(……なに考えてんだ)

 学校の廊下で遠目に見ても目も合わせようとしない。

(好きになれ……)

 伊織に恋する自分というのがあまりにも有り得なくておかしくなり、口角をあげるなんて慣れない真似をしようとしたけど口が歪むだけだった。
 相手だって俺のことを嫌っているくせに、よくそんなことが言えたもんだ。

 雑誌を棚へ戻して家へ帰る。生温い風が頬を滑った。

(好きとか、嫌いとか)

 感情を、命令されてコントロール出来るならどんなに楽だろう。


 益岡に返信もしていないのに、またメール受信の色に光る。今日は珍しく騒がしい。
 寮の階段を上りながら中身を確認すると、未登録のアドレスからだった。
 どうせアドレス変更の知らせだろうと決め付けて開いたけど、内容は全く異なっていた。

 しかも、嫌な異なり方だった。

『お前の恋人のこと、知りたいか?』

 記憶を掘り返せば、意味のない文字列のアドレスには見覚えがあった。以前俺が破棄したアドレス。引っかかったが最後、確信となってまた俺を暗闇の中へ突き落す。 俺はただ玄関の扉の前で佇み、風をあびていた。生温い風だった。




 * * *


 喜瀬さんとは行為の前に少しだけ話をする。
 時間制であるのに俺とお喋りしたいなんて客は少ない。
 セックスとお喋りとどちらが楽かと一度問われたことがあるけど、どちらも作業に尽きる俺に返せる言葉はなかった。貯金と生活費のため仕事。それ以上でもそれ以下でもない。

「恋人にフられたよ」

 部屋に入って開口一番、喜瀬さんは情けない笑みを浮かべてベッドへ腰かけた。なら今日の俺は慰め役か。役割が分かっているとやりやすくていい。

 喜瀬さんは俺が中学生のときからの常連客だ。でも頻繁に来るようになったのは割と最近で、特に今年に入ってからはよく利用されている。
 SMなんて俺の客にありがちな嗜好もなく、普通のセックスしかしない中年。既婚者ではないが、そろそろ結婚を視野に入れてるとも言っていた。しかしフられてしまったのなら話は別だ。

「これで俺には唯人しかいなくなったな」

「喜瀬さんにならまたいいヒトが出来ますよ。今日のところは俺で良ければ慰めに」

「ありがとう。唯人は優しいな」

 それは喜瀬さんがお客様で、俺が従者だからだ。金で結ばれる関係以上に強い繋がりなどない。

「もう触っていいか? 今日は少しだけ、長く」

 お喋りなどしている気分でもないだろう。喜瀬さんは俺の了承を得る前から服を脱がし始める。最初から裸でいることも出来るのだけれど、喜瀬さんにとって服を脱がすというのもプレイの一部に入るらしく、なるべく厚手の服でいつも待つことになっている。



「でもフられて当然なのかもしれない。俺は彼女を騙していた」

「ここのこと、で?」

「いや、それもあるけどな。実は俺は男とも付き合っていたんだ」

「え……」

「数ヶ月前に別れたけどな。はは、結局両方失った。ムシのいい話だ。こんな俺が幸せになれるはずもない」

 ここでの会話が一切外に漏れることないのを知ってか、喜瀬さんは独りごつように苦渋を吐いていた。行為よりも誰かに吐き出したくてここに来たのかもしれない。
 でもそれが逆効果となってか喜瀬さんの動きはいつもより激しかった。
 彼の中途半端な普段の愛撫よりよっぽど俺を高めていく。案外、互いに集中していない方が濃厚なセックスになるのかもしれない。そこに愛なんかなくたって、どうにでもなる。

「俺もおかしいが、今日は唯人もおかしいな」

「そう、ですか?」

「何か忘れたいことがあるようだ」

 忘れたいこと。
 そうだ。出来ることなら昨日の記憶丸々一日消せたらいい。
 意味の分からないメールも、あいつの眼差しも、直樹さんの気持ちも。触れるだけでかぶれてしまうなら。

「──忘れましょう。二人で……ッ」

 喜瀬さんが俺の鎖骨に噛み付いた。かつて愛し合った人を最終的には全て失って、それでも人はこうして誰かの熱を求める。

「唯人、身体だけの関係は楽だな」

 喜瀬さんは俺が果てる前にそう呟いた。

 そうだ。感情なんかなくたってセックスは出来るし子供も出来る。




 けど喜瀬さん、感情を捨てることは出来ないんだ。俺はもう、それを知ってしまった。




「……喜瀬さんは、」

 今日の彼は少しお喋りだから、俺も少しだけお喋りになっても許してくれるだろう。

「両方と付き合っていたとき、どちらの方が大切でしたか?」
「男の方だよ」

 意外にも即答だった。てっきり女の人を選んだから男とは別れたと思ったんだけど、そう簡単ではないらしい。喜瀬さんはタバコの煙を鼻からゆっくり吐き出す。

「今でも写真を捨てきれずに持っているんだ。見るか?」

 こう問われるということは見せたいということなんだろうけど、今の喜瀬さんはどう返しても構わないように思えた。

「……良ければ」

 スーツの裏ポケットから出された写真の中にいる男性を見て、俺が「お似合いだったんでしょうね」と返すと、喜瀬さんは「皮肉か?」と笑った。皮肉じゃなくて、本心だった。本心から、悲しかった。そこでタイムアップの音が鳴った。

 喜瀬さんはもう俺を指名しないんじゃないか、なんとなく、そう感じた。



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