きみの、いき  U





 * * *







 大人は感情を上手くセーブ出来る生物だと一体誰が言ったのだろう。
 それとも感情をセーブ出来ない俺は大人の型に入ったただの子供なのか。

 それで正解かもしれない。

 少しだけ、俺の元恋人を紹介しようじゃないか。
 有宮光志。

 今年に入りたての1月、俺は彼に別れを告げられた。
 思えば終わりは随分呆気のないものだった。

「もう別れてほしいんだ」

 突然の呼び出しに突然の別れ。咄嗟に納得出来るわけがない。

「理由を聞いていいか?」
「他に好きな人が出来た」

 それは──どうしようもないな、と。
 思ってもいない言葉が出ていた。

 だがそれ以外に言えることが果たしてあったのだろうか。

「どんな人だ?」
「年下だよ」

 年下だって?
 年上の俺からしてみればただのタチの悪い皮肉にしか思えなかった。
 それを光志も同じように考えたのか。

「正幸とは反対だね」

 なんて、笑いを帯びて言うのだ。

「……そう、か」
「じゃあ、そういうことだから……これで、最後にして」
「……ああ。でも最後に聞かせてくれ」
「いいよ?」
「光志は俺のこと、好きだったのか?」

 我ながら未練が残るのは目に見えている言い方だった。

「……そうやって物分かりのいいところは、嫌いだった。俺がいつも子供に見られているようで」

 まるで今引き止めてほしいと言われているようだったけれど、引き止めたところで光志は行ってしまうのだろう。目を見れば、本当に言いたいことなんかすぐ分かる。



 光志の中に俺はもういない。
 しかし同時に、俺の中にも光志はもういなかったのだ。
 それを光志もきっと気付いていた。

「……物分かりがいい、か」

 最後の最後は、光志から去っていった。
 ばいばい、正幸と。
 普段なら使わないような、子供らしい声で。

 彼なら新たに出来た“好きな人”ときっと上手く結ばれるだろう。それとももう結ばれてるかもしれない。

 物分かりのいい男。
 確かに俺には光志の前でそういう節があったのかもしれない。
 いつから違えた?



「……セックス、出来ないんです」

 言われたのは随分と昔だった。
 付き合う前、まだ俺が彼の“先生”だったときの話だ。
 俺がバイであるのは知られていたし、光志がゲイであるのも知っていた。

 恋人になってくれと申し出た俺に対する彼の返事だった。
 公私混同。家庭教師、教え子。

「それは、俺とじゃって意味?」

 俺が彼の家に“先生”として行った最後の日、首を横に降る彼は机の前で俯いていた。

「勃たないの?」
「一人のときは勃ちます。勃つんですけど……」
「?」
「裸になって誰かと触れる、っていうのがちょっと……いざ触れてると、反応しなくて」

 俺の頭には潔癖症という言葉が浮かんでいたが付き合ってみるとそのような気は見られなかった。


「先生がいけない、とかじゃないんです。俺の身体が駄目なだけで。……だからすみません。俺は、先生と付き合えません」

 有宮光志はたったの二ヶ月だけ俺の生徒だった。学力申し分ない彼に家庭教師が不要だと判断したのは俺自身だ。
 親御さんも光志も元より必要ないと思っていたらしい。つまり俺は「お試しに」と期間限定で雇われた家庭教師だった。
 お試し期間を越えて、次から一個人として会いたいと思ったのも、また俺。

「……俺が嫌いか?」
「嫌いなわけ……ない、です」
「好きか?」
「……言えません」

 我ながら馬鹿げた質問だった。だってそれは授業中にするのと同じような口調だったのだから。

「じゃあ付き合えばいい」

 生徒以上を望むくらいに惹かれたし、彼の氷を溶かそうと、当時の俺にはそんな気力もあった。

「……だから、今説明した通り、俺は」
「身体の繋がりだけが全てじゃない。俺は……光志を抱きたいんじゃなくて、光志の恋人になりたい」

 いつの間にこんなに彼に陥落されてしまったのか、自分で解らないほど墜ちていた。指の関節が軋んだように動いて、そこには汗が滲んでいた。

 最後の授業時間はとうに過ぎている。

 長い沈黙の末に彼の返答、もとい独り言と言ってもいい呟きが出る。

「……そんなこと言われたの、初めてかもしれないかもしれない」
「中々、情熱的な告白だろう」
「恥ずかしくないんですか」



「恥ずかしいに決まってる」と間髪入れず即答した。
 だが、もういい大人が高校生に夢中になっている時点で恥も外聞も捨てたようなものだ。言わばヤケくそだった。

「……ふっ、はは、先生、おかし」

 声を上げて笑うなど彼は滅多にしなかったから、さすがにその反応には驚いた。目元に滲んだ涙の粒は笑いから来たものだったのだろうか。

 彼はひとしきり笑ってから、ありがとうございますと言った。俺はそれを了承と捉えたのだと思う。携帯のメモリから彼の名前は削除しなかった。それから何度かプライベートで会い、次に恋人になってくれと頼んだときはあっさり頷いてくれた。

 “身体と心の繋がり”なんて題材は既に何百もの評論で述べられ、研究され、恋人同士において身体の繋がりは心の繋がりにもなるという事実は世間に知れ渡っている。
 何年も連れそう夫婦の間にセックスは必要とされない場合もあるかもしれない。

 だけど俺と光志はまだ知り合って数ヶ月で、特別密接なる関係を持っていたわけでない。
 光志の最上級の触れ合いはキスで、セックスではなかった。

 俺は光志にキスをした。何度も、何度も。
 会う度、光志の身体も心も俺の中につなぎ止められるように。無理強いはしなかった。押し倒すなんて真似は度胸が足りなかった。

 何がいけなかったのだろう。

 いつから俺の中に光志はいなくなり、光志の中に俺はいなくなったのだろう。



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