「おかえり、百合ちゃん」
「はいはい」
 仕事を終えて帰宅すると、毎度お馴染みの夏油がだらけた格好で私を出迎えた。食器棚から勝手に取り出しているコップに麦茶をなみなみと注ぎ、切っていたはずのクーラーまでつけてソファにごろ寝。いつも身に纏っている五条袈裟は綺麗に折り畳まれて、洗面所から勝手に持ってきたらしいカゴの中に入れられている。ちなみに本人は黒いシャツとズボンを着たラフな格好だ。
 この光景をお馴染み≠ニ判断してしまう程に見慣れてしまっている自分が怖い。けれども、いつもと違う点が一つだけあった。テーブルの上に置かれた、ザルの中にたくさん入っているミニトマト。私が帰ってきた後も夏油はパクパク食べているけれど……。
 もしやと思ってベランダへと向かうと、案の定、私が育てていた鉢植えのトマトが全て姿を消していた。…………こいつめ……。
「…………何か言い訳とかは」
「百合ちゃんが作ったものが食べたかったんだけど、冷蔵庫の中に入ってなくて」
 ニコニコと笑顔を浮かべ、悪びれる様子が一切ない男に呆れた顔をするしかない。時を経る毎に厚顔さに磨きが掛かっているし、本当にどうしたものやら。せめて勝手にカレーを作った時みたいに、自分で何か作ればいいのに。
「百合ちゃんも食べる?」
「もともと私のでしょう、なんであなたが私に勧めるんですか」
「だってずっと見てるじゃないか。美味しいよ?」
 どうぞ、とミニトマトを手のひらで指し示す男に深く、深くため息を吐く。きっと無視して部屋に戻ろうとすれば、またあのタコ足呪霊が出てくるんだろう。あいつの匂いは本当に嫌になるからやめてほしい。
 などと言った所で、夏油はどうせ聞きやしないのだろう。仕方がないので鞄を床に置いて大人しく夏油の寝っ転がるソファに近付いた。シンプルにアレは気持ちが悪いから、そろそろ別の呪霊で拘束してくれないだろうか。
「私も座るから退いてください。もしくは寝るならベッドに」
「はいはい。どうぞ、こっち座っていいよ」
「……私の家なんですけど……」
 ゆっくりと身を起こした夏油が、いつぞやの様にポンポンとソファを叩く。思い返せば、最初の頃はこれでも遠慮してたんだなと思う程の我が物顔。だけどそれに関しては言ってもどうにもならないから文句を口にせず、黙ってソファに腰掛けた。寝っ転がっていた夏油の体温がソファに移っていて少しだけ座り心地が良くないが、もう気にしてなんかいられるか。
 それよりも夏油に全部食べられてしまう前に生産者の私だって食べないと、とテーブルの上のミニトマトに手を伸ばした。
「色々調べてきたんだけど、今から植えるなら人参もいいんだって。他は茎ブロッコリーとかさ。一緒に植えない?」
「嫌ですよ。なに勝手なこと言ってるんですか」
「来年はキュウリとか他のも作ろうよ」
「自分の家でやって下さい」
 どうせ私よりも広い家に住んでいるんだろうし、自分の家の庭かベランダですればいいのに。私の家でやる理由が分からない。そういうのは家族≠ニやった方が楽しいだろうし。それに、夏油がやってくれるのならばいざ知らず、私が毎朝の水やりをしなければならなくなるのは明白だ。……まあ夏油が水やりをするとしても、毎朝家に来られる方が迷惑でもある。
「でも、家庭菜園の種類が増えると百合ちゃんにとっても得だろう? 食費も抑えられるし」
「……そもそもの準備が面倒なので嫌です」
 だって、まずはプランターを買わなければならない。私がミニトマトを育てていた鉢植えは小さいサイズのものだし、一個しかないのだ。何種類も野菜を育てるというのならプランターをいくつか買って、土や肥料も多めに用意する必要がある。
 あとは日当たりの事だって考えなければ。ミニトマトを入れていた鉢植えなら軽いから、ベランダの柵にひっかけて日当たりの良い位置を確保できていたけれど、個数が増えるなら棚も必要になってくる。家のベランダは特に広いっていう訳でもないし、縦に積まなければ。
 ……そんな準備だのなんだのをやるぐらいだったら、普通にスーパーの野菜を買った方がいいに決まっている。家庭菜園が趣味ってわけでもないんだし。
「前に梅をくれた信者が農家をしていてね。家庭菜園に興味があるって言ったらプランターとか色々融通してくれるって」
「じゃあますます自分の家でやるべきじゃ?」
「私はここでやりたい」
 なぜ私の家に拘るんだか全く分からない。わざわざここにまで色々と持ってくるのとか面倒じゃないんだろうか。
「準備とか全部自分でやるからさ」
「……嫌です」
「え……」
 融通が利かないなコイツ、とでも思っていそうな顔をした夏油はそれからも暫くの間、家庭菜園をしたいしたいと煩かった。しかし結局は諦めた様で、少し不機嫌になりつつもミニトマトを食べ続けていた。…………その日は、の話だが。
 ミニトマト盗み食い事件から凡そ一週間後の事だ。いつも通りに帰宅した私の目に飛び込んできたのは、広げられた新聞紙の上で胡座を掻いて何やら土を弄っているを夏油の姿。
 今日は袈裟でなく作務衣を着ているが、何故そんな格好で土いじりをしている。私の家は作業場じゃないんだよな。そして、何処からか持ち込んできたらしい鉢植えとウッドラックはなんなんだ。
「あの……何してるんですか?」
「うん? 見ての通り、ホラ」
 そう言って夏油は得意気に手元の土と鉢植えを見せてくるが、嫌な予感しかしない。全く、ホラじゃないんだよ。
「さっき植えたのはキャベツで、今やってるのがキュウリだよ」
「人の家のベランダで勝手に家庭菜園し始めないでもらえます?」
「でも百合ちゃんにいくら言ってもダメって言うじゃないか」
 ダメと言われたのなら素直に引き下がるのが普通の人間だと思うのだけど、悪徳教祖をしている人間の思考回路ではそうはならないらしい。ダメと言われれば強行突破。家主の居ない間に勝手に鉢植えを準備するとは……。
 あの日、夏油が諦めたと判断しなければよかったと思うと同時に、彼が諦めていないと気付いてたとしても結局のところ意味はなかったとも思った。私はただ視る@ヘを持つだけで、夏油の行動を止める力はない。あのタコ足すらどうにも出来ないほど非力だ。
 つまり、夏油がどうしてもやりたいと思ってしまった時点で私の負けは確定していた、と。最悪じゃないか。
「……理由を教えてくれますか? 私の家で育てる理由なんて無いじゃないですか」
「いや、あるよ」
 真面目な顔をして夏油がそう言うが、はっきり言って信じられない。
「私はね、出来るだけ猿の手が入っていないもので生活したいんだ」
 彼が着ている服も、住んでいる家も、食べ物だって大抵が彼の言う猿……非術師の手によって作られている。それを避けて生きようだなんて随分と無茶な……。
 実は前々からなんとなくは分かっていたものの、本当にそう≠セとは思ってもいなかった。てっきり何処かで妥協ぐらいしているものだと。でも彼の性格を考えてみれば頑固だしそういうところまで気にしてそうだな、とは納得できる。
「それって結構難しくないですか?」
「まあね。どう頑張ってみても無理なものは無理だし。だからと言って嫌なものは嫌ってのは君も分かるだろ?」
 私が夏油という男を受け入れられないのと、規模は違えど一緒だ。夏油の方が過激と言えるけれど。
「でも、それを家族たちにの前で見せてしまえば、きっと彼らの負担になってしまう。特に成長期の子供たちにはしっかりとした食事をしてもらいたいんだ。彼女たちの前で私が猿共が作ったものを拒否し続ければ、あの子たちも真似をして栄養が偏ってしまうかもしれないし」
 ……夏油が至極まともな事を言っているのに驚いた。夏油が言う子供たちの年齢等はわからないが、彼が抱く懸念は理解できる。子供は大抵大人の真似をして育つものだし。
 猿は嫌いと言いながらも子供たちには自由に生きてほしいと思っている、とだけ聞けばまるで真人間のようだ。現実を見据えている部分がちゃんとある。
 なのに、どうして人間を猿と呼ぶのだろう。冷静な部分と冷静でいられない部分が混在していて、ちぐはぐな印象だ。ヤバい人間だとは分かっていたけれど、こういう意味でもヤバい男だったとは。
「君なら私に遠慮なんてしないし、こちらを気にせず過ごしてくれるだろう? ダメかな」
「ダメって言ったところでもう既に準備万端じゃないですか」
「まあね」
 広げられた新聞紙を見つめる。これも猿が作ったものだろうけど……踏みつけているから良いという判断なのかなんなのか……。ただ、私はそもそも夏油の猿≠ニいう思想を理解できないのだし、彼の行動規範なんて余計に分かるはずもない。
 結局、夏油のやる事を止めようにも意味が分からない上に、止める力のない私に出来ることなんて無い、という話だ。
「……水やりぐらいしか手伝いませんよ」
「それだけでも嬉しいよ。ありがとう」
 まあ水やりを忘れたりする事ぐらいは目を瞑ってくれるだろう。私は早起きが苦手なんだ。
「種とかどれくらい持ってきたんですか?」
「とりあえずは六種類ぐらいかな」
「六種類って……とりあえずの量ではないですね……」
「そう? いっぱい作っていっぱい食べられる方がいいじゃないか」
 夏油がそう言って取り出したのはブロッコリー、ニンジン、インゲン、レタスの種。思っていたよりも相当ガチな感じのラインナップだ。
 それらを植える為の鉢植えに土と肥料を混ぜ込んで、夏油は何かの紙を片手に種を埋めていく。土をいじっている手でそのまま持っているせいか、紙は既にぐちゃぐちゃだ。そんなのでよくわかるな、と彼の背後に回って紙を覗き込んでみれば、想像通りのドロドロ具合。
 恐らく種の植え方だとか鉢植えの用意の仕方だとか書いてあるのだろうけど、非常に読み辛い。
「これ、二五p間隔に種を埋めろって書いてますよ。それ二〇pぐらいじゃないですか?」
「……あ、ほんとだ。読み間違えてたみたいだね」
 案の定読み間違えてるし。
 ……部屋に帰って休もうかと思っていたけれど、この分じゃ折角植えたのに枯れる未来しか見えない。そうすれば植えても良いと言った私が馬鹿見たいだし、手は出さないだけで口は出してやるとするか。



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