熱砂の■■■ 第一幕
始めに異変に気付いたのは、ジャミルと同じクラスのドーンであった。
「……ラジャブ、最近バイパーって変じゃないか?」
「ぁん? 変? 同じクラスじゃないからよく分かんねぇわ」
ドーンが相談したのは、スカラビア寮の2年の学年代表であるラジャブだ。1年生の頃から気安い態度でカリムとジャミルと接する事が出来ていた、数少ない生徒である彼らはこの学園に於いて、珍しくあの2人に信用されていた。故にラジャブは2年の学年代表だし、ドーンは寮に何故かある宝物庫の管理の手伝いを許されている。
誰にでも優しいと思われているものの、その実ジャミル以外を心の底から信用していないカリムを考えれば、破格の対応と言えよう。
「カリムと過ごす時間が減ってる」
「は? マジかよ」
共に過ごす機会があれば出来るだけ側に侍って、彼らからの信頼を得ようと画策しているドーンとラジャブだからこそ、その状況の異常さを理解できる。暇さえあればカリムの側に控え、意味のない言い合いを繰り返して楽しそうにしているジャミルが、カリムの側にいない? そんなバカな。
「え、えええ。いや、え?」
「な、おかしいだろ?」
「そりゃ変だわ」
そんな会話をした直後から、ラジャブはジャミルを観察する事にした。すると、やはりドーンの言っていた通り、ジャミルはカリムの側にあまり近寄っていない。カリムの護衛の仕事はどうしたのかと思わないでもないが、どうにもディアソムニア寮のシルバーが現在は護衛を請け負っている様だ。
カリムの元へと行かないジャミルが何をしているかといえば、相変わらず慌ただしく副寮長の仕事をこなしている。それに、今年入学してきたアジーム家の使用人の一族の子……ウィサームへと色々と教え込んでいるのか、彼を常に側に置いていた。
「ラジャブ、なんか分かったか?」
「なーんも分かんね!」
「だよなぁ。バイパーのやつどうしたんだろ」
ジャミルが側にいないという異常を、カリムも放置しているのが不気味である。あれだけ常にジャミルを側に呼び寄せていたのに、一体全体どういう事なのだろうか。
下手に首を突っ込めば、大変な事に巻き込まれる可能性もあるし、カリムからの心証が悪くなるかもしれない。多少の下心を持ってカリム達と仲良くしていた2人には、無駄に藪を突く真似は出来なかった。
※※※
なぁんでこんな事になってしまったのか。オンボロ寮の監督生のユウは、割り当てられた宿泊用の部屋という名の監獄にて項垂れた。その隣では、彼と共に学園の生徒として生活している魔獣、グリムが床にペチャっと突っ伏している。
「ユウゥ……おまえのせいなんだゾ……」
「確かに僕も悪いけど、グリムだって来る気満々だったろ……」
「ぶな゙っ……」
スカラビア寮・寮長主催の特別合宿に強制参加させられる羽目になった彼らは、非常に疲れ果てていた。体力作りと称して、夕食後軽いウォーキングと走り込みをさせられたのだ。
どうして僕はこんなにも面倒事に巻き込まれるのだ、なんて後悔しても遅い。というより、今回は監督生は自ら面倒事に飛び込んだ様なものだ。
今回、監督生やグリムがホイホイとスカラビア寮に訪れ、面倒事に飛び込んだのには理由がある。
レオナ・キングスカラーを殴りつけていたカリムの姿が強烈過ぎて、暫くの間監督生はカリムが気性の荒い人間だと思っていた。しかし、食堂で自寮の生徒達とワイワイしている姿や、たまに後輩に奢っている姿を見て、監督生はカリムは別にヤバい奴ではないのかもしれない、と思い直したのだ。そして、それを決定付ける出来事がつい最近あった。
オクタヴィネル寮のアズールと、イソギンチャクの解放の為にオンボロ寮を担保に監督生が契約を交わした3日後。レオナ達に協力を取り付けた監督生達がアトランティカ記念博物館へ訪れると、本来ならば休館である筈の博物館の中へ、警備員達が彼らを入場させてくれたのだ。しかも、この写真が必要なのですね、と言って写真を貸し出してくれたのである。一体何が起きているんだと監督生達が訝しんだところ、警備員達の口からカリムの名が飛び出たのだ。
どうやら、監督生達の為に裏から手を回して、写真の貸出の許可を予め得ていてくれたらしい。監督生がアズールと契約を交わしたのだから、カリムが介入しすぎるのはフェアとは言い難いだろう。けれど彼の寮にもイソギンチャクが生えている生徒がいるので、何もしないというのも寮長として無責任だ。なので遠回しに手助けをしたというわけである。
カリムの元へ監督生とエース達で話を聞きにいくと、彼は笑顔でそう言ったのだ。この時、もしやこの先輩普通にいい人なのでは、と彼ら1年生達は気付いた。カリムと同じ部活に所属しているケイトに彼の話を聞いてみたが、やはり飛び出るのはNRC生らしからぬいい人エピソードばかり。
多分あの時はジャミルくん傷付けられて怒ってただけだよ、と先輩からのお墨付きも貰ったため、監督生はそんなに彼と係わり合いを持っていないのにも関わらず、カリムをめちゃくちゃいい人認定していた。……監督生の手助けをしたのに、それで恩着せがましい事を言うでもなく当たり前のことをしただけだ、と彼が言ってのけていたのも大きい。
怒ってる時は怖かったけど、普段優し過ぎない? 本当にNRC生か? 遠くからカリムを見かけただけで今日はいい日になるかもしれない、と思う程に監督生はカリムの人徳にやられていた。
……なので。監督生はカリムが理不尽な事を仕出かすだなんてちっとも思っていなかったのだ。
カリムの従者であるジャミルと食堂で出会った時、カリムも学校に残っているとはなんてラッキーなんだ! と大はしゃぎしたし、ジャミルが今のカリムの様子はおかしいからスカラビアには来ない方がいい、と言った時には、あんな優しい人が様子がおかしい?! なんとかしないと! なんて無駄な使命感に燃えたぐらいである。
どうにも他寮生を巻き込む事に気が引けているらしく、いい顔をしなかったジャミルだったのだが、監督生とグリムは無理を通してスカラビアにやってきたのだ。2人きりのウィンターホリデーよりも、カリムがいるスカラビア寮にお邪魔してみた方が楽しいだろうし、何しろジャミルのご飯が美味しそう。
そんな軽い考えでスカラビア寮に訪れたはいいが、様子がおかしいカリムは怖かったし、オンボロ寮に帰ろうと思ったら帰してもらえず。折角のウィンターホリデーなのにも関わらず、勉強漬けの合宿生活がこれから始まってしまうのだ。
「うぐう、ジャミル先輩も味方してくれない……」
「そもそも、ジャミルはずっとカリムの味方なんだゾ……」
「でも、いつもの軽口言い合ってる感じを見てたらさぁ」
ジャミル以外の寮生達は合宿生活の犠牲者を増やす為に、監督生をスカラビア寮に招くのを割と歓迎していた。NRC生は一部の例外を除いて足の引っ張り合いが大好きなのだ。が、ジャミルは最後まで反対してくれていたので、ワンチャンこっそりと逃してくれる可能性を監督生は期待していた。
まあ、結果はこのザマである。自己責任だ、俺は忠告したぞ、なんて言われてしまえば監督生は口を噤む他ない。
「あぁ……明日は朝から行進だっけ?」
「行きたくないんだゾ」
「絶対叩き起こされるじゃん」
「ふな゙ー……」
真顔で淡々と厳しすぎるメニューを提示するカリム。苦々しい顔をしていながらも、カリムに付き従うジャミル。そして己が寮長の変化に戸惑いを隠せない寮生達。スカラビア寮内の雰囲気は随分と悪かった。彼らと積極的に関わって来ずとも、たまに近くで普段の様子を見掛けていた監督生ですら、常と違いすぎて息苦しいと感じる程。
更に言うならば、カリムが示す特訓のメニューを余裕でこなせているのが、本人のカリムとジャミルしかいないというのも雰囲気の悪さを助長させていた。ただでさえしんどくて辛いのに、カリムとジャミルはこなせているので自分たちが余計に惨めに思えてくるのだ。自分たちが本当にどうしようもないヤツだから、マジフト大会でも期末考査でもスカラビア寮が最下位だったのだ、と皆が落ち込んでいる。
横暴な言い方だしやり方だけど、寮長の言う通り俺たちが悪いからあんな結果なんだ。ジャミルのフォローも一切ない為、皆一様に暗い雰囲気である。
本当は、寮生達は一切悪くない。スカラビア寮がマジフト大会で最下位だったのは、サバナクローの妨害でレギュラー陣がカリム以外大会に出場できなかったからだし、期末試験の結果が悪かったのは、アズールの試験対策ノートで他の者達が軒並み良い点を取ったからだ。そもそも頭のいいスカラビア寮生は殆どアズールのノートを使わなかったので、だいたい80点代しか取れなかった。本来ならそれでも十分な筈だが、それに関しては運が悪かったと言えよう。
とにかく、今回のスカラビア寮は運が悪かった。寮生達が不甲斐ないせいではない。
「カリム先輩……なんであんな風になっちゃったんだろ」
「前話した時と全然雰囲気が違うんだゾ……」
「うーん、二重人格なのかな」
「でも、スカラビアの奴等も、あんなカリムは初めてって言ってたな」
「……ジャミル先輩なら知ってそう」
寮生達の相談に乗ってやったり、後輩に食堂で奢ってやったり。助力の礼をしにきた監督生に対して、朗らかに笑っていたカリムはどこにもいない。柔らかい光を宿していた赤の瞳は、今ではすっかり温度のないただの宝石の様だ。……宝石でも十分美しいと言えよう。
グリムを抱き上げ、監督生は備え付けのベッドに大の字で横たわる。……オンボロ寮のベッドよりもふかふかで、そこだけは許せた。グリムも柔らかいベッドが嬉しい様で、ふかふかなベッドを前足で交互に踏んでいる。そんな仕草を見ればただの猫にしか見えないなぁ、と監督生は思った。……口に出せば怒る事は目に見えているので、黙っていたが。
※※※
「……あ……あつ…………」
「ぶ、ぶな゙ぁ……」
「水分補給をするか?」
翌朝。スカラビア寮生に叩き起こされた監督生とグリムは、砂漠の行進に参加させられていた。先頭には傘を持って歩くカリム。その後ろには水や食料を積んでいるラクダと、副寮長のジャミルと監督生達。さらにその後ろに1年の学年代表が取り纏める1年生。後ろには同じ様に2年、3年と続いている。
本当は後ろの方に行ってずらかりたかった監督生とグリムだったが、行進に慣れていないから水分補給をしやすい方がいいだろう、というありがた迷惑な気遣いにより、水を運んでいるラクダのすぐ後ろを歩く羽目になった。隣にジャミルがいる為サボるにもサボれない。辛すぎる。
あと、なんと言えば良いのだろうか。暑さに喘ぐ寮生達の為に、カリムがサッとユニーク魔法で小雨を降らしてくれたり、ジャミルが風魔法で涼しくしてくれたりするので、大きく文句を言えないのだ。確かに辛いのだが、ギリギリなんとかこなせるレベルの行進なのである。30分歩き続け、5分休憩。そしてまた30分歩き続けてまた休憩する。ちゃんと休ませてくれるのも、余計に文句が言えない要因だ。
それに、カリムとジャミルは行進の最中に魔法を使って寮生のケアをしているのに、2人ともケロッとした顔をしているのも精神的に来る。やっぱり俺たちダメなやつじゃないか、という空気が蔓延していた。地味に監督生も落ち込んでいる。
「オアシスに到着後、20分休憩した後に復路を行進する。各自ジャミルから軽食を受け取れ」
伝えることだけ伝えたカリムはさっさとオアシスへと向かい、ユニーク魔法で枯れたオアシスに水を満たしていった。正しくオアシスメイカーだ。ついでに日除けの天幕すらも張ってくれるのだから、ある意味至れり尽くせりと言えよう。用意されている軽食だって、カリムとジャミルが交互に用意している。合宿を強制しているカリムが1番働いているし、厳しくて嫌なのだが、確実に自分たちの糧になる合宿だ。現時点でスカラビア寮生達からの不満の声は上がっていなかった。
オアシスを満たす水に足を浸けたり、中には池に飛び込んで泳いでいるスカラビア寮生を尻目に、監督生とグリムはジャミルの元へと向かう。昨日2人で思い至った"カリム二重人格説"を、確かめようと思ったのだ。
カリムではなく他の寮生……確か1年の合同授業で見た気がするから1年だろう、その生徒と共にいるジャミルに監督生が話し掛けた。
「あの、ジャミル先輩。今大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。ウィサームも構わないか?」
「はい、構いませんバイパーさん。それと……初めまして、ではないですよね監督生さん。ぼくはウィサーム、アジーム家の使用人です」
「あ、はい、僕はオンボロ寮の監督生のユウです。確か1年C組だったよね」
よろしく、と簡単にウィサームと挨拶した監督生は、内心カリムの家ってやっぱりすごいなぁ、なんて思っていた。ジャミル先輩の様なすごい優秀な従者だけじゃなく、一応名門校らしいNRCに入学できる年下の使用人まで家にいるだなんて。
「それで、何の用事なんだ?」
「あの……カリム先輩の事なんですけど、以前も今みたいに人に厳しく当たることってあったんですか? 殆ど関わりのなかった僕がいうのもなんですけど、人が変わったかの様に先輩が厳しいから……」
「……その事か」
監督生の言葉にジャミルは顔を顰めた。ウィサームの方は困ったなあ、という表情である。
そんな2人の顔を見て、やっぱりカリム先輩があんな風になったのは初めてなのかな、と監督生は思った。そもそもジャミルは何故かカリムの様子がおかしいと言っていたし、それは方便かもしれないと思っていたが、本当に何も分かっていないのだろう。
「……カリムは今まで大きな失敗をしたことが無い。だから、スカラビア寮の最下位という失敗に苛立っているんじゃないか……と、俺は思っている」
「まあ、あのカリム様ですからねぇ。文武両道! アジーム家の麒麟児! そういう期待に晒されて今まで失敗してなかったのに、カリム様が寮長になった途端にマジフト大会も期末試験でも我らがスカラビアは最下位ですし。御乱心なさったのでは?」
「口が過ぎるぞウィサーム」
「事実でしょう、バイパー先輩。そもそも先輩がカリム様のなさる事を一切否定しないのも、彼の在り方を肥大化させた要因でしょうに」
ウィサームのその言葉に、眉間に深くしわを寄せたジャミルが彼を鋭く睨み付ける。が、睨み付けられた当の本人であるウィサームはどこ吹く風。
あっ実はこの2人仲が悪いぞ。カリムに仕えるという同じ立場だから一緒にいるだけで、どうやら彼らの相性は悪いらしいと勘付いた監督生は、お得意の愛想笑いを浮かべてそそくさとその場を後にした。
折角ジャミルを頼りにしたかったのに、苛立ってる彼はなんとも近寄り難い。多少の情報を得られはしたが、結局進展など無いに等しかった。
そして、ヘロヘロになりながらオアシスからスカラビア寮に戻れば、即座に1時間ほどの風呂休憩だ。無駄に煌びやかな大浴場に疲れた体を引き摺って向かい、各々汗を流す。スカラビア寮生達はなんとか体力的に余力があるものの、慣れない砂漠を歩くという苦行は相当に監督生の体力を奪っていた。一瞬でも気を抜けば眠ってしまいそうなほどだ。
しかし、時間は有限である。風呂休憩が終われば昼食の時間で、その後はすぐに勉強会が始まるのだ。休んでいる暇などほとんどなかった。
なので、こくりこくりと船を漕ぎつつも、監督生はカリムが用意したらしい昼食をなんとか口に詰め込む。勉強会と言っても、基本的にスカラビア寮生の頭は良いので大体が自習だ。けれど、その中でも苦手な教科がある生徒はどうしても存在してしまう。そんな寮生達にはカリムとジャミルが教師役となり、文系科目と理系科目に分かれて勉強を教えるというスケジュールだ。今日はカリムが文系科目で、ジャミルが理系科目らしい。そして明日はジャミルが文系科目でカリムが理系科目を担当する。
これが監督生にとって問題だった。このツイステッドワンダーランドへと身一つで投げ出された監督生には、この世界で当たり前とされている歴史すら一切知らない。かのグレートセブンの名を知らぬなんてあり得ない、という反応をされた事もあった。子供ですら知っている昔の事件を例に挙げて説明されたところで、彼は何も知らないのだから全く授業が理解できない。
先生は悪くない。むしろわかりやすく説明しているのだろうと、分からないなりに監督生は感じていた。が、ここは腐っても名門校だ。ついてこれない生徒に合わせて授業を行う事はしないし、分からない場合は授業後に聞きにこい、と言うスタンスである。そして分からない物だらけの監督生は、授業後に教師に聞きに行かねばならぬ量も多い為、現状時点で大体の科目の理解が追いついていない。特に歴史は地図から覚えねば、相互関係すら分からないので鬼門だった。
故に監督生の1番の苦手科目といえば、魔法史である。ジャミルに試験結果を尋ねられて、恥を承知であるものの馬鹿正直に答えた監督生は、君は魔法史を先ずどうにかしようと言われていた。期末試験に於いて魔法史の結果は、それはもう悲惨なものだったので、さもありなん。
しかし、今日の文系科目を教えてくれるのはカリムである。ジャミルじゃなく、様子がおかしくてちょっと怖いカリムに、苦手な魔法史を教えてもらわねばならぬ。
ただでさえ魔法史に苦手意識がついていた監督生は、昼食の時点で憂鬱であった。……のだが。
クソほど丁寧に教えてくれるんですけど、と思わず口からポーンと飛び出そうになったので、監督生は慌てて口を噤んだ。そもそも監督生は、こんな事を知らないのか、だとか言われると身構えていた。
けれども、実際は全くそんなことは無かった。彼の魔法史の壊滅的な点数をカリムは予め知っていたのか、わざわざエレメンタリースクールで扱う様な教科書を用意して、とても丁寧に基礎の基礎から教えてくれたのである。しかも、他の寮生達もそれぞれの勉強の進行具合に合わせて。
本当に厳しいし、朝の行進なんてやりたくないのだが、こうも寮長と副寮長が誰よりも頑張って皆の実力を上げようとしているのだし、悔しいことに文句の言いようがない。
※※※
「あ、監督生さん」
「……ウィサームくん?」
怒涛の合宿初日を終えて、スカラビア寮の談話室でグリムと一緒に潰れていた監督生にウィサームが話しかけてきた。珍しいことに彼の近くにはジャミルではないほかの寮生がいる。
「今日は大丈夫でしたか? 初めての行進でしたし、慣れないことをして随分疲れたんじゃないかと思いまして。バイパーさんが明日の下拵えをしていらっしゃったので、彼にお願いをして飲み物を貰ってきたんです」
「わ、ありがとう。ねえグリム、ココナッツジュースだ」
「ココナッツジュースぅ? 飲んだこと無いんだゾ」
そうは言ったものの、ぺちゃりと絨毯に突っ伏して動く気配のないグリムを持ち上げて、コップの前に置いてやった後、監督生はウィサームから受け取ったコップを傾ける。彼の隣にいるのは上級生だろうか。あまり接点を見出せることの出来なかった監督生は、どういう関係なのだろうと首を傾げた。
「監督生さんも不運ですねぇ……この時期にスカラビア寮に来てしまうなんて」
「いや、一度ジャミル先輩に来ない方がいいって言われたんだけど……好奇心に負けてしまって」
「あ、そうなんですか。あまりにも大変そうだから、バイパーさんに頼んでカリム様に取り成してもらおうと思ってたんですけど。自業自得ならダメですねぇ」
一心にココナッツジュースを飲んでいた監督生が、しんどそうだった顔を一変させてバッと俊敏な動きで顔を上げてウィサームを見つめる。が、彼は腕でバッテンを作って首を横に振った。
隣にいる寮生達が上げて落とすなよ、なんて言いながら彼の肩を叩く。グリムも、もしかすれば逃げられるかも! と期待したのにダメと言われて随分とご立腹らしい。絨毯で潰れたまま、やいやい、と怒り始めた。
「なんでダメなんだゾー!」
「自分で飛び込んできたのならダメです」
「そこをなんとか!」
「慈悲はないですよ、ぼく熟慮のスカラビア寮生なので」
「ぶな゙ぁ……融通の利かない奴なんだゾ……!」
こんなに可愛い小動物がかわいそうじゃないのかよ、と爆笑しながら赤髪の寮生がグリムを持ち上げる。が、相変わらずウィサームは大袈裟に顔を顰めて、バツ印を作ったままだった。
みょーん、と持ち上げられて縦に伸びたグリムはされるがままだ。抵抗する体力すらないらしい。……まあ、こんな小さな体で砂漠の行進をした後に、勉強なんてしたのだから監督生より余程疲れているのだろう。
ふにゃふにゃになっているネコみたいなグリムの触り心地がいいのか、赤髪の彼以外の寮生達もゾロゾロと集合し、遠慮しながらもグリムに触れ始めた。最終的にグリムを囲う様にして絨毯に座り込み、猫吸いならぬグリム吸いを代わる代わるしている。……みんなストレス溜まってるのかな。
ついにはウィサームまでもがグリム吸いの輪に入り、グリムの腹に顔を突っ込んでいた。
「監督生くんっていつもネコちゃん吸ってんの?」
「偶にですよ」
「いいなぁ、ネコ……」
「オレ様は猫じゃねぇ、グリム様なんだゾ……!」
「いや君は完全にネコだね。このふわっふわのお腹が証拠だぜ!」
はじめにグリムを持ち上げた赤髪の生徒がやけにカッコつけた顔と声でそう言い放ち、グリムの腹に鼻を埋める。やってる事はカッコよくないんだよなぁ、と側で見ていた監督生は思った。ネコちゃん認定されてしまったグリムは虚無の顔だ。かわいそうに。
折角だから、と監督生も重い体を引き摺ってグリム吸いの輪に混じる。彼は普段エーデュースやジャックなどの同級生とばかり過ごしており、あまり上級生と関わる事は少なかった。稀に関わったとしても寮長や副寮長などの地位のある生徒が多い為、多少緊張感を持って接していたのだが。今ここにいる面子はただの先輩であるので、監督生も幾らかリラックス出来ていた。
ココナッツジュース以外にも、備蓄してあったお菓子も持ってきていたらしく、それを食べながら輪になってグリムを撫で回し、適当な会話が続いていく。例えば赤髪の生徒は3年で、アジーム家に仕える料理人の息子だという事を教えてもらったり。アジーム家の第四夫人の親戚の生徒の話だったり。
まさかの一夫多妻制に監督生は目を白黒させた。すごいすごいと思っていたものの、想像以上にカリムの実家はやばそうだ。きっと元の世界で言うところの石油王みたいなものだろう、と彼は当たりをつけた。強ち間違いではない。
「意外とカリム先輩のご実家の関係者って多いんですね」
「ま、あの家は遠縁とは言え王家の血が混ざってるし、色々な家と関係を結んであんなに大っきくなったんだよ」
「そういうことなので、誰もカリム様に逆らえないんですよ。実家の力が強い者は大抵がカリム様の関係者ですし、あまり有名ではない家の出身の方はアジーム家の名を恐れます。……カリム様に物申せるのは、バイパーさんぐらいなんですけどねぇ」
あの方、カリム様のイエスマンですし。しみじみと呟くウィサームを、監督生は見つめた。
……確かに今のカリムは厳しいが、寮生達の体調管理にも気を付けてくれているし、寮生達からの訴えに聞く耳を持たないとは思えない。だって、カリムという人はあんなに優しい人なのだ。この厳しさだって、嫌な者だけれど確実に監督生の糧になる。それを、監督生よりも長い間カリムと関わっていた彼らならわかるはずだろう。
それこそ誰よりもカリムの事を分かっているジャミルは、カリムの真意を察した上でカリムに意見していないのでは。
でも、と監督生は頭を悩ませる。付き合いが長いからこそ、カリムが優しい人間じゃないと知っているのかも……とか。うんうんと頭を抱えて悩む監督生を見て、ウィサームが微笑む。
「まぁ悩んだ所で、カリム様が合宿を止める訳じゃないですし。無駄に頭を使わずに休んだ方がいいですよ」
「……ウィサームくん。ジャミル先輩に取りなしては?」
「あげないです」
「……やっぱり意地悪なんだゾ」
逃げ出さない様に、皆で囲んで部屋までお送りしてあげましょうねぇ、などというウィサームの声で、ヘロヘロの監督生と吸われまくったグリムは結局部屋へと連行されてしまった。余ったココナッツジュースやお菓子類を持たされ、部屋に押し込められた監督生はちょっとだけ途方に暮れる。
逃してくれないし、自分とグリムを巻き込んだ人達だけれど……比較的いい人なのかもしれない。ジュースをストローで吸い上げながら監督生はそんな事を思った。
が、それは間違いである。深謀遠慮を得意とするスカラビア寮生なのだから、彼らは悪巧みが非常にうまい。監督生に優しくして正常な判断力を削っていき、逃げ出さない様にしてやろう……という思惑で彼らは監督生に優しくしていたのであった。
そして見事に監督生は騙されていた。
「ふなぁ……もう吸われるのはコリゴリなんだゾ……」
「アニマルセラピーだよ、アニマルセラピー」
「オレ様にこそ癒しをよこせ……!」
尚、グリムはスカラビア寮生達にマッサージもして貰っていたので、割と回復している。
昨日と同じく……否、昨日よりも随分と草臥れた様子の監督生は、ふかふかのベッドに寝転がった。ああ、このまますぐに眠ってしまいそう。足も筋肉痛だし、頭もいっぱい使って勉強したし。
瞬きが増えてきた彼は本格的に眠る為、布団に潜り込んだ。今ならおやすみ3秒でいける。謎の自信と共に欠伸を零した監督生は目を瞑り。
「見ろ、監督生!」
「…………えええ、今寝る流れだったじゃん」
「このスプーンで、少しずつ床を掘って外に出るんだゾ!」
「……時間と根気の勝負すぎる……」
ドヤ顔で高らかにスプーンを掲げるグリムを、監督生は半眼で睨みつける。どうだと言わんばかりの顔だ。
まあ、材質的にスプーンで掘れそうな床だが一体何日かかることやら。見張りをしておけ、というグリムの言葉に従い、愛しのベッドから降りた監督生は、部屋の扉の前で耳を澄ませた。微動だにせず見張りをする、なんていつのまにか寝てしまいそうだ。
結局、交代で仮眠を取りつつも見張りと穴掘りを進めていくが、気が付いた頃には監督生はドアにもたれて眠ってしまっていた。根性なしじゃねぇか、と文句を呟いたグリムは1人で穴を掘り進めていく。
真面目に勉強なんてしたくないグリムは、監督生よりも余程この合宿から脱走したいのである。砂漠の行進では、グリムが草臥れた振りをするとジャミルが持ち上げて運んでくれるので、サボれるからまだいい。が、勉強は嫌だ。確かにカリムの教え方は分かりやすいが、そもそも勉強嫌いのグリムにとっては苦痛でしかない。
こんな所さっさと出てってやるんだゾ……! と、過去に類を見ないほど真剣に、グリムは穴を掘り続けた。
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