「……最初から間違いで、嘘だったんだよ。俺は光志さんのことなんか好きじゃなかった。なんとも、思ってなかった」

 言い聞かせるように言っているのは、本当は自分でも気付いているから。

「……間違いなんかじゃねえよ」

 磁石のように、引き寄せていた。
 それは相手も同じように感じていたのかもしれない。強い磁場に逆らうこともせず、唯の表情は俺の中へ埋まった。

 引き寄せ、引き寄せられ。
 そのちっぽけな存在を、離したくないと思っていた。

「恋愛に、間違いもくそもねえ」
「……おかしいよ、お前……」

 そうだ。俺はおかしい。
 本当は、罵るつもりでいたのに。橋本唯はロクでもない人間だと思っていたのに。

 同情が出来るような柔和な人間じゃねえけど。
 今兄貴と親父のせいで傷ついている唯へ、冷たい視線を向けることも無視することも出来ないでいた。
 そうしたところで、俺が気持ちいいことなど何もない。むしろ胸やけがする。

 こいつが関わると、たまに自分が分からなくなる。

「……いけなかったんだ。俺は……最初から、あの人を好きになっちゃいけなかった」

 かすれる声は不安定で、このままだと本当に唯の存在はかれてしまいそうだ。

 感情を隠そうと思うなら、もっと上手く隠せ。

 心配するな。
 例えお前が隠そうとしても、兄貴が好きだったことは、俺が絶対に忘れない。

「……好き、で、いいの?」
「……ああ。いいんだ」

 隠せないほど、強い感情なら。
 閉じ込めるなんて、やめろよ。
 流せ。
 流して、流して、ゼロになれ。


「受け止める人間が、お前にもいる」


 見ているか? 兄貴。
 兄貴みたいな人間のために、傷ついているこいつを。


 髪の束に指を通せば引っかかることもなくすんなり抜け出る。
 動きを何回か繰り返すにつれて唯の声も萎んで、震えもおさまっていく。最後には沈黙が空気を覆っていた。

 すん、と唯が鼻から息を吸い、そして口から細くゆっくり吐き出す。深呼吸に肩が上下していた。
 
「……時計、…いま、何時?」
「…32分」
「じゃ、あと半分だ」

 もう30分もこうしていたのかと思うと、大概自分も無駄な時間を過ごしている。でも唯がもたれかかっていきていた時間は苦でも何でもなかった。

「……抱く?」

 そうやって問えば俺が憤るのを知っているくせに。
 顔を上げて俺から空間を取る唯を睨むと、相手はさほど動じたふうでもなく受け流した。

「だって、ここはそういうところだから」

 言い聞かせてる? 諦めてる?
 それとも本気で、そう思っている?

「……仕事が辛くねえのか」
「別に。もう5年以上続けてきたし、辛いとか、そういう感情はない、かな」
「俺には辛そうにみえるけどな」
「見定め間違いだ。やっぱり伊織は真面目だ」
「……真面目?」

 どこが、と聞こうと思ったけど、まともな答えが来るはずもない。やめた。

「客だったら、キスしてもいいのか?」
「キスもセックスも、それ以上も何だってアリだよ」

 それ以上。

 ……そういうことを言ってるから、今回みたいになったんだ。


「あ、傷とかつけるのは、もうダメらしいけど」

 親父は本当に馬鹿だ。
 こいつは自分を省みず、そのくせ相手の痛みには呆れるほど敏感なんだ。俺の傷にすら、今にも泣いて崩れてしまいそうな面を見せた。

 そうなったのはこんな環境のせいで、恋人とか大切な人とか作ったところで自己犠牲の性格は多分ずっと変わらない。
 こっちが目を逸らしたくなるような、その真っすぐさも。

 気付けば、ハマっている。

「……誰がお前なんか抱くか。いいから、黙って寝ろ」
「……ウリ失格なんだけど」
「寝ろって言ってんだ。何もしねえよ」

 今更気丈にふるまったって、現実は何も変わっていない。
 いくら痛みや辛さを流しても、兄貴が唯を裏切ったのは一生こいつの中に残る。
 兄貴がこいつを泣かせた事実も、消えはしない。

「…ん、分かった。寝る」

 唯は薄っぺらい掛け布団に身を包み、仰向けになって睫毛を下げた。

「…伊織」
「何だ」
「…ありがとう」

 やがて唯の寝息が聞こえてきた。

 眠りから覚めたら、兄貴のことなんていっそ記憶から抹消されていればいい。下手に隠そうとするより、よっぽどマシだ。
 でもそんなのは、絶対無理だから。



 見ているか? 兄貴。
 お前がこいつを、泣かせたんだ。
 お前のために、泣いたんだ。
 この不完全で未完成な心が、悲鳴を上げた。
 身体を明け渡すのを全然辛いと思わない心が、お前によって壊れた。

 ああ、くそ。
 この胸糞悪い感情をどうしてくれる。
 

 見ていろ。

「──俺のところに、落ちて来いよ」

 再生させて。
 お前に崩されたことなんか分からないくらい、元通りにして。

「兄貴なんか、忘れろ…」





 ──そしていつか、今度は俺が泣かせてやる。


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