きみの、いき T * * * 「光志、頼みがあるんだが」 親父が兄貴に頼み事をするときは、大抵普通の頼みじゃない。 「この子に近付いて、付き合ってほしい。名前は、橋本唯。高校生で、伊織と同級生だ」 ドアの隙間から漏れる、親父と兄貴の会話を聞いていた。 俺は小さい頃から一つ上の兄と親父が憎かった。 理由を聞かれれば、はっきりと言葉には出来ない。どろどろとした感情が胸の中で渦巻くだけ。その中に妬みや羨望も混じっているのが、余計に俺を腹立たせた。 生理的に、受け付けない。血が繋がっている、ただそれだけで。 ロクでもない親父を尊敬する兄貴と、それを利用する親父。 被害者、橋本唯。 親父の口から出て初めて、その名前を知った。 「親父がそこまで言うならいいけど……この子は、誰?」 兄貴が持っている写真は見ることが出来なかったが、後々確認することに成功した。 「詳しくは教えられない。……けど、そいつに少しでも人としての感情を与えてやってほしい。誰かと接することの温もりを……」 思わず笑いが漏れそうになった。 そんなもの、故意に生み出せるものじゃない。 下らない遊びに足を突っ込むのに興味もなかったから、俺はただ黙ってその会話を自分の中に閉じ込めた。忘れは、しないように。 数ヶ月後、俺はまた二人のコソコソ話を耳にすることになった。 「唯に告白してきた」 「そうか……どうだった?」 「まだ。時間を置いた方がいいと思ったから。でも多分あの様子じゃ大丈夫だよ」 俺は知っていた。 親父の部屋にある机の、鍵がかかった引き出し、親父が運営する店の顧客リストに、従業員の情報があること。そしてそのロックナンバーも。 予想通りに、従業員の書類の中、橋本唯と同じ顔があった。 ウリ専の同級生。 恐らく学校中で誰も知らない橋本唯の秘密を、会話も面識もない俺が掴んでいた。 「唯と付き合うことになった」 逐一報告されるメール。親父や兄貴の携帯を、暗証番号を発見し盗み見て、少しずつ橋本唯に近付く。 学校でまず姿を見て、それから親父の店の場所の下見。 そうして今年度に入って初めて対面した、橋本唯。 初対面でいきなりもう抱くのかと尋ねてきた。 遠目で見るより、写真で見るよりずっと、ずっと整った顔をしていて。 壊したい。 衝動を、襲わせた。 壊したい、壊したい。 兄貴と橋本唯の関係。 許せない。 最後は結局、捨てるのだろう? 許せない。 親父と兄貴がこんな「キレイ」なモノをいずれ潰すなんて。 こんな「キレイ」なモノが、ウリを隠して恋愛しているなんて。 兄貴も兄貴なら、橋本唯も橋本唯だ。腹黒いにもほどがある。 「へらへらそこに突っ立ってんじゃねえよ」 ああ、わけの分からない破壊衝動。全員後悔させてやりたい。 そう、出会ったそのときは確かに思っていた。 橋本唯のことを、俺は何も知らなかった。 意外にも再度の接触をはかってきたのは唯からだった。 学校に話さないでくれ、と。 脅すことも出来たけど、瞳の中に精一杯の虚勢があって何だかその気も殺がれてしまった。 (…調子狂う……) もっと嫌な性格だと勝手に想像していた。 「ありがとう」 素直に礼を言われた。思えば誰かにありがとうと言われるなんて久しいことだった。 ウリの仕事にそこまで必死になる意味が不明だった。 収入が高くて病み付きとか、どうせそんな理由だろうにと、そこでも俺は唯を勘違いしていた。 橋本唯には、両親がいなかった。 「Aっていう男がいてさ──」 AとかBとかCとか、ローマ字の勉強してるんじゃねえと内心毒づきながら、複雑な生い立ちを黙って聞いた。 唯は親の愛情を知らない。 俺と、一緒だった。 俺は小さい頃から一つ上の兄と親父が憎かった。 離婚した母親に暴力を奮われていた兄貴。離婚することで暴力から解放した親父。 親父と兄貴の間には変な固い結束があり、腹違いの俺はそこへどうしても入っていけなかった。 親父の浮気から俺は産まれた。 結局母親の暴力の原因だって、親父故にというところもあったんだ。 人と接することの温もりを、唯に教える? 馬鹿らしい。どの面下げて言っている。 ああ憎たらしい。 何も知らないで、兄貴と付き合っている唯も憎たらしい。 キスしたら、拒んだ。 ちゃんと拒むことも出来るだろ。 ならどうして、兄貴を拒まなかった。 どうして、真実を知った今、そんなに傷付いている。 ──きっと、それは橋本唯にとって唯一無二の初恋で。 初めて負う、恋愛の傷だった。 「……何で……」 幽霊でも見るかのような顔つきで、部屋に入った俺を直視した。 唯へは近づかず、ベッドの端に座る。唯は俺を追い返そうとはしない。 「知らない方が幸せだっただろ」 「別に……。最初から、有宮だって教えてくれれば良かったのに」 いずれ壊れるなら俺の手で。 それも、一番残酷な方法で壊してやりたかったのに、蓋を開けてみれば酷く中途半端な終焉だった。 「だから好きになれって言ったんだ。俺を好きになっていれば、楽だった」 「そんなパズルみたいに行くか」 案外、はめ込んでみればどうとでもなるんだ。 楽な方へ。 誰もいばらの道なんて進みたいとは思わないから、するりするりと、いつだって上手い形に収まろうとする。 でも俺たちみたいなのは、きっといつまでもあぶれたまま。 それを唯も、知っている。知っているから、諦めたふりをしている。 「好きだったんだろ、あいつのこと」 昨日も同じように、唯が答えられないのを知っていながら、意地の悪いことを聞いた。でも今は違う。もう吐いてもいい。吐かせたい。 お前は、認めようとしていないだろう? その感情を閉じ込めようとするだろう? そんなもの、俺が許さない。 「好きとか…別に、そんなわけ」 「俺の前で嘘つく必要は、ねえよ」 立ち上がったのも、そこから唯へ近付いたのも、無意識にやっていた。 不安げに見つめてきて、それからすぐに顔を逸らされる。 敬遠されればされるほど、近づきたくなる。 →# [ 29/70 ] 小説top |