それからどう歩いて行ったかなんて覚えていない。ただ気付けば見慣れた通りに入って、見慣れた店の前に来ていた。
 今日は非番のはずだったのに。

 裏口から事務所へ入ると、すぐに直樹さんが俺の方へ詰め寄って来た。



 直樹さんの瞳が揺れていて、俺を傷つける意思がないことはなんとなく分かった。
 頭を下げられては俺はどうすることも出来ない。

「……唯、もう全部知っているんだな? 悪かった」

 まだ動機だって聞いていないのにその言葉は早いよ、直樹さん。

「全部説明してよ。何で俺が光志さんと付き合うように仕向けたの?」

「……お前、自分の身体大事にしないだろ。いつも傷だらけで、自分のことなんかどうでもいいって思ってる節があったから…恋人でも作れば、変わるんじゃないかって。それで光志に、お前を紹介した」

 その言葉を聞いて納得できたのかできないのかは自分でも分からなかった。

 ただ、想像していたよりは酷くない理由だったっていうのは確かだ。
 もっと酷い理由だったなら、俺は怒りでも何でも直樹さんと光志さんにぶつけられていたのだろうか。

 光志さんと俺が出会ったのも、全ては直樹さんが俺の写真を光志さんに渡したから。告白してきたのも、初めから付き合えと言われていたから。

 しかし実の父親に付き合えと言われて素直に付き合う光志さんも凄いな。
 それだけ光志さんにとって「父親」は大きな存在なのか。
 それとも、あの母親から救ったという話も嘘だったのかな。どこまで本当なのか確かめるのも面倒だ。

「だけどな唯、付き合えって言ったのは俺だが、光志は……」

「いいよ。光志さんのことはもう忘れる」

 ゆっくり、まるで本当の恋愛のようにスローペースで歩んできた。
 恋人役を演じてきた、なんて本人の口から言われなければ信じられないくらい。

 もう似たようなことは言われたから、疑うも信じるもないけど。

 俺は直樹さんの顔をゆっくり見上げ。
 笑顔こそ見せられはしなかったものの、それなりの顔は出来ているはずだ。

「これから自分の身体にあまり傷もつけない。それで、いいでしょ。とりあえず今日は指名OKにしといてよ。これから出るから」

「!? 今日はお前、休みの日だ。唯、頼むから自暴自棄にならないでくれ。お前に黙っていたのは謝る。なんなら殴ったってかまわない」

 殴る…ああ、殴れば少しはこのよく分かんない気持ちもスカッとするのかな。

 でも殴られるより殴る方が痛いらしいから、それは遠慮しておこう。

「何回言ったら分かるの? 直樹さん、俺はここでは唯人だよ」

 何だかとても微妙な顔をされた。
 まだ喋り続けなくちゃいけないらしい。

「…自暴自棄になってるわけじゃないよ。俺は別に大丈夫だから。元々お遊び程度で付き合ってた相手だし。光志さんだって、そのつもりだったんでしょ。直樹さんがそんなに腰低くなる必要もないよ」

 でも、まあ今まで数カ月付き合ってきた恋人を失ったわけだし。

「今日は、寮に一人でいるより仕事してた方が集中出来るから」

 ね、お願いと頼むと、直樹さんはもう何も言わなかった。

 脳裏にはまだ鮮明に光志さんの姿を思い浮かべられるのに、彼はもう俺の前には現れないのだ。
 そう思うと何だかとても不思議な気分だった。

 もし俺が途中で仕事を告白したり、自らの身体を無下に扱わないようになったりしていれば何かが変わっていたのだろうか。

 そんなこと考えたって、無駄だろうけど。





 予約なしで出勤するのは久しぶりだった。
 指名客が入れば内線から連絡がつくようになっている。
 本来はロビーで待っているものだけど、俺の場合は未成年ということもあって特別だった。
 ロビーにいれば他のボーイとの交流があるから俺にとってはありがたい話だ。

 だから客の顔はその場になってみなければわからない。

 まだ到底指名なんかつかないだろうと推測し、数時間ぶりに自分の携帯を確認するとメールが入っていた。

『もう光志には会ったか?』

 そういえば伊織には昨日帰り際に光志さんと会うことを伝えたんだった。

『兄弟だったんだ』

 こう打てば分かるだろう。送信すればものの数分で返信が来る。

『異母がつくけどな』

 異母兄弟……。
 離婚したのが光志さんの母。
 光志さんと一歳差の伊織は不義の子ということになる。
 何だか頭が痛くなってきた。

 それから返信する気も失せて、指名を待った。来てほしいときほど来てくれない。
 内線の音が起こしてくれるだろう。俺は少しだけ眠りに落ちて、起きた頃にはもう窓の外は大分暗くなっていた。


 寝ぼけ眼でいると、内線が入る。三回鳴って終了。この場合は初めてのお客様じゃない。

(…良かった)

 初めてのお客様に満足していただける自信がなかった。リードするんじゃなくて、されたい。



 

 そして、伊織は俺の部屋にやって来た。

「……何で……」
「正式に予約取ってやったぜ。これなら親父も文句は言えねえしな」

 そもそも未成年の利用は禁止されているんだけど、そのときの俺はそんな冷静なツッコミも入れられなかった。

 伊織はずかずかと部屋に入ってきて、ベッドの端に座った。俺のいる方とは反対側だった。

「知らない方が幸せだっただろ」
「別に……。最初から、有宮だって教えてくれれば良かったのに」

 お客様として来ている以上、伊織を追い出すことも出来ない。

「だから好きになれって言ったんだ。俺を好きになっていれば、楽だった」
「そんなパズルみたいに行くか」

 感情は、コントロール出来ない。

 自分の立場を分かっていながら。

 俺は恋をしちゃいけない。昔から今も、そしてこれからも。

「好きだったんだろ、あいつのこと」

 伊織は天井を見上げていた。
 今度こそ笑ってみせようと、頑張るけど顔に力が入らない。

 伊織の来た目的が分からなくて、そういえばこいつは俺のことが嫌いだったんだと遠くで思った。
 俺のこの腑抜け面を見に来たのかな。

「好きとか…別に、そんなわけ」
「俺の前で嘘つく必要は、ねえよ」

 伊織は立ち上がり俺の前へやってきた。

 無表情にもほどがある。鋭い目つきは相変わらずだけど、もう出会ったころの侮蔑の色はなかった。
 俺は何故か伊織の表情を長くは見つめられなかった。



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