幕間
ジャミルがカリムの従者として引き合わされたのは、2人が5つの時だった。その当時からアジーム家の麒麟児として名を馳せていた、カリム付きの従者としてジャミルが選ばれたのは、ジャミルが非常に優秀だからよ、と両親が誇らし気にしていたのを彼は覚えている。ジャミルはその時、とても嬉しかった。自分に才能がある事を、両親は誇っていてくれているのだ、と。そして、その己が仕える主人は、アジームきっての麒麟児と名高い。きっと素晴らしい人なんだ。"優秀な自分に相応しい"主人である筈だと、そう思っていた。
そうして引き合わされたその日、ジャミルはカリムの瞳に魅入られた。生まれて間もない頃に会った事がある、なんて事を言っている両親を見つめていた、光り輝く真紅の瞳。それだけでも溜息が出るほど美しいというのに、カリムがジャミルを見つめる瞳といったら!
ジャミルという従者の能力を推し測ろうとしているのか、ジャミルの佇まいをじっとカリムは観察している。両親を見つめていたキラキラしているだけの瞳ではなく、理知的な光の宿った瞳。先程の目も綺麗だったけど、俺はこっちの方が好きだな、なんてジャミルが考えていたその時である。
カリムの瞳が歓喜に染まった。綺麗に形作られて微笑みではなく、湧き上がる喜びを伝える為の笑顔に、カリムの表情が変わっていく。
それは、つまり。ジャミルが彼の御眼鏡に適ったという証左だ。彼の従者に相応しいと、ジャミルの優秀さが嬉しくてたまらないと、カリムが思ってくれたからこその歓喜。声を大にして叫びたくなるほどの喜びが、ジャミルの脳内を駆け巡った。踊り出したいぐらいだ。
「ジャミル」
「はい、カリム様」
「俺の部屋と、いつも入り浸っている書庫を案内しよう。場所を覚えておいてくれ」
「かしこまりました」
ジャミルの両親がカリムの御前から下がった後、そう言って屋敷を先導して歩くカリムは、ジャミルと手を繋いでくれた。己よりも体温が高いカリムの手を、恐る恐るジャミルも握り返してみると、振り返ったカリムが嬉しそうにはにかむ。
認められている……俺は彼に認められている! カリムに会う直前まで"俺に相応しい主人"なんて考えていた事が吹き飛ぶぐらい、ジャミルはカリムが選んでくれた事が嬉しかった。カリムが手を引いて、楽しそうにしている事が心地いい。ぶらぶらと握った手を揺らしながらカリムと廊下を歩き、彼の部屋の中に案内されても、ジャミルはずっと笑みを堪えるので精一杯だった。
「あ、今度は俺の勝ちだぜ」
「……も、もう一度やりましょう!」
「さてはジャミル、負けず嫌いか?」
「それはカリム様も同じでは?」
カリムはゲームも強かった。両親に優秀だといつも褒められていたジャミルはマンカラを得意としていたが、カリムも同じぐらい得意らしい。勝率は五分五分だから一切気は抜けなかった。それに、ジャミルが勝つとお前は凄いなあと褒めてくれるものだから、ジャミルはずっと頬が緩みっぱなしである。
従者として主人に仕えると生まれた時から決まっていたジャミルは、今までアジーム家に仕える従者に相応しくなれる様、ずっと教育を受け続けていた。だから同年代の人間とこんな風に笑い合いながら、ゲームを楽しむなんて事は初めてなのである。
彼がいつもいるという、アジーム家の書庫を案内して貰うことをすっかり忘れ、2人はずっとカリムの部屋で勝負し続けた。結果的に1回の差でジャミルが勝ち越したので、彼の気分は最高潮である。
凄い、頭がいい。カリムはシンプルにジャミルを褒めてくれた。本当はジャミルも彼に対して、カリム様も凄い、なんて言ってみたかったのだが、流石に不敬かもしれないと思って踏みとどまった。……いつか、もっと仲良くなったら言えるかな。ジャミルの両親やカリムの護衛が待っている場所まで、また手を繋ぎながら向かったジャミルはそう思って笑みを溢した。
そして。
その日にあった事を歓喜を隠さずジャミルが両親に伝えたところ、ジャミルは父親に頬を打たれた。
※※※
あからさまに昨日と様子の違うジャミルの事を、カリムはずっと心配してくれた。昨日と同じ様に手を握ってくれて、後ろをついて歩くジャミルを何度も振り返ってくれて。……カリムはとてもいい奴だ、ちゃんと分かっている。
だけど、昨日父親に言われた言葉がジャミルの頭から離れてくれない。優秀であらせられるカリム様に黒星を付けるなど言語道断だ、2度と勝つな。頬を打たれた事に呆然としていたジャミルにとって、その言葉はなによりも心を傷付けた。ただジャミルは"両親にも"褒めてもらいたくて、ただそれだけだったのに。それに頬も痛かった。明日もカリムに会うから痣が残ってはならないと、そこまで強い力で打たれた訳は無かったけれど、ジャミルにとっては今までで一番に痛かったのだ。
どうしてカリムはずっと勝ち続けていいのに、俺は負けないとならないんだろう。……俺が従者だから?
ジャミルの目を覗き込むカリムに対して、言葉が出てこない。カリムが羨ましくて、従者にしかなれない自分が嫌で、でも従者でなければカリムと出会う事すら無かっただろうから、ただ嫌と思うだけでもなくて。それに、もしジャミルがこれから先、手加減をしてカリムに呆れられたら。優秀じゃないお前は要らないなんて言われてしまえば、それこそ耐えられない。カリムにだけは嫌われたくなかった。
まだたった数時間しかカリムとジャミルは一緒に過ごしていない。けれども、まだ幼いジャミルの世界は驚く程に小さいのだ。両親と、妹と、そしてカリムしかジャミルの世界には存在しなかった。……つまり両親に否定されてしまったジャミルにとって、目の前の主人だけが唯一残された、ジャミルを認めて褒めてくれる存在なのだ。一緒にいて欲しい、褒めて欲しい。両親はしてくれないなら、せめてカリムだけは。
「……その……両親に……」
「うん」
恐る恐る、ジャミルは言葉を吐き出していく。カリムに呆れられることのない様に、嫌われることのない様に。
「か、カリム様に、勝つな……と……言われて。……だ、だから、昨日の様にはもう遊べなくて……!」
「……うん」
感情が昂って、ジャミルの目尻に涙が浮かぶ。ジャミルは必死に涙を零すまいと我慢するが、いつ涙が溢れてもおかしくはない。
……悔しい。どうして涙が出てくるんだ。泣き虫なんて、カリムの従者に相応しいとは思えないから泣きたくないのに、必死になって言葉を紡ぐだけで涙が溢れそうだ。泣いてすがればカリムは俺を捨てないとでも? アジームの麒麟児が、そんな情に訴える様な真似に絆される訳ないだろう。
ぎゅっとカリムに抱きしめられて、一粒だけ涙が溢れた。ああ、カリムの服に俺の涙がついてしまう。どうすればいいか分からなくて、ジャミルがただ抱きしめられるがままでいると、腕を取られてカリムの背中に回させられた。
……このまま抱きついてもいいのだろうか。そう思っておずおずとジャミルがカリムの背に回した腕に力を込めると、カリムは偉いぞ、とジャミルを褒め称える。よかった、これで合ってたんだ。
「ジャミル。俺の最初の命令を聞いてくれるか? これだけは何があっても守って欲しいんだ」
「……はい」
「ありがとうな。……俺は、ジャミルが持ち得るもの全部が欲しい。才能も知識も、全部俺に差し出してくれよ。だから、ジャミルを損なう命令は全部無視しろ。俺がジャミルの主人だから、そう言えば誰だって引き下がってくれる」
抱きついているから、カリムの様子をジャミルは伺うことはできない。ただ、ジャミルのやりたい様にしていいんだと、穏やかな声で伝えてくれる事だけは分かった。ジャミルがカリムの服を握り締めれば、宥める様に抱きしめる力を強めて背中を撫でてくれて。
カリムに嫌われるかもしれないと怯えていた心が、だんだんと落ち着いていく。本当に、いいのだろうか。ただ優秀なだけの従者に、持ち得るもの全てを差し出して欲しいだなんて、俺に期待しすぎやしないだろうか。昨日顔を合わせただけで、今日なんてジャミルは碌にカリムと話せていない。ずっと俯いて主人に気を使わせていたし、やっと紡ぎ出した言葉だって辿々しくて、さらには泣いてしまったのだ。
ジャミルにはカリムの信頼に応えられる自信がある。カリムの為にもっと己の才能を磨いて、全部をカリムに差し出す事に迷いはない。けれど、カリムがジャミルに寄せてくれている期待の大きさが不可解だ。世界が小さなジャミルと違って、カリムは今まで色々な人と出会って、色々人と関わってきただろう。カリムは一体何を思って、こんなにジャミルの心を汲んでくれるのだろうか。
と、ジャミルそこまで考えて、はたと思い至る。己は主人の事を何も知らないと気付いたのだ。天真爛漫で頭のいいカリム様。彼がそんな評価だけの人間でない事をジャミルはよく理解していた。
どうしてジャミルの才能と知識が欲しい。そしてその差し出したモノを何に使うつもりなのか。知らずとも全て捧げてたいけれど、知っていればジャミルは全身全霊で以ってその為に才能を使い潰せる。
……カリムの心が望むものにジャミルはなりたかった。
「今ジャミルは何がしたい。ジャミルがやりたい事をやろう」
「……その、俺は……」
「うん」
「カリム様の事をもっと知りたい、です」
ジャミルの言葉にカリムは驚いたのか、目を丸くした。そして、てっきりマンカラしようと言われるかと思った、なんて小さくつぶやいた彼はジャミルの手を引いてクッションの山へと歩き出した。
抱きついていた温度が離れていって、少しだけ寂しいとジャミルは感じたものの手を握る事で我慢する。
「俺のことって言ったけど、俺のどういう事が知りたい?」
「その、何故俺にこんなに良くしてくださるのか、とか……。俺に命じたいこと等が知りたいです」
「あー、成る程なぁ」
ジャミルの手のひらをぐにぐにと揉んだり、指を絡ませてみたりしているカリムは、暫くうんうんと悩んでから言葉を紡いだ。
曰く、カリムよりも頭がいいであろうジャミルと切磋琢磨して、もっと力を付けたい、と。それに、優秀なジャミルの助力が、あればカリムの夢を叶えやすくなるだろう。なんて。
そんなカリムの言葉にジャミルの目が輝く。俺がカリムの助けになれるだって? だったら、カリムが自分を手放す事は無いと言っても過言では無いだろう。
「……カリム様の夢の手伝い?」
「ジャミルとだったら、頑張れそうだなって思ったんだ。もちろんジャミルが嫌だったら……」
「嫌じゃない! あ、や、嫌じゃない、です」
でも、とカリムは歓喜するジャミルを一旦落ち着けてから、言葉を続けた。
「俺の夢を知ってしまえば、ジャミルを手放してやれなくなるんだ。お前が俺の夢を漏らせば処理しないといけないし……。ジャミルとは仲良くやっていきたいからさ、殺すとかそういう可能性があるのが嫌で。手伝って欲しいけれど、手伝って欲しくないとも思ってる」
カリムはジャミルに選ばせようとしているのだな、と彼は理解した。カリムの夢の為に殺される可能性のある道か、唯々素晴らしい主人に尽くすだけの道か。ジャミル自身が選んでこそ意味があるのだろう。
けれど、こんな風に本心を隠しもせずに言ってくれる優しい主人は、きっと俺を殺せない。昨日今日の仲なのに、こんなに気に掛けてくれているカリムは、きっとジャミルを殺せないのだ。ジャミルがカリムを裏切ったとしても無理だろう。だって、言葉で殺すと言っただけで、カリムの眉は頼りなく垂れ下がっていた。その単語すらも発するのが嫌だと言わんばかりだ。
それに、カリムの家族が殺されている事をジャミルは知っていた。人の死を現時点で良く知らないジャミルと違って、ちゃんと知っているカリムは殺すという選択を選べないのだろう。漠然とした、勘とも言える思考でジャミルはそう判断した。
「カリム様の夢を教えてください」
「……いいのか?」
「俺はカリム様の役に立ちたい。そして、うまく出来たら褒めて欲しいんです」
「そっか。……じゃあ今から俺たちは共犯者だ! 遠慮はやめてくれ」
「……具体的には?」
「敬語は無し!」
ちょっとだけ複雑そうにしながらも、笑顔でそう言ったカリムに釣られてジャミルも微笑む。
「分かった。よろしくな、カリム」
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