「……出ない」

 案の定だ。

 唯は兄貴をまだ想っていて。
 兄貴もまだ、唯を想い続けている。

 流すんじゃなくて、溜めこむことを選んだから。

 それはいつか、溢れ出る。

 嫌な予感がした。一度認識すればその場に居続けるなんて出来なかった。立ち上がった俺に親父が帽子とサングラスを手渡す。

「また出かけるのか?」

「唯の部屋に行ってくる」

「会う約束でもしてるのか?」

「薔薇の花束とホールケーキをせがまれてるからな」

 唯がいなかったら。
 俺も親父も光志も、多分全員が今は全く違う状況にあった。

 巻き込んだのは親父と光志のはずなのに。
 結局全員、唯の影響を受けて、そして今それぞれの場所にいる。

「……お前のこの、橋本伊織って芸名はあいつから取ったのか」

 いつの間に持って来たのか、親父は俺が毎月乗っている雑誌の最新号にある表紙の名前を指差した。
 事務所から毎月送られてくるのを、俺は放置していたはずなのに、今親父が持っているということは全て律義に保管してあったのか。

「違う。取ったんじゃなくて、貰ったんだ」

 共有。

「あいつの名前は俺の名前で、……俺の身体はあいつの身体だ」

 親父になら、この意味が分かるだろう。
 言い残して街にくり出す。遠くの山肌が夕焼けを背景に黒く、その上に茜雲が群青の空と混じっていた。



 そんな空模様の中、唯の寮室へなるべく表通りを避けて行った。

 唯人と表札のある部屋の前で“唯”と呼びかけていた。
 インターホンに対する返事はない。一応ドアノブを回してみるが鍵がかかっている。

 光志の部屋に行こうと思ったが、思うだけですぐにやめる。
 今俺が行ったところでどうにもならない。明日だ。明日なら、多分会える。

「くそ……」

 焦燥した自分の声が静かな建物の中で消えていった。





「唯はいたか?」

 居間に入って真っ先に聞いてきた親父の声には虚しく首を振るしか出来ない。

「そうか……」

 親父は、光志の気持ちにも気付いているんじゃないかと思った。

「明日はあいつ、店に入るのか」

 手帳を引っ張り出して親父は答える。

「予約が22時に入ってるな。大体21時には部屋に入るはずだ。それ以外は今のところない」

 相変わらず仕事熱心なことだ。

「……唯に仕事、やめさせられないのかよ。なんで中学生のあいつを雇ったんだ」

 俺の言葉に親父の顔が難しげな色に変わった。

「出会ったときの唯は、生きることに意味なんてない、なんて顔していた。──寮にいれてから数日たって、自分から『いつから店に行けばいいの?』と聞いてきたんだ」

 そんなこと、俺に過去を吐露したときは言ってなかった。

「もちろん他の仕事でもいいと言った。だけど一番稼げるのはこれだと言って聞かなかった。なるべく直樹さんの手を煩わせたくないとまで言いやがる。誰かに甘えることなんて知らないんだろうな。……無理もないが」



 多分、ずっと一人で全部抱え込んで生きてきて。

 そんな人間がいざ温もりを感じると、抜け出せなくなる。鎖で雁字搦めにされるように。

「……明日、店に行く」

「何をするんだ」

「何もしねえよ。ただ顔見るだけだ。親父だって別に構わないんだろ、唯と俺が一緒にいるのは」

 親父的には唯が悪い思いをしていなければ万事了承らしい。

 親父の中で唯は特別だ。光志のことだって、唯を必要以上に傷つけないためにやったことだ。方向性が間違っているとしか言いようがないが。

「伊織、この前言ったのは冗談なんかじゃなくて、本気なんじゃないのか」

「この前?」

「唯へそんなに近づくのは、好きだからと言っただろ」

 いきなり何を言い出すかと思えばえらく前の下らない冗談を引っ張り出された。
 真剣な顔で見つめて来るのが煩わしい。

「まさか。ねえよ」

 ここで肯定を示したら、親父は反対するんだろうか。

 光志はよくて俺が駄目なんて、それこそ不公平だよなと思っていた。





 勘は外れていなかったらしく、部屋に入ると唯はあからさまに動揺していた。22時からの予約にはまだ一時間ある。充分だ。

「……何しにきたの」

 本人でさえ目的がなきゃ自分の元に来ないと思っているらしい。

「昨日、どこにいたんだ」

「……なんで、伊織には全部分かっちゃうのかな」

 降伏するように笑って、目を伏せた。

「俺、光志さんのこといつまでも忘れられないからさ。……忘れるために、昔光志さんとよく会っていた場所に行った。そしたら、光志さんも来たんだ。びっくりしちゃったよ」

 馬鹿だな。
 わざわざ自分から傷つきに行って、気持ち消し去ろうとするなんて。
 いつまでも、いつまでも光志をまっすぐに想っていて。

「……あいつの気持ち、知ったのか」

 もう一度唯を突き放すなんて真似、兄貴はしない。
 本当の気持ちを言って、唯もそれを受け入れてハッピーエンド。それが俺が部屋に入るまで想像していたことなのに、唯の表情は暗いままだ。

「……今更だよ。俺が好きなんて」
「まさか、フッたのか」
「そのまさか」
「……馬鹿だな、お前」

 唯の薄い胸板に腕を回していた。ベッドに二人分の体重が乗る。唯は俺を拒むこともしないまま、俺から顔を逸らした。

「……久しぶりに、顔、見た。光志さんの顔」
「ああ」
「俺、本当に光志さんが好きだったんだ」
「ああ」
「……拒んだのは俺なのに、なんでこんな気持ちになってんだろ……」
「……ここまで辛い想いしてんのに、なんでまだ好きなんだよ」

 どうしてそこまで想っているんだ。
 ひたすら一途に想い続ける強さも純真さも、全てが眩しい。
 辛い想いばかりしているのに、懲りずに思い出す、会いに行く、そして拒む。

「……光志さんだから」

 傷付いても涙を流しても、それでもまだ、好きで。


 分かってる。こいつが光志を忘れられない理由など、全部。

「忘れたいって想っても、無理なんだ。だって俺、幸せになるために好きになったわけじゃない。辛いから好きじゃなくなるなんて次元じゃない」

「じゃあなんで拒んだ」

 何が面白いのか唯は腕の中で肩を小刻みに揺らす。

「それ、昨日別の人にも聞かれた」

 俺以外にも唯の想いを知っている人間がいることに少なからず驚いた。
 面白くは、ない。

「……なんで拒んだんだろう。昨日いろいろ話した気がするけど、忘れちゃった」
「なんだよそれ」
「……やっぱ、伊織だ」
「は?」
「伊織の顔見てると、落ち着く」

 きっとどんな殺し文句使ってるかさえ自覚ないんだろう。

 あの日そうしたように、唯自身も俺へ寄り掛かってくる。

「いい迷惑だよな、弱くてごめん」
「……お前は、弱くなんかない」

 俺に憎む以外の感情を、与えた。

「……兄貴のこと、忘れろよ」

 自分の中で反芻してきた言葉を、いつの間にか表に出していた。

「忘れて、……俺を、好きになれよ」

 何をしたところで唯はまだ兄貴を思い続け、心で泣き、仕事をする。

 俺の精一杯の言葉さえ、無力で。

「……ありがと、伊織」

 慰めと勘違いして、また笑う。

 そんなふうに笑わせたいわけじゃない。

 泣かせたいんだと思っていたのも、遠い記憶だった。

 俺は唯にフラれた。



「誕生日、おめでとう」

 部屋を出ていくまえ、吐き捨てるように言った言葉に。

「……ありがと」

 からからに渇いた声だけが、俺に届いた。







 side.伊織


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