「待ってよ」

 やられっぱなしは、癪に障る。

 俺はこんなに意地っ張りだったか。

「……ああ、そういえばまだ話してなかったな。お前の読みは正解だよ。親父だってその考えに辿りつかねえのに、さすがだな」

 伊織は笑ったままだ。無理やり笑いを貼り付けた彫刻のような顔。
 光志さんが暴力を受けてたなら、伊織も。

「…直樹さんは、知らないの」
「俺のは、分かんねえよ」

 光志さんのは知ってるのに?

「あいつは俺のことなんかどうでもいいんだよ」

 家族って、何だっけ。

 一番近くて、いろいろ教えてもらえて、尊敬し合えるような関係。
 世間では、倫理的にはそう言われるはずだ。

 俺は小さい頃にそんなもの手放してしまったけど、伊織はまだ繋がってるじゃないか。それなのに、何でそんなに冷たくなれるんだ。

「直樹さんが、嫌い?」
「憎んでる」

 ずっとワケが分からないことばかりだった伊織が本心を話してくれているのに、感慨も何もなかった。
 まだだ。
 まだ、伊織は全然本当を見せてない。隠してる。

 そもそも、どうして俺はこんなに伊織に踏み込んでいるんだっけ。


 思って、分かった。
 踏み込んだんじゃない、引き込まれているんだ。いつの間にか、吸い込まれている。伊織の内に。だけど、全く見えないままで、俺ばかりが全てを曝け出している。

 掴んだ腕は冷たい。

「見たいか? 痕。見せてやるよ、あいつと同じように」

 答える前に、伊織は俺の前で服を脱ぎ始めた。ぎょっとする。ぎょっとしても、スタイルのいい黄金比の身体を見てしまう。

 背中。
 二の腕、鎖骨。

 一つ一つは大きくもない。ちゃんと見なければ見逃してしまう。年月も経って薄くなっているのかもしれない。

「…そんなにまじまじと見るなよ」

「勝手に脱いだのはそっちだろ」

 自分が自分じゃないみたいだ。
 痛い。
 伊織の痛みが流れて来るようで、自分の怠い身体なんかどうでもよかった。
 無意識に、伊織の肌に手を伸ばしていた。伸ばして、指先が触れる。

「誘ってるのか?」
「馬鹿、言うな…」

 言葉と行動があべこべになってる。自覚しているのに、手が離せない。

 視界が揺れた。
 熱だ。多分俺は熱でおかしくなっている。

「手が熱い」

 伊織が冷たいんじゃなくて、俺の手が、熱いのか。

「お前、熱でおかしくなってるだろ」

 ほら、伊織もそう言っている。

「……そうかも」
「肯定か」

 息を吐いて、頬へ手を添えられたかと思うと、あごを持ち上げられ伊織に唇を塞がれた。

「……は、……んっ」

 上唇を舐められ、弾力を持った舌が侵入してくる。軟弱に噛んでいた歯の壁なんか簡単に突破された。
 身体が重くて、視界は歪んでるのに絡め取られた舌の感触を追っている。


 伊織は客じゃないし、ましてここは店でもない。伊織の家、直樹さんの家。

 光志さんの家。

 数か月前まで光志さんが生活していた空間で、俺は伊織に触れていた。

 呼吸が苦しくなり、唾液が口端から垂れて皮膚を濡らす。

 舌状を確かめるように何度も何度も絡め合い。

 伊織の舌は容赦なく口内を攻めたて、そうでなくても回っていた頭がさらに蕩けそうになる。

 熱い。熱い。熱い。
 さっきまで冷たいと思っていたのに、今は全身が燃え上がりそうに熱い。

 熱の中で、寒気がした。震えが背中を駆け巡る。

 身体に抑えが利かない。抵抗などもっての他だ。そのまま押し倒されて、上半身が密着する。

「…んぅ」

 声まで、全て奪い尽くされている気分だ。伊織の指が首筋を下る。

「か…ぜ、うつる」
「そんなに軟弱じゃねえよ」

 艶やかな声色が降ってくる。

『こうしていると、まるで本物の恋人同士』──とは、到底思えない。
 艶然な笑みも、怖いほどの完璧な身のこなしも、全てが夢の中のみたいだ。

 いつも肝心なところで現れるくせに、本音は見せないし謎は多いし、光志さんを忘れさせるような雰囲気でもない。むしろわざと思い出させている。
 きっと、分かってやっている。

「だめ、だめ」
「お前な、そんなふうにいつも客を煽ってんのか」
「そんなんじゃ、ない」

 客を煽る真似なんてしない。盛っている人だけが来るんだ。煽らなくても、充分。


「無自覚なら余計にタチ悪い」
「も、やめて。ほんと、ダメ」
「じゃあこれは何だよ」

 刺激に弱い身体なんてこと、嫌というほど分かってる。

 視線で示された部分に目をやり顔を覆いたくなった。本当にもう、この身体は。

 このまま流されてしまうのは、ダメだ。
 いろいろ。
 イロイロが、崩れてしまう。

「……いいか、お前は今熱を出している」

 また俺の瞳孔ど真ん中を貫く。

 伊織の開かれた瞳がだんだん閉じられていき、額に唇を落とされた。この男のまとう色香が直撃して、苦悩の見え隠れする表情さえ、艶やかで。

「俺はお前に煽られた」
「煽ってない」
「うるさい。認めろ」

 触ったのは俺からだ。
 あのときも、今も。

「お前は今おかしい。俺も今おかしい」

 首を縦に振っていた。

 伊織が舌で俺の耳を犯しながら下半身へ腕を絡ませる。

「だから、これは悪いことじゃない」

 お金、もらってない。

 伊織は客じゃない。同級生。同級生で、俺の元恋人の、弟。
 いつも酷く扱うのに、たまに驚くほど優しいから錯覚してしまう。そう、今みたいに、優しくなんか触れるから。

 いっそ一思いに喉を掻き切られたら楽なのかもしれない──なんて思うのは、あまりにも自虐的か。

 ああ、難しいこと、もう考える気力がないや。
 本当に、熱が回ってしまったか。


 ただ今は、どうしても脳裏に浮かぶ彼の姿を消したくて。
 この熱に浮かされる身体をどうにかさせたくて。
 ズボンから侵入してくる伊織の手を、追い返せなかった。

「…ぁ…だかないって、言ってた…のに」

「安心しろ。ただ処理するだけだ」

 ただの処理。それを聞いて重たい気分が少し楽になる。

 伊織の手が俺のそれを弄るだけなのに、どうして呼吸は苦しいほど上がって行き、こんなに快楽が押し寄せて来るのだろう。

 もしかしたら伊織も自分の行動を疑問に思ってるのかもしれない。

 俺みたいなのに痕を見られ、父親でも知らなかったこと見破られて。
 きっとこいつはプライドが凄く強いから。

 同じように、焦燥してる。

「俺が誰だか分かるか」
「…いおり?」
「馬鹿、認識するな」

 聞かれたから答えたのに、我儘な、やつ。

 こんなこと許して、怒られるかな?

 誰に?

 ──俺を怒る人なんて、最初からいない。

 ただ、俺の中に残っているだけだ。いつまでも、いつまでも。罪悪感を感じても、肝心の相手の中に俺はいない。嫉妬なんかしていない。
 なんだか割と馬鹿みたいだ。

 馬鹿で、みじめ。

「……ん、やぁ」

 いよいよ伊織が俺のを本格的にいじくりだす。

「声、抑えんな」
「んあッ!」
「痛えだろ、それ」

 手の甲へ歯を押し当てていると、どかされる。痛くてもこんなはしたない声、聞かせたくなかった。




「出せよ。流せって」

 前も同じようなこと言われた気がする。記憶を検索しようにも、こんな脳じゃ、使い物にならない。

 まださっきまでは緩やかだった屹立が、今は完全になって現れていた。
 先端を爪で引っ掻かれ、思わず腰を跳ねさせると、伊織は何回もその動作を繰り返してくる。割目を触られるたび、声があがり、液が溢れ出す。

「あっ、あっ」

「面白いな、お前」

「やっ、むり、ぁ」

 声にならない喘ぎが反響のいい部屋に響く。

 たまたまキスしちゃって。
 たまたま反応しちゃって。
 たまたまその相手が、伊織だった。

 無理だ。
 そんな都合よく閉じ込められない。

 キスの相手が伊織じゃなかったら、きっとこんなに感じなかった。

 なんだよ、何だ俺。どうしてこんなに、伊織に。



「……イかねえな」

 さんざん扱かれ、いろいろな動かし方をされ、無意味な羞恥が今更に襲ってきて泣きそうになっていた。

「も……」

 正直、限界なんかとうに超えて、身体は熱すぎてそのうち視界すら途切れてしまいそうな気もするのに。

 言葉に、したくない。

「何だよ、言いたいことあるならはっきり言え」

 その手つきも目つきも生殺しだ。

 伊織は俺が喋れるようにわざと手の動きを緩める。その微妙な刺激が余計に俺を追い詰めた。

 言いたくない。言うしかない。

「唯、言え」

 この声に抗えない。

「…もっと……いた、く」

 多分俺は仕事のしすぎ。

 当初はもっと簡単に果ててたはずなのに、気付けば痛みの中で達するのが当たり前になっていた。



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