られ俺の服の裾を力いっぱい握りしめながらも光志のことを考えている唯を。 ふとした瞬間に、色情を感じさせる泣きそうな表情を作ったり、どこか切なげにに遠くを見つめたり。 光志と別れる前には見られなかったあいつ。 そんなあいつを見るたびに、俺は──。 壊したくもなるような儚い存在。 その想いがようやく実ったというのに……俺がいる、だって? 悪い冗談にしか思えないことは、しかし光志の表情を見れば冗談でないと分かる。 「……俺はお前たち二人の関係は知らないけど……唯は苦しんでる。泣いてたよ。自分でも意識してないうちに。多分俺を想う気持ちもお前を想う気持ちも同じくらいなんじゃないかな。板挟みになって、動けないでいる」 「…………マジ、馬鹿だ。とんだ馬鹿だ、あいつ」 幸せを掴む直前になって、俺なんかを思い出すなんて。 ……何なんだよ。 何て言えばいいんだ、この激情を。 「伊織……お前は唯のこと、好きなんだろ?」「……俺は、」 あいつが──。 →# [ 54/70 ] 小説top |