きみの、いき V * * * 8月5日は俺にとって──いや、有宮家にとって特別な日だ。 まず俺はその日家にいれない。祝福されている兄貴も、祝福している親父も見たくないからだ。 離婚する前までは、兄貴へ誕生日プレゼントをやっていた。 今にして思うとありえないことだが。 「……は? キャンセル?」 「はい、昼頃に相手方に不幸が起きちゃったらしくて、今日だけはどうしても……って。屋外撮影だから橋本くんの分だけ撮影ってわけにもいかないです。だから今日は延期ということで。今度のフィッティングは予定通り明後日に。では、お願いします」 ちょうど家から出て駅のホームをくぐった途端にこれだ。 携帯をポケットにしまい直し、元来た道を戻る。 何だって今日に限ってキャンセルになるんだ。 毎年この日に親父はいつも仕事を完全に休む。それは兄貴がいなくなった今年も変わらず。 夜からの撮影だというからなるべく親父の目を盗んで家を出てきたのに、まったくもって骨折り損だ。 家を出てきたのはわずか数十分前になる。これでそのまま戻ったら怪しまれるだろう。 だけど行くあてもなく放浪するのは好きじゃない。仕方なしに俺は親父のいる家に戻った。 「もう戻ったのか」 「……撮影がキャンセルになった」 案の定尋ねてきた親父に、答えないとしつこいから一応簡潔に答えておく。帽子とサングラスをはぎ取ってラックに戻した。 「最近また忙しくなったんじゃないのか? 中々家事が出来ない俺も悪いが…ちゃんと飯とってるか」 「余計なお世話だよ」 「光志に会ったか?」 「何で会う必要があるんだ?」 俺が兄貴の誕生日など祝わないことは知っているだろうに。 「電話が繋がらないんだ」 「……」 今は夕方6時。毎年家にいた兄貴も、もう大学生。予定だってあるだろう。親父の連絡に応えないのは珍しいけど。 「ようやく親父離れしたくなったんじゃねえの」 兄貴の居場所なんかどうでもいい。 それよりいつも以上に話しかけて来る親父が気味悪かった。 「……まあ、いい。夕飯を食べよう」 「食べればいいじゃねえか」 「伊織も座れ」 一緒に飯を取るなんて、今じゃ全く想像出来ないことだ。思わず笑ってしまった。 「何で一緒に食うんだよ」 「なんだ……その、謝りたくてな」 「謝る?」 「とにかく座ってくれ。夕飯が冷める」 謝られるようなことをされた覚えはない。 いつもと違う雰囲気の親父に訝しがりながらも席に座った。 よくよく考えれば最近の親父はどこかおかしかった。 顔を合わせてみれば何か言いたげに口ごもるばかりで──まあ俺のこと扱いにくいような目で見るところは最早癖のようなものなんだけど、それが際立っていた。 それで今日のように身体の心配とまできた。 何なんだ、そのうち槍でも降ってくるんじゃねえのか。 出された夕飯を食べている間は食器の音だけが鳴っていた。 家の空気がまずいものだから昔から何を食べても美味しくなかった。 親父の作ったものを食べるのは久しぶりで、食べている途中ずっと口の中が痺れを呼んでいた。 「…今まで、今までお前のことに目をやれなくてすまなかった」 茶碗の米粒の最後の一つを拾い上げ口に入れたところで、親父がぽつりと呟いた。 「…………」 青天の霹靂。唖然として言葉も出ない。 親父の口から出た言葉の意味を捉えるのに随分時間がかかった。 「…………何言ってんだ、いきなり」 「……これ、返そう」 差し出されたのは2、3通ほどの手紙だった。どこかで見覚えがあると思ったら……宛先は所属事務所。 結構前に唯が持っていた、俺のファンレターだ。 「何であんたが持ってんだ」 「唯が持ってきてくれたんだ。俺に」 「唯が……?」 随分大事そうに抱えていたけれど、まさか親父に渡すなんてどういうつもりだ。 「伊織はこれ、読んだのか?」 「読んでない」 「……読んでみてくれ」 いつになく低い声で真剣に言う。俺は親父の手から分厚いそれの一つを抜き取って目を通してみた。 ファンレターなんて今まで読んだことなかったが、自分にこんな声が来てるとはと、読み進めていく内、普通に驚いていた。 違う、誰か別の人物への言葉のはずなのに、文中に出て来る「あなた」という代名詞の方向は間違いなく俺だ。 応援しています。 元気をもらえます。 見るだけで笑顔になっています。 何文字にも及ぶ好意だけが滲んだ、文章。 最後までちゃんと読むには多分時間がかかりすぎる。眩しすぎて半ばで読むのを止めた。 「……感想は、どうだ?」 「……あんたに言いたくない」 「俺は最初これを読んだとき、ただ無我夢中で読んだ。そして二度目に読んだ時は…涙が出た」 ……涙だって? この父親が? 俺への手紙で? 「お前をこんなふうに思ってくれている人がいた。そう考えると……自然と字面が歪んでいた」 何を考えているか不明で、扱いにくい子供。 そうやって、直接言われたこともある。 どこかの誰か、名前も知らない親戚だった。 親父だってずっとそう思って来たはずだ。 素直に感情表現をする光志が「動」なら俺は「静」。 笑う光志の隣で俺はいつでも仏頂面だった。 「小さいときから、光志ばかり手にかけて育てていた。お前は……強い子供だから、大丈夫だろうと、どこかで言い聞かせていた。それで今このざまになっているんだから笑えないな……。父親失格だ」 なんであんたがそんなこと言うんだ。 俺はあんたを父親じゃねえって思ってて、あんたはそれを知っていながら今まで何もしてこなかったじゃねえか。それでも仕方ねえって目でずっといたじゃねえか。だから俺は、その姿勢を崩さないまま……。 気付けば、視界は憎しみばかりになっていて。 俺はとことん、憎んできた。親父も兄貴もあの女も、自分も、この世界も。 憎むことで、別の感情を消していた。 「お前にはもうお前を支えようとする人がいる。……俺が本当はその立場になってやらなきゃいけなかったんだよな」 親父の顔を、物凄く久しぶりにちゃんと見た。 年月は経ち、親父はいつの間にか俺の想像以上に年老いていた。 親父の告白は続く。 「それでも俺を“親父”と呼んでくれるお前に、何も出来なかった。光志ばかり見ていたら、お前は俺を憎しみの目で見るようになっていた。だから、深く入り込めなかった。無関心を貫くように、心がけていた」 「……心がけるも何も、あんたは心の底から俺のことなんてどうでもいいんだろ」 「そんなことあるわけない」 親父は身を乗り出すように即答した。 「嘘吐け」 「嘘じゃないんだ、伊織。ずっと……ずっと、光志と同じようにお前が心配で、でもそんな態度を隠してきた。──お前のことがどうでもいいだなんて、一度も思ったことはない」 頭に隕石が落ちたように衝撃が走った。口の中にあった痺れが爪の先まで広がって、身体が上手く動かない。喉が、ひりひりする。 →# [ 46/70 ] 小説top |