きみの、いき 伍 * * * どれくらいうずくまっていたんだろう。 一台の車が俺を光の渦中に落とした。 「……唯人、か?」 営業用の名前で呼ばれても「唯人」を演じる気には到底なれない。 車の窓が下がりその奥にいた人は、最初は目をこらさなきゃ誰だかよくわからなかった。 「──喜瀬さん……?」 「何してるんだい、こんなところで」 「……喜瀬さん……」 光志さんと喜瀬さんは、付き合っていた。 そこに入って行ったのが、俺だ。 ずっと心に留めてきた。 だから吐いていたんだ。 「ごめんなさい」と、どうして喜瀬さんが今俺の前にいるのかとか思うより先に。 今ここに彼がいるのは偶然なんだろうか。あまりにも出来過ぎている。 彼が最後に来店したとき、見せられた写真には微笑んでいる光志さんがいた。 二人を想像して、きっとお似合いだったんだろうって。 それを皮肉か? って言ったから、多分もう喜瀬さんは俺と光志さんの関係を知っているんだろう。 けれどあの日も、喜瀬さんは俺を優しく抱いた。何も言わずに。 「……そんなところにいると、いくら夏でも風邪をひくだろう」 「……俺、は……」 「何か辛いことがあったのかい」 「……」 誤魔化せる姿じゃない。 でも、なんて言えばいいんだろう。 今の俺と喜瀬さんの関係は、よくよく思ってみると少し複雑なんじゃないか。 「……俺の家、来るか?」 「…え?」 「その様子じゃ、自分の家戻れないだろう。とりあえずの居場所として」 「でも、俺…」 「お得意さんを失うのは俺も辛い。だからほら、乗りなさい」 お得意さんっていうのは俺が喜瀬さんに使う言葉な気がするけど。 俺は彼に何をされても文句を言えない立場だ。 ──今ここで、喜瀬さんの車に乗るってことは……。 ……いいか。 俺を責める権利を、喜瀬さんは持ってる。 敵陣に乗り込むような固い表情をしている俺の心情を汲み取ったのか、喜瀬さんは「安心していい」と言って来た。 俺はどこに乗るべきか少し迷ってから、後部座席のドアを開けて喜瀬さんの車に乗り込んだ。乗るとすぐに車は発進して、俺を未知の場所へと連れて行った。 喜瀬さんの自宅は至って普通のアパートメントだった。居間にちょこんと置かれた年代物風の木製座椅子が部屋の中心になっている。 「急だから、何もおもてなしは出来ないが」 喜瀬さんはやかんに火をかけるのと同時にタバコにも火をつけた。 適当に座れと言われてもどこに座ればいいのか解らなかったから、立ちっぱなしだ。 「ここは店じゃない。俺は今は客じゃないし、唯人も従業員じゃない。気楽にしてくれればいい」 一対一、人間と人間。喜瀬さんはきっと仕事のしがらみを超えて俺と話をしたいんだろう。 「どうしてあんなところにいたんだい?」 「公園から出て……気付いたら、あそこにいました」 「何があったか、聞かせてもらっていいか」 胸の奥からこみあがってくる激情を整理するのもままならない。 どこから話せばいいかな。 「俺と光志さんが付き合ってたのは、もう知ってますよね」 「ああ。知ったのは、大分前だな」 「──でも俺たちは……別れました、二ヶ月前に……」 一部を隠すなんて出来ないから、洗いざらい吐いた。 喜瀬さんとは今までずっと唯人として会話していたから、なんとなく自分を客観的に見れる気がした。違う誰かのこと、話すように。 光志さんとの思い出、別れとそれから。……今日のこと。 やかんのお湯が沸いて、喜瀬さんは紅茶をいれながら俺の話へ耳を傾けていた。俺も座って──布団の上に、座って話した。途中で氷で冷やされた紅茶を啜って。 「で、今日、誕生日……また彼に会いました。そこで光志さんは、本当は……本当は、俺が好きだったって」 「それで?」 「それで……終わりです。公園から俺は逃げて、喜瀬さんが来てくれた」 「……光志を拒んだのかい?」 「……はい」 喜瀬さんは深呼吸にも似た長いため息をついてからカップを流し台へ持って行く。 「光志の話が、嘘だと思うか」 「いや、俺が言うのも変だけど……多分、本心だったと思います」 「そうだな。光志はそんな嘘をつかない。突き放す嘘はついても。……ちゃんと、分かってるんじゃないか」 流し台から戻った喜瀬さんの顔が真正面にきた。彼が膝をついて、あやすように俺の頭へ手を乗せた。 「だったらどうして、逃げてきたんだ? あんな場所でうずくまっていたんだ? まだ、光志を想っているんだろ?」 想ってる。 痛いくらい。 俺は光志さんが、まだ好きだ。 「……わかんないん、です。ただ……、抱きしめ返すことも、応えることも、できなくて……」 憎んでなんかいるはずがない。 付き合っていたときの動作や言葉、全て真実だった。 俺が好きだと、言ってくれた。 それだけで救われた。 涙が出るくらい嬉しさが込み上げてくるのを、身体の芯から感じていた。 ……あのとき受け入れていれば、俺と光志さんはまた恋人同士に戻った。 でも俺がしたのは、突き放す行為。吐き捨てた言葉。 「俺は……喜瀬さんも知っての通り、ウリをやってるけど、今はまだこの仕事やめられない。だからってワケではないけど……」 本当に優しい人だ。別れるとき嘘をついたのもきっと俺のためだったし、今日向き合ったときもちゃんと俺の目を見て本当を教えてくれた。 俺ともう一度、やり直したいと望んでくれた。 「……多分、信じられないんです。光志さんの想いが嘘じゃないって分かってるけど……認めたら、何かが壊れちゃいそうで……」 俺と光志さんが歩調を合わせて、一緒に歩く未来を、俺は想像出来ない。 “光志さんになら、もっといい人が” 合言葉のように繰り返される言葉。それも確かな気持ちだけど、でも所詮そんなのは建前で。 「……怖いんです…………俺は、……俺は誰かと向き合うのが、怖い」 俺の世界が光志さんで一杯になってしまうのが怖い。 光志さんの世界が俺で一杯になってしまうのが怖い。 床に向かって声を吐いた。 「……別れてから、ずっと考えてきました。何で光志さんを好きになったんだろうって。……俺は、優しくしてくれる人なら誰でもいいんじゃないかって思った。それが光志さんじゃなくたって……たまたま彼が最初の人だったから、こんなにハマった、そう思うと、そんな自分が凄く嫌で……。こんな状態じゃ、俺は光志さんと付き合えないです。こんな俺を追ってもらいたくない……。だから、あの場では、どうしてたって光志さんの言葉に答えられなかった……」 多分俺は、今日光志さんを傷つけた。 わざとそうした。自分から手放した。 そうでもしないと、光志さんを受け入れてしまうそうだったから。 そうでもしないと、目の前の幸せに縋り付きそうになってしまうから。 →# [ 44/70 ] 小説top |