幕間 伏黒甚爾


「甚爾くん」

 耳障りのいい声が鼓膜を揺らし、柔らかな感覚が腕に纏わりつく。その声に誘われるように目線を下に向ければ、目を細めて、嬉しそうに俺を見上げるあいつの姿があった。

「……なんかあったのか」
「んーん、なんにも。甚爾くんがいたから、甚爾くんの名前を呼びたくって」

 何が楽しいのやら、俺の腕をぎゅうぎゅうと抱きしめてそんな事を宣うのだから、知らず知らずのうちに笑みが溢れる。よく笑い、よく泣く、ある意味子供みたいな女だ。だが俺の人生には今まで存在しなかった、そばにいるだけで気分が良くなる女でもある。
 この女は善人だから、こいつと一緒にいれば俺ですら善性を得た気になれた。あたかも善人になれた様な、正しい道を歩いている気分になれる。それほどまでに明るくて無害で、周囲を照らす様な女だった。ただ、もしも一つだけこの女の欠点を挙げるとするならば、男の趣味が悪いところだろうか。
 ……こいつを捕まえた俺が言うのもなんだと思うが。

「色んなところに一緒に行こうね。北海道とか、沖縄だとか」
「要するに日本全国っつー事か?」
「うん。甚爾くんが見た事のないもの、一緒に見たいの」

 何が楽しいのやら、笑みを深めたあいつは俺を見上げてそう言った。俺にとっちゃこいつが与える全てのものが目新しく、見た事のないものだ。何せ、こいつと出会ってから文字通り見えていた世界が変わったし。
 愛した人間と過ごす日常の鮮やかさも、こいつが隣にいない時の寂しさも、喧嘩した時の後悔だって、こいつのおかげで知ることができた。こいつじゃなけりゃ、一生知ることは無かったであろう感情だ。
 ──つまり、今までだって十分俺の見たことのないものを一緒に見てきたと言える。なのにそれでは飽き足らず、まだまだ俺の知らないものを一緒に見たいと言うとは強欲な。マ、そういうところだって愛おしいのだが。

「これから沢山、一緒に過ごそうね」

 そう言ったってのにとんだ嘘つきだなァ、あいつ。呆気なく死んじまいやがって。それに、何も別離の辛さまで教えなくったって良いだろう。そんなもん、何十年も先で良かっただろうが。



prev/next

[Back]/[Top]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -