* * * 冷たい口調は残っている。 だけど同じ分だけ、いやそれ以上に、彼の優しい温かな微笑みが、口調が、仕草が。 息づいて、すぐ傍にとどまっている。 全てが虚構だったのだとしても、俺はあのとき確かにこころに灯がともるのを感じたんだ。 でもそれさえ、嘘だというのならば。 俺はどうして今も尚、彼を忘れられないのだろう。彼が好きなのだろう。 一体何を信じればいいんだ。 7月、俺は初めて伊織と一緒に弁当を食べた。何でって、たまたま廊下ですれ違ったからとしかいいようがない。昼休みにかち合わせになると、どちらからともなく歩いて、弁当を広げていたんだ。 誰も食べないような場所で。 屋外、コンクリートの上、伊織と時と空間を同じくして食べる弁当の味は、いつもより薄かった気がする。味に関してはそこまで記憶がない。 雑談が出来るような性格じゃないってお互い分かっていたけど、そう割り切っていると逆にどうでもいいことも出てきた。 「え、弁当自分で作ってるの」 「気が向いたらな」 その事実に俺が驚愕したのは言うまでもない。勉強も出来て顔もよくて料理も出来るなんて、反則じゃないのか。 「辛いのは嫌い?」 「苦手ってだけ。甘いのは嫌いだ」 じゃあ何が好きなの、って聞くと、「特にない」って。 面白みのないやつ。 「じゃあお前が好きなのは何なんだよ」 なかった。 職種は違えどお互いに仕事で休みがちの伊織と俺は、そうして二人とも登校しているときは二人で昼飯を食べた。一人のときは一人で、場所はそのまま。 「最近唯付き合い悪いぞー」 益岡が口を尖らせるのは予想外だったけど。 「え、なんで、いつものことだろ」 「だって最近昼になるとどっかフラッといくだろ。どこいってんだよ、誰と食べてんだよ」 「お前は俺の彼女か」 「はあ!? 何で彼女なんだよ! 彼氏にしろ!」 相変わらず意味不明だ。 一か月前、6月の給料は5月より更に上がっていた。労働時間が増えたのと指名額も増したのだから、単純に考えて当たり前だろう。 いくらなんでも限度があるけど、こうなると7月を期待せずにはいられない。 だけど、7月下旬になり、夏休みに入ると、俺はどこか落ち着かない気分で毎日を過ごしていた。 ざわざわと、胸の奥で臆病にざわつく得体の知れない何か。 「唯? そんなもの広げとくと危ないぞ」 「あっ、うん、そう、だね」 貰った給与明細も放置するくらい、俺はその“何か”で気が抜けていた。 本当はそんな正体、最初から分かっていたのかもしれない。だけど気付かないフリをしていた。 そういえば、夏休みに入る直前、伊織と最後にした会話は、実に下らなく生産性のない内容だった。 「明日世界が終わるなら、なにする?」 どこにでも転がっている話題は、つまりそれだけ人の興味をかきたてているということだ。 「……呼吸」 「つまんない」 「面白さ狙ってねえよ。ていうか、何だその質問」 伊織は気味悪そうに引くけれど、そんなに変な質問したか。 「いや、伊織だったらどう答えるのかなって」 「期待を裏切って悪かったな」 「裏切ってはないけど」 最後の最後まで平常心で呼吸をしているなんて、それこそ伊織が言いそうなことだ。 「お前は、なくなりそうだ」 伊織がブラックコーヒーを飲み干した。 空に投げられた空き缶が太陽の反射に重なる。 「明日世界が終わるって言われたら、そうなんですか、それじゃあさよならって、自分から命絶つんじゃねえの、お前は」 「何そのイメージ」 「外れてるか?」 「……当ってる」 嘘でも外れと言えない辺りが嫌だ。 ほらみろと言わんばかりに伊織は笑ったけど、すぐ元の表情に戻った。 「それなら俺は呼吸をする」 コンクリートにカランと快活な音を出して落下した空き缶の上、伊織が踏み潰そうと足を乗っける。 「呼吸して、お前に息をやる」 伊織の言うことは、たまによく分からない。 「……どうしたの」 顔をしかめたままその場から動かない伊織へ、聞くと。 「……スチール缶」 お返しに、笑ってやった。 そんな固いもの、踏み潰そうとしなくていいのに。 あの日の伊織は、どこかおかしかったんだろうか。 夏も本格的な時期を迎えると、行為のときに汗が酷くなる。俺はあまり汗っかき体質じゃないけど、客が。 神経を疑われても仕方ないと思うけど、実は汗で密着するのは嫌いじゃない。 中途半端な気持ちの悪いべたつき具合じゃなくて、いっそもう二度と離れられないんじゃないかというくらい、一分の隙間も許さないまま一つになってしまったら、どうでもよくなるんだ。 感覚とか、気持ちとか、そんなものが上手く殺せる。 そういうときは大抵気分がいい。 下の下から、下の上に昇進した感じ。 何にせよ他の季節でする方いいんだけど。 そんなふうに抱かれながらも、伊織とそれとなく世間話が出来るようになりながらも、夏場の時間は経過した。 蝉の鳴き声に耳を傾けていると、ときどき苦しくなる。 後7日の命だと言われたら、誰でも雄叫びをあげるのだろうか。 「唯、明日は休みだぞ」 仕事上がり、珍しく表に出ていた直樹さんは壁によりかかってタバコをふかしていた。 サングラスをしてスーツを着ているあたり、家にいたときとは全く違う雰囲気だ。 「また?」 「またって、最低限しか休んでないだろ。それに明日は店自体が休みだ」 「えっ、あ……ほんとだ」 窓から事務所のカレンダーを見るとしっかり休みになっている。今月分を確認するのをすっかり忘れていた。 「なんで休みなの?」 「毎年この日は休みだろ」 考えたけど、一年以上前のことなんか記憶にない。 「おい、自分の誕生日なのに忘れるのか」 「……あ」 そうだ。 明日というか、もう12時を回っているから、今日。 金曜日、週末。 8月5日。 「それじゃあ、どうして休みだかも毎年分かってなかったのか」 「いや…誕生日とか、割とどうでも、良かったから」 「……唯らしいと言えば、唯らしいな」 引っかかっていた何か。 ぽろりと落ちる。 「誕生日、だから?」 「まあ、そうだな」 「俺の?」 「他に誰が……。……あ」 直樹さんが口を開けて、そこからタバコが落ちた。くすぶる煙りが大気に乗って浮遊する。 都合の悪いことに思い当たったようで、それが俺にとって都合の悪いことになった。 「悪い。思い出させたな」 「……何のこと?」 「何って、分かってるんだろ」 分からない。 何が嘘で、何が本当だったのか。 あの日から、避け続けてる。 「同じって、わかってるんだろ、誕生日」 しらじらしいとでも表現すればいいのか、名前には出さない。 ──同じ。 彼がいなくなる最後に、ちゃんと俺は聞いた。 『……誕生日、いつ?』 『誕生日? さあ…いつだろうね』 嘘だったんだよとまるであざけるかのように返してきた言葉。 あのときから今までずっと、誕生日が同じというのは俺に合わせただけで、彼の嘘だったんだと思い込んで来た。 でも、良く考えれば。 『生まれた場所は下町の方。血液型はABで、星座はしし座だよ』 『しし座……』 『8月生まれなんだ』 日付を言ったのは俺からだったけど、星座と月を言ったのは彼からだったじゃないか。 「光志さんの、誕生日も、今日でいいの?」 「……そうだ」 生みの親である直樹さんが証言するんだから、間違いなんかあるはずない。 ちゃんと、同じだったんだ……。 嬉しいのか、悲しいのか、この気持ちを何に当てはめればいいのか自分でも分からない。 消せないどころか、強くなっていくばかりの彼の姿は一向に色褪せない。 そしてまた今、濃くなった。 「嘘」じゃなくて「本当」の彼の言葉があった、ただそれだけで、一つ見つけただけで、こんなにも心を揺さぶられている。 「……とにかく、明日は自由に使え」 直樹さんは沈黙する俺を見送る。 俺は寮に戻る。 扉を開ける。 閉める。 ベッドに倒れ込む。 ──誕生日は、嘘じゃなかった。 思い出の中に、本当も混じってる。 じゃあどこからどこまでが嘘だったんだ。 もう終わったことなのに、こんなに気になっている。 ああ、今のように想っているだけなんて、最悪だ。 二人の誕生日。 嘘をつき続けていたのなら、もしあの日俺が携帯を見なければ、二人で迎えられていたのだろうか。 無理に忘れようとなんかしなくていいって、それでも大丈夫だって、少し前までは思っていたけど。 この日が近づくにつれ。 約束の日が近づくにつれ。 本当もあると分かってしまった今。 「忘れたいよ」 忘れたい。 彼に関すること、全部。 でもそれは逃げることになるんじゃないのか? 忘れたい、忘れたくない。 思いはすぐに二転三転する。 彼にとってはどうでもよかったかもしれない、交わしたことさえもきっと忘れ去られている約束さえ、俺の中では生きている。 だって、それは俺の初恋だったから。 「もう、消えてよ……」 無理な願いを、無理な形でかなえようとした。 俺はふらりと向かっていたんだ。 あの公園、何度も何度も待ち合わせてきた公園。 誕生日、二人で会おうと約束場所に指定された公園。 5時には、間に合わなかったけど。 そこで一人、打ちひしがれた。 最近よく思う。 ──もし明日世界が終わるのなら。 俺はただ黙って光志さんを忘れたい。 彼を忘れて、呼吸を終えたい。 →# [ 39/70 ] 小説top |