たっぷり崖を堪能した後、バスに揺られ、市街地に戻ってくる頃には日が暮れていた。
波江の指定した宿泊地はホテルではなく情緒豊かな温泉宿だった。
うん、いいね。こういう雰囲気嫌いじゃないよ。
一緒に泊まるのがシズちゃんじゃなければもっと素直に喜べていただろう。
というかね、温泉宿に来て温泉に入れないってどんな拷問だよ!
宿の人の戸惑った視線を浴びるギプスに、俺はもはや張り付いたままの乾いた笑いを返すしかなかった。


部屋に通され仲居さんの入れてくれたお茶で一息入れると、疲れがどっと襲ってきた。
シズちゃんは向かいで旅のしおりとにらめっこをしている。
俺は早く横になりたかった。
そろそろ限界だ。ジクジク痛む足、さすがに体も熱っぽい。
というか、ほとんど手ぶらに近い俺は、着替えとかどうすればいいんだろう。
そういえばシズちゃんも手ぶらだな。
「ねえシズちゃん。着替えどうすんの」
「あ?浴衣があんだろ」
「そうじゃなくて明日だよ。同じ服着んのやだよ俺は」
言われて今気付いたのか、あっという顔をしたシズちゃん。なにそれ。移動中いきなり旅行を強制された俺と違い、シズちゃん分かって来たんじゃないの?馬鹿なの?
「マジかよシズちゃん」
「いや、俺も仕事中いきなり社長に呼び出されてそのまま…あーそっか、どうすっかな」
ああ、そこ経由されたからこそ波江の依頼にのこのこついて来ちゃったのか。
着の身着のままの男二人が温泉宿とか…波江覚えてろよ。
「シズちゃんのはフロントにクリーニング頼めばいいよ。俺は…無理だな。これシズちゃんと喧嘩した時のままでボロボロなんだよね」
薄手のコートをばさりと脱ぎ捨てる。
黒だから目立たないけど所々擦りむけてほころびている。
シャツも似たり寄ったりで、パンツにいたっては膝上まで裂かれてギプスのところで結んでいる有様だ。
もう一回穿けと言われても困る。
「シズちゃん買ってきて、と言いたいところだけど、こういう所ってこの時間もうどの店も閉まってるよね」
そもそも常時バーテン服のシズちゃんに、自分の着る服の選択など任せられるかっつうの。
明日朝買いに行くまで我慢するしかないか。
俺は深い溜息を吐きながらも笑みを浮かべた。
いいねこの逆境っぷり!満身創痍で隣には天敵、これを乗り越えられたら俺はまた一歩神に近づけそうな気がするよ!
フッフッフッと笑う俺に、シズちゃんが怪訝そうに顔を上げる。
「シズちゃん温泉入ってきなよ。大浴場に露天風呂があるってさ」
机にあったこの宿のパンフレットを眺めながら言うと、シズちゃんはああ、と気のない返事を返してきた。
俺はそれを横目に携帯を出し、都合の良さそうな人物をアドレスから探しメールを打つ。
今夜をなんとか乗り切って、明日朝速攻で逃亡しよう。その算段をつけるのだ。
シズちゃんが席をはずしたら電話でさっさと話をつけるのだが、待ちきれず黙ってメールを操作する。
さて送信、とボタンを押そうとした時、ガツッと携帯ごと手を掴まれた。
「ちょ、何!?」
「あーちょっと待て、忘れてた」
シズちゃんは旅のしおりを見ながら俺の手から携帯をむしり取る。
そしてあっという間に俺の目の前で携帯が粉砕された。
「んな!?なにして…っ」
「ここにな、書いてるんだわ。旅行中は携帯の電源を切りましょうって」
電源切るってレベルじゃねーぞ。殺すぞ。
笑顔の引きつる俺に、シズちゃんも笑って腰を上げた。
机を回り込んでくる悪鬼に俺は動けない。
座布団の上に並んで乗せたギプスをまたぎ、シズちゃんは俺のポケットを容赦なくさぐった。予備の携帯まで取り上げられる。
携帯だけでなく、俺の持ち物は全部机の上に並べられ、財布とかナイフとかまで全部カツアゲされた。
「ひ、ひどい…」
「銃刀法違反野郎に言われたくねえよ」
ばたりと畳の上にのびる俺に、シズちゃんは浴衣を手にし、風呂行ってくるとあっさり背を向けた。
閉まる扉に俺はあああ〜と一人で畳を転がる。
携帯を取り上げられてもやろうと思えばいくらでも手段はある。
でも、なんだか面倒になってきた。
「……なんでシズちゃん楽しそうかな」
俺をいじめるのが楽しい、だとか笑えない。
でもそれ以外に理由がある方がもっと笑えないことに気付いて俺はしばらく畳に突っ伏していた。


シズちゃんが風呂に入っている間に仲居さんが夕食を運んできてくれた。
それに愛想よく受け答えしながら、お湯とタオルを頼む。
手伝いましょうかと言われたのをやんわり断って自分で体を拭いた。
あー頭も洗いたいけど備え付けの風呂場まですら這っていくのが面倒だ。
シズちゃんに頼むなどもってのほかだし。
しょうがないので粗方体を拭いただけで我慢する。
パンツはギプスで止まって脱げないし、かといって破くと朝はけないし、せめて上だけ脱いで浴衣を羽織っておこうと浴衣置き場まで這っているとシズちゃんが帰ってきた。
「なにしてんだおまえ」
ほこほこ湯気を立てながら、浴衣をざっくりと着流したシズちゃんを見上げ、俺は歯を食いしばる。
クソ!俺は湯上りシズちゃんになどトキメいたりしない!絶対にだ!
さっぱり汗を流してきたらしいシズちゃんを睨み上げる俺のみすぼらしさといったらない。
「別に、浴衣に着替えようと思ってただけ」
「おまえ風呂は?」
「入れるように見える?」
ヘラっと笑うとシズちゃんは俺を半眼で見下ろし、それからキョロキョロと辺りを見回すと、おもむろに俺のベルトを掴んで持ち上げた。
「なになにどうする気!?」
「ビニール袋とかねーしな。しょうがねーから俺が足持っててやるよ」
なんだって?どういう意味?
部屋にある風呂場のドアを開けるシズちゃんに血の気が引いた。
「ちょっと待て!今どう考えても犬神家のイメージしか沸かなかった!ストップ!体はもう拭いたから!そのサービスはいらない!ありがとうシズちゃん!!」
俺は洗濯物じゃないっつの!
必死でドアを掴んで中に入ることを拒みながら叫ぶとシズちゃんの足が止まった。
じっと見下ろされてエヘと愛想笑いをする。
「でも頭潮風でベタベタしてんぞ」
「あ、髪は明日美容院にでも寄って洗ってもらうよ」
「美容院だあ?」
結構いいアイデアだと思うのにシズちゃんは眉をひそめた。
「ノミ蟲のくせに生意気な。俺が洗ってやんよ」
さらっと告げられたシズちゃんの提案を俺は全力で拒否した。
シズちゃんの握力でシャンプーとか、まったく甘さの欠片も見出せない。
頭からフレッシュなトマトジュースが搾られる様が容易に浮かんだので、プライドもなにもあったもんじゃない必死のお願いで辞退させてもらい、結局頭は自分で洗った。
シズちゃんに体を支えてもらいながら。

そんな屈辱のシャンプータイムで頭のみシズちゃんと同じくほこほこになると、血行が良くなったせいで痛みがぶりかえしてきた。
さっぱりしたが同時に体力も奪われて、そろそろ平気なフリが辛い。
あたかも陵辱されたかのごとく半裸でぐったり壁にもたれかかっていると、シズちゃんが俺の浴衣を手に顎をしゃくった。
「おら、体起こせ」
「は?え?いやいいよ、自分で着るから」
壁に寄りかかったまま慌てて首を振るとガシリと頭を掴まれた。
ぐんと上体を持ち起こされて、イタタタタタ頭もげる!
そのまま力の入らない俺の体を自分に寄りかからせ、シズちゃんはもたもたと俺に浴衣を着せ始めた。
なんだこれは。このシズちゃんは偽者かなにかか?
一体どこで誰と入れ替わってきたのだろうか。
というか俺別に介護が必要なほど重症なわけじゃないんだから、こんなの必要ないんだけど!
驚きのあまりされるがままになっているとシズちゃんの手がパンツにかかった。
「あ、ちょ…」
やめてという前に脱がされ(下着が一緒にずり落ちるのはなんとか押さえて防いだ)ギプスでその動きが止まると、シズちゃんは何の抵抗もなくパンツをびりびりに破いた。
「あああああああっ」
「あ?」
俺の悲鳴にやっとシズちゃんが顔を上げる。
「なんで破くの!穿けなくなっちゃったじゃん!!」
「はあ?もう破けてたじゃねーか。明日替わりの買やいいんだろ?」
「どうやって買いに行くんだよ!もう着る服ないのに!!」
ボロ雑巾と化した俺のパンツの残骸を見て俺はがっくりとうなだれる。
「いや、俺が買ってくるし」
さすがにバツが悪くなったのかシズちゃんの語尾が小さくなった。
俺は驚いていた。一体何度驚かせる気だこの野郎。
「買って…来てくれんの?シズちゃんが」
「買って来いっつったのテメエだろ」
いや、言ったような気はするけど、まさか本当に買ってきてくれるなんて思ってないし。
「どうしたのシズちゃん」
「ああ?」
「なんで俺なんかに優しくするの」
俺は慌ててシズちゃんの額に手を当てた。
「熱い。ヤバイよシズちゃん熱あるよ!」
「ねえよ。風呂上りだからだろ」
シズちゃんはチッと舌打ちすると俺の浴衣の帯を結び、そのまま脇を掴んで持ち上げテーブルの前に座らせた。
その上もうひとつ座布団を引っ張ってきて、俺のギプスをその上に乗せてくれた。
俺は唖然としたまま向かいに座るシズちゃんを見送る。
「た、大変だ!シズちゃんが体を宇宙人にのっとられた!」
「寝言言ってねえで飯を食え」
「待って!新羅呼んで新羅!検査しようよシズちゃん!」
「黙って食え!」
並べられた旅館料理を前にシズちゃんの腹がグウと鳴ったので俺は口をつぐんだ。
いやだからかわいくなんかないってば。
俺の食欲は依然ないままだが、もしもまたシズちゃんが俺の食べ残しに箸を伸ばしたらと思うと平らげるしかなかった。



食事を終え、一人になりたいと頼み込んでこもったトイレで食べ過ぎた食事を吐き戻し、俺は膝を抱えていた。
シズちゃんの様子がおかしい。
俺の気持ちが知られてから、シズちゃんがどんどん変わっていく。
シズちゃんの目から俺への嫌悪が消えていく。
でも、こんなのは望んでいなかったんだよねえ。
俺は抱えた膝の下でくぐもった自嘲をもらした。
俺はシズちゃんが好きだった。
ずっとずっと好きだった。
何故ずっと好きでいられたか、それはシズちゃんが俺のことを振り向かないと分かっていたから安心して好きでいられたのだ。
俺は変わっていく人を愛している。
そして変わらないシズちゃんを愛していた。
シズちゃんは俺のような人間を受け入れちゃいけない。
孤高で、美しく、馬鹿みたいに強いままでいて欲しかった。
どうしてこうなったのかな。
俺はシズちゃんに信用されていない。
だから俺はシズちゃん以外の前ではシズちゃんが好きだと吐き出していられた。
誰かがそれをシズちゃんに伝えてもシズちゃんは信じないし、俺が直接言ったとしても、やっぱり信じなかっただろう。
だから油断していたんだ。
シズちゃんは俺を見たら条件反射的に物を投げるし、近付いて気付かないなんてありえないと思っていた。
まさかこの俺が盗み聞きされるなんて、そこから事態がこんなことになるまで転がってしまうなんて、思ってもみなかった。
シズちゃんは変わった。
罪歌の一件から少しずつ変わってしまった。
暴力を抑えられるようになってしまった。
シズちゃんは本当は優しい。
そんでもって愛に飢えている。
大嫌いな俺からだって好意を寄せられたらグラッときちゃうくらいに。
要するに誰でもいいんだ。
あれだけ嫌ってたこの俺にだって、ここまで出来ちゃうくらいだから、好きだって言う奴が現れたらそれこそほいほいと誰にでもなびくんだろう。
そう思ったら、心のどっかがカサカサに乾くような虚しい気持ちになった。
アハ、分かってたことなのにね。
シズちゃんなんかずっと一人でいればいいんだ。
だから、だから俺は…。
いや、今までシズちゃんにしてきた嫌がらせを今更正当化なんてできやしないけど。
でももうやめるって決めた。
もう俺はシズちゃんなんか好きじゃない。
勝手に幸せにでもなんでもなればいい。
だからシズちゃんがどうなろうが関係ない。
もう見ない。

「俺この旅が終わったら、引越しするんだ…」
そんな死亡フラグを呟いて、俺は笑った。




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