甘い囁きは恋の始まり
「私は変わるんだ…!」
自宅の玄関で深呼吸をし、今の気持ち吐き出すように声をあげる。
「とはいえ、どこにしようか…」
少し前に田舎から上京して、この街に住んでいた。それはよくある話で、想いを寄せていた人の傍にいたいが為。
考え方がまだまだ幼かったんだろう、自分にはその人しかいない。その人だけで、私の世界は作られ回っていると思い込んでいた。
その結果がこれ。
早々に振られてしまった。
相手にすれば、見事に都合のいい女だったんだろう。腹は立ったが、そんなバカみたいな薄っぺらい男に引っかかった自分もバカなのだ。
だから今日、私は変わる!
「美容院って色々あるし…よく考えりゃ予約とかも必要だよね」
長い髪が好みだと言われ、伸ばしていた。
今となってはもう必要ない、だったらバッサリ切ってやろうと思った。これもよくある話。
思いたったら吉!と言うことで行動に出てみたが、それは何も考えてないと同じ事だと気づき、歩みを止める。
「とりあえず…検索でもしてみるか…って!」
スマホを取り出しアプリを起動しようとした時、画面に水滴がついた。そのまま視界を上に向けると、ポツリポツリと降り出す雨。
咄嗟に、近くのお店の軒下へ入る。
通り雨だろう、少しここでやり過ごそう。その間に美容院を見付ければいい。
「さてと…」
「ん、もしかしてお客さん?」
「え…」
改めてスマホを手に取ると、聞き慣れない声が耳に入る。声がした方向を見ると、目がクリっとした爽やかな男性がいた。
「あ、違ったかな?」
「えっと…あ」
「ん?」
よくよく見れば、そこは美容院だった。声を掛けたのは、ここの店員さんだろう。
ちょうどいい、ここでカットしてもらおう。雨宿りしてただけです、なんて言う度胸もないしね。
「その、予約とかしてないんですけど…大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だよ」
「それじゃあお願いします」
「はい、どうぞ」
店内に足を踏み入れると、観葉植物がたくさんあった。都会ではあまり触れあう事のない緑と、故郷を思い出し、つい頬が緩む。
「それ、ボクの趣味でね。木とか植物が好きでさ」
「そうなんですね…!緑って癒されますよね」
「気に入ってくれたなら良かった、じゃあまずは髪流そうか」
「はい」
椅子が倒され、心地よい温度のお湯が髪に染み渡る。
そこで軽い自己紹介。彼の名前はヤマト、この店を一人で経営しているらしい。お若いのに独立してるなんてすごいですねとか、一人暮らしなんですか?とか、たわいもない話をした。
「ボクより若い子に言われてもなぁ、名無しさんちゃんだって一人暮らしなんだろう?」
「今はそうですけど、少し前までは実家暮らしでしたよー」
「初めての一人暮らしなんだね、楽しい?」
「はい、色々新鮮で…!」
「そっか、楽しいなら何よりだね。さて…今日はどんな風をご希望かな?先が少し痛んでるから、揃える感じ?」
キタ。
とうとう、キタ。
そう、ここで過去の自分とはおさらば。
「バッサリ、ショートでお願いします…!」
「え、ショート?」
「はい!」
「…分かった、じゃあ切るよ?」
「お願いします」
髪に触れる手と、ハサミ。
そしてジャキンっと、髪が切り落とされる。
さっきまで会話が弾んでいたのに、今は終始無言。それでも居心地が悪いというものじゃなくて、どちらかと言えば髪が切られるその音は心地良かった。
私はそのまま目を閉じて、ヤマトさんに委ねた。
***
「これでどうかな、名無しさんちゃん」
「…わぁ、これ私?」
「うん、君だよ」
「軽いー…!後ろもスースーしちゃう」
「かなり思いきって切ったけど、大丈夫そう?」
「うん、とっても気に入りました!ありがとう!」
「…うん、長い髪の君も素敵だったけど、短い方が似合うね」
合わせ鏡で、裾の方を見せてもらう。
今までずっと長い髪で隠れていた、うなじが見えている。ちょっと違和感を感じるが、すぐに慣れるだろう。
「素敵だなんて、もう…ヤマトさん口上手いっ」
「ありのままの気持ちを言ったまでだよ?特に…このうなじ」
「え…ぇっ?」
「すごく、色っぽい」
薬で少し荒れている彼の手が、指が、うなじに触れた。
きっと、細かい髪を払ってくれているんだろう。そう納得させながら、平常心を保つ。
「あ、あのヤマトさん…ひゃ!」
「おっと…!大丈夫?」
いきなり息を吹きかけられて驚き立ち上がってしまい、バランスを崩し倒れそうになったが、素早い動きでヤマトさんが受け止めてくれた。
つまり、彼の腕の中にすっぽりと収まる形に。
「あわわ、その、す、すみません…」
「謝る事はないよ、どうやらボクが原因みたいだし、ごめんね?」
「いえ、その…お世辞ありがとうございます」
「お世辞じゃないよ、本心。本当にそう思った…キスしたくなっちゃうくらい…」
「っ…」
何でしょうか、この展開。
上京して振られて、変わろうと思った矢先に素敵な美容院、美容師さんと出会って髪を切ってもらう。 そしてその素敵な美容師さん、もといヤマトさんの腕の中で甘い囁きを受けている。
「ねぇ、またここに髪を切りに来てくれる?」
「…も、もちろん」
「むしろ、明日来てくれる?ボク、明日休みなんだ」
また、耳元に甘い甘い囁きが。
「だからさ、デートしよ?」
それはきっと、素敵な恋の始まり。
fin
20150511
←|→
[back]