「……そういうことか」 伊織は何を納得したのか、目を閉じて首を左右させる。 次の瞬間、今までになく強く握られ激しく上下させられた。 「あっ…!? ひ、ぁ! やっ、ちょっ」 「こうされなきゃ、イけないんだろ?」 激しい分だけ。 ──今まで、優しくされてたんだ。 めぐるましく回る世界の中で胸の奥が締め付けられる。 それこそ痛みを感じるくらい、乱暴な手つき。 だけどそれが快楽になった。爆ぜるための刺激になった。 「あぁん、あっ、い、いお、」 「…っとに、お前は……」 伊織が何か言った気がしたけど、分からない。 裏筋を往復され、カリのミゾへ指を食い込まれ、頭がスパークしたように画面に白が広がる。チカチカと点灯を繰り返した。 はだけた服の上、伊織が鎖骨へ歯を立てて噛む。 「んぁっ、あ、ああっ!」 痛くて、気持ち良くて。 もうどうでもいい。 伊織の手で、熱を放った。 「……はっ……」 「落ち着いたか」 しばらく荒い呼吸のまま放心し、やがて元の光景に戻る。それでもまだぼやけたままだったけど。 「うん……落ち着いた」 心音は、戻らない。伊織の前でせわしなく鼓動を繰り返すばかりだ。 その後はさんざんだった。 吐き出してしまった熱を伊織にティッシュで拭かれそうになり、自分でやるからとティッシュ箱を奪ったら逆にもの凄い目つきで睨まれてしまった。後片づけも、任せっぱなしだ。 一通りが終わった後、伊織がエアコンの設定温度を少し上げる。それから俺の額に手を当てた。 「……熱い。もう寝ろ」 耳の近くに口がきて、声と息と熱が入りこむ。 そのまま、中途半端に与えられた熱だけが浮遊した。 「…それ、何?」 ベッドの横にあるサイドテーブルに、山積みになっている封筒やハガキの束を見つけたから、服を着ている伊織に聞いてみる。 伊織は服から首を出すと、テーブルの上のモノたちを冷えた視線で一瞥し、なんだそんなものかと言わんばかりに。 「事務所から送りつけられた」 手を伸ばし、いろとりどりの紙の山の一角から2、3通ほど取ってみる。宛先は芸能事務所になっていた。 そういえば、伊織は最近欠席が増えたらしい。仕事が忙しくなりはじめたのだとか。 お得意の益岡からの情報で、小耳に挟んだ。 名も明かさない正体不明のモデル。彗星のように現れた逸材なんて一部世間では騒がれているらしい。 どのくらいの規模かは知らないけど、多分凄いことなのだと思う。 ファンレターと思しきものはどれも封が切られていた。 「全部読んだの?」 「事務所がな」 「伊織は読んでないの?」 「読む時間も意欲もない」 「……大切に、しなきゃ」 余計なお世話だとまた刺すような視線を放たれる。 それでも大事なものは大事だ。 「だって……、これ、伊織を応援してくれてる人からのモノだろ?」 「……」 こんなところに放置しておいたら、そのうち全て燃やされてしまいそうだ。 俺は少し考えてから。 「これ、少し持ってっていい?」 「何に使うんだよ。腹の足しにはなんねえぞ」 「そういうこと言うなよ」 一先ずの了承は得られたからなるべく厚そうなモノを選んで枕元に置いた。 それにしても膨大な量だ。でも宛名は編集部で、伊織を表す名前は書かれていない。 名前がないのは不便じゃないのかな。俺に「唯人」という名前がなかったら困るのと同じように。 「芸名つけないの?」 「つけたい名前がない」 本名は明かしたくないんだろう。 「お前は、何がいい?」 「え?」 「好きなように、決めろ」 随分、唐突。 命令口調でも、頼みごと。 ──伊織の名前を、俺が? 「えっと、」 俺にとって伊織は伊織で。 有宮だって、いろんなイミでもう一生忘れられない苗字だろうし。 有宮伊織の、第二の姓……。 「んー…」 「そんな真剣になるなよ」 「え、なに、冗談?」 「軽い考えで、適当でいい」 「適当って、そんな」 「唯が決めるなら、何でもいい」 伊織から名前を呼ばれるのは、いつまで経っても慣れない。 (どういう意味……) 廊下の方から古風な柱時計の時報が聞こえてきた。 ボーンボーンと、鈍いのに、遠くまで響いてくる。 「……いおり、って」 「?」 「名前は、そのままがいい」 「…まあ、変えるなら苗字だな」 伊織がまたエアコンのリモコンを操作し、今度はスイッチをオフにした。 「──俺の、使っていいよ」 時報が鳴り止む。エアコンの稼働音も消えた。 静寂に満ちる部屋の中、視線を斜め上にあげてみると俺を見つめる伊織の顔があった。 最初会ったときは睥睨されるばかりで、笑い顔とか多分一生向けられることはないと思っていた。 こんなふうに目を丸くする伊織は、人間らしく。 同級生だと、思った。 同年齢の人と接しても、自分だけ違う世界で生きている感じがしていた。 伊織は、今まで話してきた人たちより、ずっと近い。 同級生。 案外、同じ土俵に立ってるんじゃないか。何がとはっきり言葉に出来ないけど、何かが。 出会い方が、少し違っただけだ。 こんなこと言ったら、また嫌そうに顔をゆがめられるかな。 伊織が今度は自分の携帯を取り出してどこかに電話をかけ始めていた。 「──もしもし。芸名、決めました。はい……橋本、伊織で」 橋本、伊織。 苗字と名前の間に隙間を置くよう、はっきりと告げた。 橋本伊織。 はしもと、いおり。 伊織はその後も何か少し話していたみたいだけど、頭はそのフレーズを反復するばかりで、全く耳に入ってこなかった。 「…何だよ」 携帯を切った伊織をずっと呆けた目で見ていると、怪訝がるように目をひそめられた。 「や。本当に使うんだなって…」 「自分が言ったくせに」 「そうだけど」 嫌じゃないのかな。 「何でもいいって言ったろ、唯が決めるなら」 だから、それはどういう意味だ。 「──何で、モデル始めたの?」 なんだか今日はいろいろ聞いてばかりな気がする。 「気になるか」 「好きでやってるワケじゃなさそうだし」 「……よく分かんな」 本気で驚いてるみたいだった。 「……それくらいは、分かるよ」 「ふーん」 ……自分で言った言葉に自分でいたたまれなくなる。 何様だ、俺は。 知ってるって、伊織のこと。 ただの、強がり。意地。どうしてこんなところでそんなの出てくるんだろ。 でも本当、少しは知ってるから。 伊織が後ろを振り返ってしまい、その顔が見えなくなる。 「……親父から、早く離れるため。こういうのが、一番手っ取り早く稼げるだろ」 「……」 俺がウリをする理由と、部分的に一致している。 「仕事、嫌? 楽しくない?」 「……先を考えると、楽しいかもな。ああ、楽しくて、たまらねえよ」 父親から離れるため。 伊織がまたこちらを振り向く。何か言おうとしたのか、口を開いたけど、すぐ閉じた。 そしてまた開ける。 「……だから、どうしてお前はそういう顔するんだ」 「どんな顔?」 「悲しくてたまらねえって顔」 ああ、悲しいんだ俺。 「……離れたいなんて、言うなよ」 「どう思おうが俺の勝手だろ」 「だって、本当は伊織……」 そこで口をつぐむ。 「…何?」 「……」 「俺が本当は、何だよ?」 「……本当は、直樹さんのこと、憎んでなんかないだろ?」 また熱が上がったのか、くらくらする。これは久々にまずいかも、ちょっと。 「…日本語話せ」 「日本語しか話せない」 「憎んでる」 「憎んでない」 「……あのな、それはお前の希望だろ」 拉致の開かない、意味のない論争。 だって子供だ。お互い。 「…もう、寝ろよ」 「……うん、寝る」 日が少し落ち始めた。最近の天気は不安定だったけど、今日は茜色が見える。 寮と店以外の場所で眠るなんて、小学生のとき以来だ。 梅雨が明けたら夏が来る。すぐ傍で、もう夏の息が聞こえている。 季節が緩やかに変わって行くのと同じように、記憶も緩やかに変わっていったらいい。 まどろみが来て、それでもまだ意識は飛ばせないままだった。 「……光志さんのこと、まだ忘れてない」 大丈夫じゃないって、言われるから。 ちゃんと、伝えとかないと。 「忘れてないけど、大丈夫なんだよ」 「…ああ」 信じてくれるか。 「まだ…全然、残ってる、けど……」 忘れられるはずないし、気持ちは薄れない。 例え嘘と知っても、相手が想ってなくても、それでもまだ消えない。 馬鹿かな、俺は。 でも消せないんだ。 一つの現象として受け止められている。現在進行形で想っているけど、もう過去のこと。 いずれか。 忘れてもいいと、きっと思えるから。 思えるように努力するから。強くなるから。 無理に忘れようとするよりは、マシだろう。 伊織が布団をかけてくれた。 「……ありがと」 「礼とか、俺に言うな」 「何で」 「何でも」 「…はは、でも俺、言わなきゃ」 伊織には言わなきゃいけないんだ、たくさん。 俺の弱さを知っていながら、まだこうして傍にいる。 いなかったら、多分今頃酷かっただろうから。 「……風邪、悪化するぞ」 ドラマでよく死人にするように、伊織が俺のまぶたへ手をかざし瞳を閉じさせる。 伊織の触れかたは優しい。 他意はないけど、そんな伊織の優しい触れかたが俺は好きだ。 眠りに落ちる前、最後に思ったのはそんなことだった。 →# [ 37/70 ] 小説top |