きみの、いき  陸





 * * *

“俺を、好きになれよ。”

 俺のあまりの痛々しさに伊織が口にした言葉の二回目は、何故か俺の中にいつまでも根を張って、思考を占領した。




 伊織の顔が全国紙に乗った。
 活躍中のモデル、なんて朝刊の一コラム欄に伊織の顔を見つけたときは、思わず新聞紙を落としてしまいそうになった。

 直樹さんから借りた新聞だったから、すぐに返そうと渡したのだけれど「そのまま持ってていい」と言われ、部屋の片隅に記事は居座ったままだ。

 新聞に伊織の顔が乗っていると教えてくれたのは相も変わらず益岡だけど、益岡が新聞など読んでる図を想像したらどうにも噛み合わなくておかしかった。

 伊織の露出は日に日に増えていっていると思う。

 外の情報にあまり詳しくないから断言は出来ないけど、伊織を学校で見かける回数は減った。


 人を惹きつける力を持っていて。

 艶やかな黒髪、長い手足、力のある優美な瞳に整ったスタイルは確かに人気が出ても頷ける。

 だけど俺と会う時の伊織は以前と変わらないままだったから、伊織が遠い人になっていく感じは全然しなかった。


 夏休みが終わり新学期に入ると共に夏にも終わりが近づいていた。
 猛暑とうたわれた今夏はまだ残暑という形で根強く残りそうだ。

 もう日付が変わる頃、仕事を終えて寮に戻る帰路につく。
 徒歩3分、表通りからの喧騒を離れてある寮。部屋の扉を開けようとすると下の方に誰かの走る足音が聞こえてきた。


 こんな深夜に何だと思って地上を眺めると、一つの影もまた俺の方を見た。
 見上げる眼差しと見下ろす眼差しが交差したのもつかの間。

「伊織?」

 すぐに階段を上ってくる足音が聞こえ、やがて現れた伊織の姿。
 こちらに走ってきていきなり俺の腕を掴み部屋の中へ飛び込んだ。
 力に逆らうこともできず、引っ張れるまま扉の奥へなだれ込む。

「いっ……!」

 玄関に押し込まれた俺の上には伊織がいて、突然のことにワケが分からなく、痛みもあいまって声を荒げた。

「伊織っ! いきなり何して…ッ」
「黙れ、ちょっとかくまえ」
「かくまえってなに……んぅっ!?」

 尚も声を出したら、キスされる。
 唇を塞がれ、言葉も塞がれた。

 数秒間たっぷりの熱い感触に、動きが止まる。密着する途中伊織が俺の髪の毛を掻き混ぜた。

 何を喋れる状況でもない。心臓が慌ただしく運動し、その音が外に響いてしまうんじゃないかと思った。

 解放されたかと思えば、伊織は再び扉を少しだけ開き、外の様子を伺う。

「……まいたか」

 額には汗が滲んでいて、誰かから逃げてきたらしいことは分かった。
 離れないままの伊織を少し押すと、彼は立ちあがって砂埃を払う。

「誰から逃げてたの」
「知らねえ」
「?」
「街歩いてたらいきなりついてこられた。気持ち悪くて走ったら追っかけてきて、このザマだ」

 熱狂的なファンか何かの類だろうか。

「だからってこんなとこ……」
「ちょうど来る予定だったんだよ」
「え?」
「じゃなきゃこんな時間に出歩かない」

 どうして俺に会いに来るのだろう。

「……逃げてきたのは分かったけど、あんなことしなくても」
「あんなこと? ……ああ」

 伊織はにや、と口角を上げて、また唇を舐めてくる。

 音を立てて何度も降ってくる唇に頭がぼんやりとした。伊織とのキスはいつもいきなりやってくるけど、こうして長い時間触れ合うのは初めてだ。
 激しくない、軽いキス。際限なく俺を見動きのとれない海へ落としていく。

 最後に息が苦しくなるくらいにきつく舌を吸い上げられ、腰が引けた。
 唾液と唾液が絡み合って銀色の細い糸が空中で光った。

 伊織の両手で頬を包みこまれる。いきがかかる近距離に伊織の肌色がかすみがかった。

「……なんでこんなことするの」
「分かるだろ」
「分かんない」

 誕生日から、俺と伊織の関係は多分少し変わった。
 よく触れ合うようになった。口数も多くなった。

「俺……お前のこと、何も知らない」

 前は知ってるって、強がり吐いたけど。
 
 掴めるようで掴めない伊織の行動一つ一つに振り回されてばかりだ。

「……ここに来たのは、お前に会いたかったから」
「……」
「キスするのは、キスしたいから」

 そう言って、また一つ鼻の上に優しいキスをする。


「簡単だ。俺は自分の嫌なことはしない」

 伊織が髪の毛をくしゃりと握る。
 伊織は俺の髪を弄るのが好きだと思う。撫でたり、指を通したり、いろんな方法で乱すから。

 かつて光志さんともこんなふうに近い距離にいた。
 伊織といると光志さんを思い出す。
 それは決して辛いばかりじゃなくて。

 あの温もりを感じる。誰かに優しく触られること、時間を共有すること。

 そして、あのとき以上に大きな暖かさを。

「……今日はどんなやつに抱かれたんだ」
「……3回目の人。背が高くて……」
「高くて?」
「ここ、いじるのが好きみたいだった」
「そうか」

 言葉の途中で遮り、服の端から伊織の腕が侵入してきた。

「ちょっと、こんな、とこで」
「じゃあ移動する」

 背丈は変わらないはずなのに軽々と姫様だっこよろしく持ち上げられてしまう。
 そこまで筋肉質にも見えないのにどこにそんな力が隠されているんだろう──と思ったのは数日前で、今は伊織が着痩せするタイプだとよく知っている。

 ベッドの上に寝かせられ、同時に伊織が覆いかぶさる。
 さきほどと同じように手を肌の上に滑り込ませ、胸の突起付近を撫でてくる。

「……ん、…ふぅ」

 鼻からいきが抜けて、そんな俺のいきを奪うように舌が口元を這う。
 いつも触れながら伊織は苦しそうに眉間にしわをよせている。何かを堪えるように、忍ぶように。



 それが何なのか深く探ることもせずまた伊織に身体を預ける。
 触るだけ。それ以上でも以下でもない。

 伊織の中心を見るのが怖くて目を逸らす。見ないふり、知らないふり。相手も後ろへ手をかけることはしないから。


 誕生日が過ぎ去って以来、こうやって何度も何度も繰り返して、やさしい伊織の手つきを知って行く。

 伊織がどうしてこんなことするのかは分からない。

 多分慰め。

 見動き取れない俺を、更に見動き取れなくして。

 伊織自身もこうすることで自分を慰めているんじゃないかと思った。

 表情とか仕草とか触れる手つきとか、迷子になっている孤独な子供のようで、だから拒絶も出来ない。


 乳首が疼いてどうしようもなくなる。
 尖ったそこを揶揄するように舌で舐め上げられそれから人差し指で幾度となく押される。

 お客様に触られるのとは全然違う。優しさと、戸惑いと、別の何かを含んだ所作。


 余裕を奪われるのは俺なのに、伊織も余裕なく声をつまらせいきをあげるから、俺も伊織にいきを上げたいなと思った。

 今ならなんとなく、世界最後の日に呼吸をすると言った伊織の言葉が分かる気がする。

 伊織がいきぐるしいなら俺だって酸素を与えたい。

 別の誰かのじゃなくて、俺の。

「あ…、ぁあ……ん」

 よく分かんないよ。
 よく分かんないけど、最近そんなことを思うんだ。



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