「事情って、何」 部屋に入り、お茶でも出した方がいいのかと考える暇もなくこれだ。 何か聞かれるだろうとは思っていた。 けれど、そこまで話せる域じゃない。 「……」 伊織の眉間にはいつだって皺が寄っていて、俺はそれを甘んじて受けるしか出来ない。 「あの人の言ってた、お前の事情って何だよ」 伊織が再度俺に問い詰める。 ああ、こいつは、同情なんてレベルじゃない。 俺のことを何でか知らないけど相当憎んでる。 超真面目で、身体売っているっていうのが許せないとかいうキャラでもない。 だったら伊織にも「事情」があってここにいるのか。 「……Aっていう男がいてさ」 本当、何してんだろ俺。 俺がどうして唯人なのか、どうしてアンダーグラウンドな世界にいるのか。 身の上話なんて、最上級にみっともない内容じゃないか。 「そいつにはBっていう妻がいた。だけど、不倫して子供が出来た。そしたらさ、Aと不倫相手は駆け落ちしたんだ。残されたBは同じく残された子供を引き取る。夫が残していった子供をさ」 どこにでもあるような話ではないはずだ。 そんなに広い世界を生きてきたわけじゃないから断言出来ないけど。 「で、Bが男Cと再婚した。でも実はBは水商売やってたんだ。それがCにバレて、また離婚。子供はCに引き取られる。──でも、」 あれは俺が丁度中学校にあがろうとしているとき。 「血も繋がってない子供、育てたいと思う? 普通、思わないから、Cは子供を手放した」 名前も覚えていない──1カ月足らずの「父親」 『ねえ君、自分がどんなか分かってる?』 彼らが離婚した直後、連れて行かれた謎の廃墟。複数の男たちが俺ばかりを見ていた。 『生み親の名前すら知らない。おまけに君の「母ちゃん」は風俗嬢なんだよ』 ふっと漏らされた笑みは自虐的なものだったんだろう。 『君は、』 『君みたいな奴は、一生誰かに傷つけられて、生きていけばいい』 呼吸が苦しくなる酷いホコリだらけの空間に、あの男の顔。 背中に走った激痛。倒れていく身体──。 『あー、待て』 そして、身体を支えた第3者の声。 その人の腕はゴツゴツとした、感触だった。 『……誰だ?』 『そんな小さな子を虐めるなんて感心したことじゃねえな。んー……なかなかの美人じゃねえか』 至近距離にあった顔が余計に近くなった。そんなに近付いたら見れないくらいに。 『なあ、こんな危ないオジサンたちにイタズラされるくらいなら、俺のところで働かねえか?』 直樹さんはどこからともなく表れて、俺の暗闇な人生に短い蝋燭を灯した。 「──店の寮だけど、生活スペースは確保されたし、こうやって学校にも通ってる」 直樹さんは全く謎の人だ。あの人のことを探ろうと思ったことはない。 探ればいろいろ出てきそうだけど、正直恐れもあるし無駄なことだ。 ここにいる事情とか意味とか、大仰なものじゃない。 俺は俺で、ここにちゃんと生きている。 それだけで充分だ。 12かそこらの俺はなすがままだったけど、実際のところ直樹さんの案は俺にとって悪いものじゃなかった。 あのままあの男の下にいたら、今頃自分がどうなっていたか知れない。 てきぱきと手配をしてあの男たちを黙らせた直樹さんの姿は子供心ながらに「この人に従った方がいい」と思わせた。 「……それだけだよ。だから伊織がどんなに言っても俺は男娼を止められない」 むしろそれで生計を立てて、しかも男娼として働けなくなったときのために貯金をしているんだから。 一人でも、生きていけるように。 ……少しだけ気分が悪くなった。 あのときのことは極力記憶の表に出さないようにしている。 だから、伊織に鋭い視線と低い声で暴言を吐かれたときは、あの「父親」に重なってしまい、しばらく気分が冴えなかった。 同時に、まだ自分が弱いままだということを思い知らされた。 あんな記憶。 早く忘れてしまうか、思い出してもなんともならないくらいになりたい。 (というか、ならなくちゃいけないんだ) 橋本唯の人生は、あの日直樹さんに差し伸べられた手をとったときから始まったって。 思っているのに、解放しちゃくれない。 でも俺も相当失礼なことをしている。俺の中で最低な存在の奴を、伊織に重ねたなんて。 今は? 今の伊織は──重なるの、 「っ……!?」 話している間、ずっと伊織のことを見ていなかった俺は、周りの状況も見えていなかった。 同情なんかするわけがない。 だから話してもいいかと思った。 もともと親しくもなく、これからも交わることもないだろうと判断したから。 頭を振り上げた瞬間、伊織の顔が目と鼻の先にあることを把握することもできないまま。 伊織に髪を掴まれて、彼と俺の唇が重なっていた。 ──なんで。 コイツの行動は、理解出来ないことだらけだ。 そのとき俺の頭に浮かんだのはたった一人。 光志のその背中だった。 光志。 なんでだろう。 コイツの唇は、お前に似ている。 「っ……はっ!」 光志の影が霞む。 無我夢中で伊織を突き飛ばしていた。 身体能力の差なのか、伊織は抵抗に俺から離れたものの、特に衝撃を受けた様子でもない。 「……に、して、」 「ちゃんと自己防衛はするんだな」 コイツの負でない感情混じりの声を始めて聞いたかもしれない。 感心したように伊織はペロリと舌を出していた。 無論、本気のキスじゃない。 「本気のキス」っていうのがどういうものかなんて、はっきりとはしないけど。 熱さも感情も何もない、そういう、感触だった。 「……拒まないって思ったの、かよ」 「別に。どっちかなって」 →# [ 14/70 ] 小説top |