深海の商人
閉店後のモストロ・ラウンジにて。ぐでっとソファに腰掛けるフロイド・リーチに対して、アズール・アーシェングロットが疑問を投げかけた。
「フロイド。部活でのジャミルさんの様子はどうでした?」
「んー、いつも通りっぽかったけど、オレの事観察してたぁ」
予想通りのフロイドの答えに、アズールは笑みを深める。今日は期末試験の成績発表の日だった。契約を守れなかった哀れなイソギンチャク達の中には、アズールの目論見通りスカラビア寮生もいたので、あとは相手が餌に食いつくのを待つだけだ。
「……ふふ、こちらの事を窺っている様ですね。近々接触があるでしょう」
「アズールってば、ずーっとラッコちゃんとオハナシしたがってたもんねぇ」
「貴方が仕掛ける日を僕もずっと待っていたんですよ、アズール。楽しみましょうね」
フロイドもジェイドも待ちきれないとばかりに、ニヤニヤと笑みを溢す。
「ええ、ええ! 何せ、あのカリム・アルアジームをやり込めるまたとない機会! ……搾り取ってやりますとも」
黄金の契約書を数枚うっとりと眺め、アズールは商談の算段を立てていく。何せ彼にとってカリム・アルアジームは目の上のたん瘤。手に入れている資産が桁違いなカリムは、アズールの様に契約を交わして人々を従属させていない。人に投資し、恩で縛り上げ、あたかも自主的にカリムに従属しているかの様に錯覚させる。
賢いやり方だ。元手の金が湯水の如く湧き出るからこその先行投資。なんなら、熱砂の国に新しく出来る王立の魔法士養成学校にも投資し、更にはナイトレイブンカレッジの優秀な生徒を、その学校の教師の助手として雇う契約も交わしているとの噂だ。
王立学校の教師の助手なんて、庶民からすれば喉から手が出るほどに欲しい地位だ。国王と繋がりが持てるのである。それに熱砂の国王夫婦に気に入られているカリムが、態々推薦したという称号だけでも得難い。
自分の地位の価値も金の使い方も増やし方も、全部心得ているカリム。そして、その彼をいつもそばで支えている、カリムよりも頭のいいジャミル。彼らをどうにかやり込めて、アズールが一度勝利さえすれば……。
アズールはカリム・アルアジームに勝利したという称号を得られるのだ。それを得て損はないし、カリムの持つコネの一つぐらい奪い取れれば完全勝利だろう。
オンボロ寮を手に入れてモストロ・ラウンジの2号店を開店し、己の過去の痕跡を全て捨て去って。更にはカリムを打ち負かす。1年以上をかけて入念に準備したこの計画、必ずかの男の鼻を明かしてやろう。
そんなアズールの予想通り、期末試験の順位が発表され多数の生徒達の頭にイソギンチャクが生えて2日経った頃、ジャミルがアズールへと接触を図ってきた。アズールと契約したスカラビア寮生について、カリムから話があるので時間が欲しいとの事である。
獲物が餌に食いついてくれた。思わず零れ落ちてしまいそうになる嘲笑を堪え、アズールは快く対談の時間の約束を取り付ける。ああ、楽しみで仕方がない。
※※※
「そわそわしていますね、アズール」
「してません」
「えぇ、アズールってばさっきからメガネ無駄に触ってるしぃ、超そわそわしてんじゃん」
「してないですよ失礼ですね」
その日の放課後、閉店したモストロ・ラウンジの入り口にて、アズールとジェイド、フロイドの3人はカリムとジャミルを待っている。そしてジェイド達の指摘の通り、アズールは閉店前からずっとそわそわしていた。意味もなく時計を眺めたり、スカラビア寮生との契約書の枚数を数えにVIPルームへと行ったり。
柄にも無いが、アズールは少々緊張しているのである。入学以来アズールは、ジェイドにSNSなどからカリムの情報収集をして貰ったり、ジャミルと同じ部活のフロイドに彼の様子を観察してもらったりしていたのだが、驚く程に2人の情報が集まらない。カリムの商品は安価なものでも品質が良いし、高級品なら値段に見合ったとても使いやすいものだ、なんて顧客の声。熱砂の国民からは、定期的に楽しい宴を開催してくれている彼に対する好意的な意見。
……いくら調べたところでカリム個人の情報が全く集まらなかった。どうやらカリムはSNSをしていないらしいし、ジャミルはアカウントを持っていると匂わせているものの、一切情報が掴めない。ならばSNS以外で情報を集めよう、と彼等に近付こうにもジャミルのガードが硬すぎる。カリムと取引しているヴィル・シェーンハイトの口も固いし、ラギー・ブッチは金払いの良いカリム達の情報を提供してくれない。
唯一有益な情報があったとすれば、それは先日のマジフト大会で判明した、カリムのユニーク魔法ぐらいであろうか。シンプルに有用なユニーク魔法だ。……が、終ぞジャミルのユニーク魔法は分からなかった。
あのアジームの後継者の、護衛も兼ねた従者としてたった1人で仕事を行なっているジャミルなのだから、相当強力なユニーク魔法だろう事は想像に難く無い。出来ればその情報すらも交渉材料にしたかったのだが……。無い物ねだりをしても仕方がない、とアズールは真剣な顔で時計を見つめた。
こちらの餌に飛びついたのだから、有利に事を進められるだろう。けれど、彼に不利な条件での取引を行うのは骨が折れるだろう事は分かっていた。何故なら、カリムの方が商人としての経験は豊富なのだ。熱砂の国の他の富豪達とやり合った末、カリムは財産を築き上げた。
契約というものを、よく理解していない者たちとやり合う事の多かったアズールとは訳が違う。手強い相手だけれど、だからこそ遣り甲斐がある。
「わざわざ出迎えてくれたのか、アズール」
「いえいえ。あのカリムさんと折角お話できるのですから、出迎えねば無作法でしょう?」
そんな事をアズールが考えていると、約束の時間の5分ほど前にカリムがジャミルを伴って現れた。そして、これは手土産だとカリムが言って、彼の横に立っていたジャミルが紙袋をこちらに差し出した。カリムの事なので最高級の茶葉なりスパイスだろうか、と当たりをつけたアズールは、後ろに控えていたジェイドにそれを受け取らせる。
「それでは奥のVIPルームにご案内しましょうか。飲み物など必要でしたら、ご用意しますので」
「ありがとう。でも飲み物とかは大丈夫だぜ」
人の良さそうな笑顔のままスパッと断りを入れたカリムを引き連れ、アズールはVIPルームへと向かった。やはり噂通り、自分とジャミルの作ったもの以外を口に入れないらしい。ここに訪れてくれたスカラビア寮生に媚を売ってみても、モストロ・ラウンジへ来なかったのはそういう事か。
初めてやってきたモストロ・ラウンジ……まあ、閉店しているのだが、それに目を輝かせているカリムは、ジャミルと何やら感想を言い合っている。あれだけでかい水槽は初めて見ただとか、あの貝殻のモチーフの照明がキレイだとか。ジャミルの方もカリムに釣られて店内をキョロキョロと見回していた。……それでも、警戒を解かないのは流石と言ったところだろう。
そうこうしているうちに水槽の横を通り抜けて少々豪華に装飾された廊下を進めば、VIPルーム。ジェイドが扉を開いて入室を促すと、当然といった態度でカリムはVIPルームへと入っていった。
「それで、本日はイソギンチャク達のお話……でしたよね」
「そうだな」
備え付けられたソファにカリムは迷いなく座り、ジャミルもその隣へと腰を下ろす。この時アズールはおや、と内心首を傾げた。何故、カリムの従者であるジャミルも普通に座っているのだろうか。こちらの付き人役の、ジェイドやフロイドは立ったままだというのに。……同学年相手だからと舐めてかかっているのか?
「端的に言うと、うちの寮生達の解放にはどれくらいのマドルを支払えばいい?」
いつもと同じ声の調子で、カリムはそう言い放つ。ようはお前達は金が欲しいんだろう、と言わんばかりの態度だ。思わずアズールの口端が引き攣る。この男、アズールが生徒達と契約を交わして、その身柄の自由を縛っていると理解しているのか。いや……理解しているからこそ交渉しに来ている筈だが……。何を考えてこんな態度なのだ。
アズールがちょっとだけ困惑しているのに気付いたジェイドが、カリム達に気付かれない様にアズールを小突く。それにハッとした様に咳払いしたアズールが口を開いた。
「……お金、ですか。彼らはモストロ・ラウンジの貴重な労働力ですので、マドルを支払って貰うだけで解放するのは些か……ねえ?」
「そうかぁ。マドルだけじゃ足らないのか……」
うんうん、と頷いたカリムはジャミルと目を合わせる。2人とも一切気負っていない様子だ。
それがさらにアズールの癪に触った。アズールが用意した餌に引っかかっておいて、なんて態度なのだろう。もしかして交渉ではなく喧嘩をしに来たのか、この2人。
「じゃあ俺達は帰るぜ」
「…………は?」
「え?」
「……おやおや」
よーし帰るぞジャミル、なんて言ってソファから立ち上がったカリムを、アズールは唖然と見つめる。ジャミルも彼に続いて立ち上がり、帰ってゲームでもしようか、なんて事を言い放つ。
いやいやいや、何故そこで帰る? 生徒達の解放はどうしたんだ。アズールもジェイドもフロイドも、カリムがこんな事を言い出すだなんてちっとも思っていなかった。交渉をするために来たのに帰る、だなんて。
だから最初から普通の態度だった? いや、そんな筈はない。熱砂の国の国民には誰よりもお優しい人間として、この学園の生徒達には怒らせると怖いが基本はイイコちゃん、なんて評価をカリムは得ている。そんな彼が自分の寮生を見捨てる選択肢を選ぶか。
何を考えている。あれだけの富を築いた男が、何も考えずにこんな発言をする筈がない。ある意味アズールはカリムを信頼していたので、彼の言葉の裏の真意を測ろうと必死だった。
「ラッコちゃんさぁ、こっちがスカラビア寮生達のユニーク魔法とか握ってるってわかってんの?」
「ははは、ちゃんと分かってるぞ。分かってる上で帰るって言ったんだ。俺は、アズールが俺と取引したそうにしてたから交渉を持ちかけただけで、生徒の身柄以外に交渉材料が無いなら帰るだけだ」
「……解せませんね。このまま帰るなら生徒達は解放されないままですよ、カリムさん」
「そうか? 明日にでもアトランティカ記念博物館に金を払って、お前が言っていた写真を借りてくれば事足りるだろ」
今度こそアズールは言葉も出ない。一体何処からこの話が漏れた? いや、漏れるにしたって早すぎる。だって、オンボロ寮の監督生とカリムに接点など殆ど無い。強いて言うなら以前のマジフト大会で共闘した事ぐらいだろうが、以降彼らが関わったと言う情報はない。
それにカリムは忙しい人間だ。あの魔法を使えない生徒に関わる時間なんてないのに、どうして。
完全に押し黙ったアズールと、珍しく驚いた顔をしているジェイドとフロイドを見て、初めてカリムはいつもの笑顔を引っ込めた。相手を見下す様な、心底愉しくて仕方がないと言いたげな顔だ。ジャミルも釣られて嘲笑を浮かべる。
「俺がアズールと契約せずに生徒達を解放できるんだし、帰ってもいいだろ?」
「そ、それ……は」
「アズールが契約したそうにしてたから、態々来たんだけどなぁ。でも何も提示出来ないなら俺に益はない」
「ま、待ってください」
「え? 何もないんだろ? 何もないのに俺の時間を奪ったんだから、今後一切アズールとはやりとりしないつもりなんだが……。何かあるのか? あるならさっさと言ってくれよ」
畳み掛ける様なカリムの言葉に、アズールの焦りが募っていく。さらに茶々を入れる様に、ジャミルがさっさと帰ろうだなんて言うものだから、アズールは完全に冷静さを欠いていた。
今後一切やりとりしないだって? 冗談じゃない。カリム程多方面に手を伸ばしている男と取引出来ないだなんて、アズールの名前に傷が付く。商人として、これからもっと契約する人間を増やしていこうとしているアズールにとって、その傷は致命的だ。カリムと交渉出来ない人間、なんて信用度がガタ落ちになる。
カリムに何を渡せる? 学業の成績アップと言ったところで、そもそもカリムもジャミルも学年トップクラスの成績だから意味はない。つまり試験対策ノートも交渉材料にはできないのだ。どうすればいい。何を彼は望んでいる。
「え、SNSで集めたあなたの敵対者の情報はどうでしょう」
「それはジャミルの情報で事足りてるし、いらないなぁ」
「学園長の! 学園長の弱味とか……」
「知ってる」
「で、ではモストロ・ラウンジの顧客とのコネは、」
「……そういうのしかないのか? じゃあ全部必要ないよ。帰ろう、ジャミル」
心底つまらない。そんな顔付きになったカリムが、VIPルームの扉に手をかけた。拙い、彼は本気で帰るつもりだ。本気でアズールとの交渉に益がないからって取引をしないつもりでいる。
思いついた交渉材料も全て却下されてしまった。ならどうすればいいのだ。このままじゃ、今後のアズールのやり方に制限がかかる。焦りで息が上がり、アズールの指先が震えた。
どうしてこうなった。折角こちらに有利な状況で交渉しようとしていたのに、いつの間にか不利になっているのはアズールだ。こんな筈では無かったのに……!
そう思って、ギリリとアズールが唇を噛み締めるのを見たカリムが、再度口を開く。
「いや、まあ嘘なんだけどさ。ジャミル、紙出してくれ」
「え」
「これだな。ほらアズール、カリムの出せる交渉材料だ。お前から欲しいものも一覧で載せてる。ジェイドとフロイドも、ホラ」
「え? は? な……う、嘘?」
悪い顔から一転、急に和かになったカリムがソファへと座り直した。ジャミルは彼の背後に立ち、アズール達に用意してきたらしい資料を配る。ポカンとその様子を見つめ、頭が働いていないながらも手元の紙をアズールは眺めた。
そんなアズールを見て、やられてしまいましたね、とジェイドは心の中で呟いた。思えば終始カリムのペースに乗せられている。最初の態度からずっと、カリムはアズールの焦燥を誘起していたのだ。一筋縄ではいかないと思ってはいたものの、相手は1枚どころか何枚も上手だった。
……まあ、これもいい経験でしょう。アズールの焦る姿を久しぶりに見れて満足ですし。と、言った具合にジェイドはこの状況を楽しんでいた。
一方フロイドはラッコちゃんおもしれー、なんて顔でカリムを見つめていた。あえて突拍子もない事を言うやり方が、フロイドの琴線に触れたのである。自分のペースに持ち込んで相手を翻弄するのは、フロイドも得意とするところである。それを交渉でやってのけたのだから、フロイドは一気にカリムがお気に入りになった。
これからば部活終わりにウミヘビくんに付き纏って、ラッコちゃんに会いに行こーっと、なんてフロイドはニヤニヤしている。
「どうだ? 割といい内容で契約できると思うんだが」
「いや、え……ちょ、ちょっと待ってください。頭が追いついてないので」
「いいぞー。久しぶりに俺の土俵で喧嘩しよう、って奴が出てきたからはしゃいじまってさ。つい意地悪しちまった」
「意地悪?!」
こっちは気が気じゃなかったんですよ! とアズールは言えなかった。確かにアズールからカリムに喧嘩を売ったので、文句を言える立場ではない。
「本当は扉から出た後、嘘でーす! って言おうとしてたんだけど……。アズールが半泣きだったから」
「なっ、半泣きじゃないです!」
「いえ、半泣きでした」
「ジェイド?!」
「アズールってばプルプル震えてたもんねぇ」
「フロイドまで…… !!」
己を揶揄う流れになってしまったので、アズールはキッとカリムを睨んだが、彼は何処吹く風と言わんばかりの笑顔。
先程までの何処か緊迫感のある雰囲気は霧散し、アズール以外が非常に和気藹々とした商談が始まった。
※※※
「あー楽しかった! な、ジャミル」
「そうだな。……アズールのあの顔、写真を撮っておけば良かった」
「そういう意地悪はだめだろ」
アズールとの交渉の帰り道、カリムとジャミルはご機嫌な様子だった。こちらの思う通りに事が進んだし、何よりアズールから正常な判断を奪う事でカリムに有利な契約を結べたのだ。
今頃冷静になったアズールは悔しそうにしているだろうなあ、なんてカリムはニコニコしていた。
「やー、ラギーから情報を搾り取っておいて良かった。そのお陰でアズールがあの監督生と契約してるって分かったし」
「そうだな。有益な情報をくれたし、もうただ働きは勘弁とも嘆いてたから、今度から元の値段で情報買ってやるか」
「いいんじゃないか。あんまりタダで搾り過ぎてもヘイトを買うだけだ」
マジフト大会の件でカリム達に負い目のあるラギーを、彼らは体良く利用していた。が、あまり搾取しすぎるとカリム達に対する罪悪感を悪感情が越えてしまう。程々にタダで搾り取れたので、カリムもジャミルも、もうラギーを許すことにした。
「……アズール、もう一回突っかかってくるよな」
「負けたままじゃいられないだろうし、勝つまでやるだろ」
「ははは、そうだよなぁ。うん、楽しみだ」
カリムの土俵で喧嘩を売られたのは久しぶりだ、なんてカリムは言っていたが、同年代の人間に喧嘩を売られたのは初めてだった。なので必要以上にはしゃいでいたし、必要以上にアズールを追い詰める真似をしたのだ。
そうすれば、プライドの高いアズールならば次も喧嘩を売ってくる。また負かせばその次も。必ずカリムの鼻を明かそうと手を変え品を変え、アズールは食らいつく筈。それをカリムは期待していた。
つまるところ、カリムはアズールと楽しく喧嘩がしたいのだった。
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