「そんなの今更だ。俺は別に構わない」 「ダメだ。拒むことも覚えろ。何のために……」 「?」 「いや、とにかくやめろ。傷つけるプレイなんかしなくたって、充分客は取れるだろ。俺はこれでもお前のことを心配してるんだ」 「引き取った手前?」 「あんなあ…」 窓の外ではデパートの屋上から垂れるこいのぼりが風に吹かれていた。あんなふうに空へ流されたら気持ちいいかもしれない。 「……直樹さんは、ずっと前見ててよ」 言葉に詰まる人を俺は目にしたくない。まるで自分を見ているようだから。 「……唯。人生で後悔はなるべく避けるもんだ」 「後悔なんて、一度もしたことないよ」 少し前までは本当だった言葉が、今は嘘になっていた。 そのことに気付いて俺は数秒表情筋が固まった。 みしり、と。 何かが音を立ててひび割れていく。 今まで何の問題もなく築いていたものが崩壊するのは好ましくないのに、接着剤も持っていない。 「明日は予約が入ってるから無理だけど、明後日はオフだ。丸一日ゆっくり休め」 「…はい」 断っても、直樹さんは持ち前の強情さで俺を休みにするだろう。 素直に従ってから、何もない日曜日にすることが思い浮かばなくて困った。 最低限の家具だけしか置いていない部屋で、俺は床に置かれた小さな機器をずっと眺めていた。 手をのばしては、また戻す。 簡単なことだ。電話帳を開いて、その名前を押せば彼に繋がる。 夕飯を食べていないやと思い冷蔵庫に立つも、中身はすっからかんだった。また俺は黙りこくる携帯の前に正座する。 (……言おう) いつまでも隠しきれるわけがない。 例え高校を卒業してから充分な稼ぎを持ってウリを引退したとしても、それでもいつか言わなくちゃならない日が来るだろう。 (言って……どうする) 光志さんの反応を想像しても、所詮それは想像の範疇に過ぎない。 8月5日の約束を今月初めにした。 あのときはまだ頷けていた。 曖昧な関係をずっと続けられていたらよかったのに。 何もすることがない日曜日。 ただこの部屋にいる以外にも、選択肢が増えていたんだ。 考えれば、光志さんと通話するのははじめてかもしれない。メールは何度もしたけれど、直に声を聞くことはなかった。 「……もしもし、光志さん?」 『唯? 何かあった?』 「あのさ……明後日、空いてる? 少し会えない?」 『明後日? ちょっと待って…えーと、バイトだからその後でもいいか? 2時くらい』 「うん。じゃ、また明後日」 『ああ、ばいばい』 約束だけ取りつけて、他に雑談もない初めての通話は終わった。 肩から力が抜け落ちる。顔を合わせないでも会話が出来るなんていい迷惑なだけだ。 相手の動きが見えないのは、怖い。 待ち受け画面へ戻して携帯を閉じようとしたら、今度はこちらにメール受信の知らせがあってまた肩に力が入る。 (光志さんから?) 受信完了になってからすぐさまボタンを押したけど、タイミングがいいのか悪いのか光志さんからでなく益岡からだった。 『唯、お前先生から呼び出しかかってたのに勝手に帰んなよ、って担任が言ってたぜ。あとコンビニで「LOOK」って雑誌みてみ。おもしれーもんが見れるぜ』 俺への指名は少なかったが、今日は週末で利用客も多いし、給料日だからなるべく早めに学校を出ていたんだ。呼び出しなんて頭に入っていなかった。月曜になればまた何か言われるのか。 それを差し置いても呼び出しの件は正直どうでもいい。後半部が俺の目を引いた。コンビニで、とわざわざ書いてあるのは多分今からでも見れるように。 薄い上着を羽織って、表通りにあるセブンへ出掛けることにする。 明るい店内で立ち読みしているサラリーマンの間に入って、益岡指定の雑誌を手に取った。 そこで間近にした表紙に驚愕して、しばらく自分が呼吸をしているのを忘れた。 (……紙面越しでも、睨まれるんだ) 手に力を込めてしまい、それが伝って表紙にしわを作る。 レンズを通したことで少し緩和されているのだろうか、そこにいる有宮伊織の眼差しは俺の知らない人のようだった。 ファッション誌なのか、それらしい煽り文句が派手な字体である。中身まで見る気にはなれない。 『なに、これ』 雑誌を片手に益岡へ返信するとすぐに応答が返ってきた。 『見てのとーり、あえてのマイナー誌だぜ これでうちの学校から有名人輩出だ。おもしれーよな』 おもしろくなんか全然ない。おかげで変なこともばっちり思い出していた。 あの日図書館で囁かれた呪縛。 今でもあれは夢とか聞き間違えだったんじゃないかと思う。 何の脈絡もなく近づいては遠ざかり、今も、俺が避けているのを知ってか知らずか、あれ以来伊織は俺の前へ現れていない。 →# [ 21/70 ] 小説top |