俺が初めて田舎に越していった静雄の所にやって来たのは、岸谷に誘われたからだった。
あまりにも飼育小屋がお粗末だから見てやってくれと言われて、左官屋は大工ではないと言ったのだが、その違いは岸谷にも静雄にもよく分かってもらえなかった。
一応大工の仕事を近くで見てきたし、シロウトの静雄よりはましだろうと飼育小屋を手直ししてやると、想像以上に感謝されて戸惑ったものだ。
静雄は池袋にいた頃とはまるで違っていた。
いつもイライラとしていた男は、今は大自然の中で穏やかな顔をしている。
相場がよく分からないと言いつつお礼まで包もうとする静雄に、俺は慌てて首を振り一つ提案を出した。
お礼はいいから、たまにここに遊びに来てもいいかと。
実は俺はアウトドアに興味がある。都会で暮らしていると、ふいに自然が恋しくなるものだ。のんびり緑の中でキャンプをしたり釣りをしたりしてみたい。
もちろん山を荒らすようなことはしないし、おまえの邪魔になるようなことはしないと言うと、静雄は二つ返事でOKしてくれた。
夏になって、俺は約束通り釣り道具を持って山へ行った。
静雄の畑仕事を少しだけ手伝って、渓流釣りを楽しんだ。
釣った魚を静雄にも分けて一緒に食べ、夜は持ってきた酒を二人で飲んで、一泊して帰った。
次はテントを持ってきて、星を見ながら寝るのもいいかもしれない。
遊馬崎たちはアウトドアには興味がないようだったが、静雄が了承すればいつか誘ってみようと考えながら、1年経ってやってきた夏、俺はまた静雄の山へと遊びに行った。


静雄の家までは俺の足でも徒歩3時間ほどかけて登山する。
途中で昼飯の弁当を食べながら登りきると、先に連絡していたからか、静雄は冷たい麦茶を用意してくれていた。
「悪いな、また邪魔する」
「気にすんな。ゆっくりしてけ」
こうして一息ついた頃、ふいに後ろからひたりと両目を何かに塞がれた。
「だぁーれだ?」
クツクツと忍び笑いが後ろからして、俺が塞がれた目をパチクリとさせていると、
「睫毛くすぐったいよドタチン」
と、ここにいるはずのない男が俺を不本意なあだ名で呼んだ。
ガバッと振り返るとそこには一番ここにいてはいけない人物、折原臨也が立っていた。
俺は言葉にならない悲鳴をあげて今度は静雄を振り返る。
しかしキレているはずの男は、ほんの少し不機嫌そうな顔をしているだけで暴れようとはしなかった。
俺はまさかこんなところまで来て、非日常の最たる不条理を目の当たりにするとは思ってもみなかった。


臨也はただ遊びに来ているだけではなかった。なんとここに住んでいるという。そういえば最近めっきり池袋で見かけることは減ったが、まさかこんな所で静雄と同居してるとは誰も想像だにしなかっただろう。
「なんだ、新羅に聞いてなかったんだ」
「俺と岸谷はそこまで仲良くねえしな」
もちろん静雄とも。ここに来る前に電話した時も、そんなことは一言も聞かなかった。
臨也は絞りたて牛乳と紅茶でミルクティーを淹れて俺に振舞ってくれた。
同じものを静雄も飲みながら、当たり前のように臨也の隣に座った。
それに俺が目を丸くしていると、臨也は小さく笑って首をかしげた。
「ドタチン今日はどうするの?釣りすんの?」
「あ、ああ」
「なんだかすごい荷物だね」
「今回はテント持ってきたからな。静雄、その辺のスペース借りてもいいか」
「別にいい」
頷く静雄にほっと息を吐く。
臨也といて切れない静雄という珍しいものに、俺は少し緊張していたらしい。
「テントか、いいねぇ。晩御飯どうする?せっかくだし外でバーベキューしようか。ね、シズちゃん」
「ああ」
「じゃあ、晩飯になるよう3人分は釣らねぇとな」
「頑張ってドタチン!期待してるよ!」
こんな会話がこいつらとできるとはなぁ。時の経過と自然の力ってすげぇな。
まるで仲のいい友人同士のような会話に俺はしみじみとしていた。
むしろしばらく呆然としていたのかもしれない。
そんな俺を見た二人は、とにかく本来の目的である釣りだと俺を送り出した。
俺はそのまま少し下ったところにある川に釣りに行った。
釣り糸を垂らし、せせらぎに耳を傾けていると心が洗われる気がする。
都会にはない空気のうまさだ。
静雄はここにいることで変われたのか。そして臨也も。あんな風に邪気のない笑顔は久しぶりに見た。
ぼう、と先ほどまでの出来事を思い返していると、ドタチンと小さく呼ぶ声がする。
振り返ると、臨也が俺のいる岩場にトンと飛び乗ってきたところだった。
頭に日差しをさえぎる為か、タオルを羽織っている。
「どうした、臨也」
「うん、ちょっとドタチンと話したいなーと思って」
そう言って隣に腰掛けたが、臨也はなかなか口を開かなかった。
俺も黙って釣り糸を揺らすだけだ。
しばらくしてポツリポツリと臨也は話し始めた。
「驚いたよね。まさか俺がここいるなんてさ」
「そうだな。とりあえずここ数年で一番驚いたな」
「そうは見えなかったけど、そうだったんだ」
「ああ」
臨也は三角座りで俺の垂らした釣り糸の先を見ている。
穏やかだなと思った。
「ドタチンはさ、俺がここにくるずっと前から、ここに来てたんだよね」
「いや、でも俺がここにくるのまだ3回目だぞ?」
「そうなの?」
「おまえは…なんでここに?」
聞いたところで糸が引いた。
まずは一匹目を釣り上げてビクに入れ、そのビクは川の中につけておく。
臨也はそれを黙って見ていて、また俺が釣り糸を垂らすとポツリと言った。
「ドタチンって、男同士でもいける?」
「…は?」
思わず臨也を振り返ると同じようにこっちを向いた臨也と目がバチリと合った。
その目が思いの他真剣で、思わず喉が鳴った。
「ドタチンの仲間にほら、狩沢って彼女いるよね」
「ああ、いるな」
「彼女の趣味を受け入れることができるドタチンだからさ。男同士にも理解、あるよね」
「い、いや、別に受け入れてるってわけじゃ…」
「ドタチン…俺…っ」
臨也に腕を掴まれてビクリと震える。
「シズちゃんにキスされた」
ボチャンと釣竿が川に落ちた。
「…は?今、なんて…ええ?」
「ドタチン、釣り竿流れてっちゃうよ」
「ああっ」
俺は慌てて腰を上げ、やや下流に流された竿を引き上げる。
動揺を隠しつつ臨也の隣に戻ってその顔色を窺うが、笑っていなかった。
それでも俺は顔を引き攣らせて言うしかない。
「…冗談、だよな?」
「………」
臨也は立てた膝に顔を押し付け、ぼそぼそと言った。
「俺もそう思ったし、シズちゃんは何も言わないから、俺もなかったことにしようと思った。なかったことにして、ドタチンや新羅みたいにさ、友達みたいにたまにここに遊びにこれたらいいなって思ったりもしたんだけど…」
ハア、と臨也は溜息を吐いた。
「でも駄目だった。山から下りた途端シズちゃんが気になってすぐにまた戻りたくなってさ。なのに一緒にいる間は全然気にならないんだ。でも、山から下りるともう駄目。気になって気になって仕事が手につかないんだよ。だからいっそここで仕事すりゃいいやって、ここに来たんだけど…」
「………」
俺が言葉をなくしていると、臨也もしばらく黙った。
それからまたしばらくして、消え入りそうな声で呟いた。
「俺、シズちゃんのこと好きみたいなんだ」
ボチャンと釣竿が手を離れるのは二度目となった。
それを拾いにいこうと立ち上がると、臨也が顔を上げた。
「ねえ引いた?」
俺はとっさに臨也の頭をグリグリと撫で回した。
「びっくりしたけど引いてねえ」
そして釣竿を拾い、また隣に腰掛ける。
「俺も自分でびっくりしてる」
「そうか」
「まさか俺がねえ。シズちゃんなんかをさ」
「ああ、驚いた」
臨也はようやく口元にいつもの笑みを浮かべた。
「シズちゃんがどういうつもりかは分からないけどさ、昔みたいに俺のこと殺そうとしたり怒ったりしないんだよ。それだけで奇跡だよねえ。だから実は俺、結構幸せなんだ」
そう言って臨也は腰を上げた。
「魚さばくのドタチンやってね。頭取った魚じゃないと俺食べないから」
川魚はそのまま姿焼きがいい、と思ったが俺は黙って頷いた。
「ご飯の前に上まで散歩に行こう。シズちゃんが牛とか迎えに行くから一緒に」
「おう」
俺が釣り糸をまた垂らすと、臨也はそのまま岩場をスキップして帰って行った。
見送って、俺も大きく溜息を吐いた。
「すっきりした顔しやがって…」
でも、
「幸せなのはいいことだ」
そう呟いて俺は揺れた釣り糸に意識を集中するのだった。



臨也が羽織っていたタオルは静雄バリアです。


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