断片

 カリム・アルアジームという男は傲慢な善人である。


※※※


 カリムの記憶の中の母は、いつだってベッドに伏せっていた。彼女は生まれつき身体が弱かったらしく、カリムやその弟を産んだときはまだ良い方であったが、妹を産んでから産後の肥立ちがどうにも悪かったのだ。ベッドから起き上がる事が出来ず、みるみるうちに彼女は痩せ細っていく。
 そんな母を見たカリムは、彼女を少しでも元気付けようと様々な贈り物をした。父親から与えられた煌びやかな宝石も、緻密に編まれた豪華な織物も、庭に咲いていた花も。……カリムがその日一番に美しいと思ったものを母に差し出した。彼のささやかな贈り物を彼女はいつも喜んで受け取っていたけれど、1番綺麗な笑顔で受け取ったのは庭に咲いていたなんの変哲もない花だった。……ああ、母上は美しい花が好きに違いない。そう思ったカリムはそれから毎日、途絶えることなく母に花を差し出し続けていた。名も知らぬ小さな黄色い花、大きな白い花、カリムの瞳と同じ赤い花を。
 そんな風に過ごしていた、ある日の事である。カリムが母の部屋に入ろうとすると、中から話し声が聞こえたのだ。穏やかで落ち着いた彼女の声ではなく、別の人間の声がする。耳を済ませてみると、キンキンと頭に響くその声の持ち主は第二夫人だと彼は気付いた。金切り声で母を罵る第二夫人に驚いたカリムは、一直線に父の元へと向かった。父上ならば母上を助けてくれるに違いない。そう思ったのである。

 けれども父は母を助けず、更には第二夫人を咎める事すらしなかった。第二夫人が病弱な第一夫人に当たり散らしている事を知った上で、彼の父は何もしない事を選んだのだ。
 ……カリムの父はとても愛情深い男であったが、同時に薄情な人間でもあった。己が愛したいものに愛情を注ぐだけで、他は一切関知しない。彼が愛を注いでいる者達が憎しみ合おうとも、彼の手元に存在している限りただ愛すのみ。ベッドの上で横たわり衰弱している妻に手を差し伸べる事すらせず、彼はそのままで愛していたのだ。

 まあ父親のそういう面をカリムは知っている訳でもないので、彼は単に父親に裏切られたと感じた。愛する人を守る事こそ、正しい愛し方だとカリムは思っていた故に。
 なのに母を父は守らない。こんなに儚い人を、守る様子が全く見られないのだ。そうなれば、長子としての自覚を持っていたカリムが思い詰めるのは自明の理であろう。母を守れるのは自分だけだ、なんて思って今まで以上に母の元へと通い詰めたのである。
 花を贈り、小さくてころころしている弟と、まだ赤ん坊の妹が元気だと彼女に伝えて。弟妹がもう少し大きくなったら絶対に連れてくる、といつもより顔色のいい母親に約束をしたカリムは、その日の晩に自分が約束を果たす夢を見た。夢の中の母はカリムと追いかけっこをしてくれて、弟達とおままごともしていた。いつも青白い顔の母の頬は薄く薔薇色に染まり、今までに見た事のないほど幸せそうに微笑んでいるのだ。これが夢だと自覚していたカリムは、より一層母を守ろうと決意した。今はまだ叶わない夢だけれどいつか必ず叶えてみせる、だなんて。

 けれども翌朝、カリムの母親は死んだ。急に容態が悪化して、そのまま帰らぬ人となったのである。

 カリムの勘が叫んでいた。自分の母は殺されたのだ、と。徐々にだが快方に向かっていた母が、突然死んだなんて嘘だろう。緩やかに呼吸ができなくなり、窒息死したと医者が言うがカリムは信じなかった。あの女が母を殺したのだ。第二夫人こそ母の仇であると。何故誰も気付かないのだろう。今も嘆き悲しんでいるカリムを見て愉快そうな目をしたあの女に、どうして誰も気付かない。

 それからカリムは、必死に勉強をして第二夫人の悪事の尻尾を掴もうと決意した。誰よりも頭が良くなれば、あの女の尻尾を掴んで断罪できる筈だと信じたのである。しかし現実は非情だ。母の死から2日後、今度は弟が毒殺された。母と同じく呼吸ができなくなり、窒息死したのだ。嗚呼またあの女が……!
 これ以上第二夫人をのさばらせてなるものかと、カリムは毒殺された弟と病死扱いの母親の死ぬまでの過程が一緒だと声高らかに叫んだ。そうして母の死因をもう一度調べて貰ったところ、弟に使われたのと同じ毒が見つかったのである。
 後は下手人に黒幕を吐かせれば、あの女を追い出せる。そう信じたカリムは、やはり裏切られた。

 第二夫人が第一夫人を殺したと分かってもなお、カリムの父は何の罰も与えなかったのだ。愛した人が死んでしまえば、彼にとってはそれまでなのだ。"愛した"人を殺した"愛する人"を、カリムの父は変わらず愛す。
 そこで漸く、カリムは己の父の在り方を理解した。あの男はただ愛するだけ愛して、いなくなればどうでもいいと思っている。そこに愛の対象の悲哀は介在せず、父の主観のみで愛が完結しているのだと。死んでしまったら仕方がない。まるでお気に入りのぬいぐるみが壊れてしまった事を悲しむのみで、壊した張本人への負の感情が発生しないのだ。

 そんな男が後継たるカリムはまだしも、まだ赤ん坊の妹を守るはずがない。きっと小さなぬいぐるみが壊れた、と悲しむだけだろう。ならば遺された妹を守れるのは己のみである。何に変えようとも守ってみせると、あどけない笑顔を浮かべる何も知らない妹を見つめてそう決心したカリムを、けれども運命は嘲笑った。妹が流行病で死んでしまったのだ。実に呆気ない最期だった。母や弟の様に窒息して苦しむ訳でなく、彼女は眠る様に死んだ。それだけが救いと言えるかもしれない。

 とどのつまり、カリム・アルアジームは心底守りたいと願った人を、誰1人守る事が出来なかったのである。

 後に残ったのは仇である第二夫人の子である弟や、他の夫人たちの息子や娘。どれもこれも、カリムが守りたいものじゃない。
 しかし彼らは仇の子供達といえど悪じゃなく、長男であるカリムが守るべき弟妹だった。死んでしまった家族と同じ、守ってくれる人の存在しない、ただの子供達であったのだ。……そして、その末路をカリムは誰よりも理解していたのだから、彼の選択は当然の帰結だった。

 カリム・アルアジームは善人である。故に復讐を望む事なく、アジーム家の全てから、家族を守り抜くと決意したのである。


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