時事性皆無

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Erinys―復讐の女神―


 上も下も右も左もわからない。浮かんでいるのか、それとも沈んでいるのか。水の中の漂っているような、空を飛んでいるようなそんな感覚がする。

 ああ、俺は今夢の中にいるのか――とノエルは漠然とそう思った。

 頭の中で地面を思い描きその上にゆっくり立つ。目を開くと誰もいない……けれど沢山の気配が感じられる真っ白な空間が広がっていた。
 辺りを一通り見回しひとつため息を吐くと、宛もなく何もない空間を歩き出す。不思議とその足取りはしっかりとしていた。まるで歩む先に何があるか分かっているかの様に迷いなく進む。 途中で何度も誰かの声が歩みを止めようとしたが、その言葉は耳に届かなかった。

 暫く――ほんの数歩だったかもしれないし、何キロメートルだったかもかもしれない――歩き続けると、黒い靄が佇んでいる場所までたどり着いた。俺は、この黒い靄の事をずっと前から知っている。いつもどこかで存在を感じていた。何百年も前からずっと知っていたのに、気がつかなかった。
 靄から数歩離れた場所でピタリと止まり、目を閉じて大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。何度か繰り返した後再び目を開き、意を決したように目の前の靄を見据えて口を開いた。

「……カイアス」

 言葉に呼応して黒い靄はその形を変え始め、やがて、かつて彼が殺した人間を形作った。何千年もの時間をかけて時を歪め、世界を滅ぼそうとした師の姿に。その姿を見た瞬間、目頭が熱くなるのを感じた。しかし手を握り締めて耐え、言うべき言葉を必死に探した。
 どうして俺に心臓を貫かせたのか。どうして何も言ってくれなかったのか。俺はあんたを尊敬していたのに、ずっと俺を利用していただけなのか。あんたの優しさや微笑みは嘘偽りだったのか――。
 言いたいことは沢山あった。伝えたい言葉も沢山あった。何から言うべきか、頭が混乱していた。何百年も溜め込んだ思いがあまりに多すぎて、彼の中で嵐のように渦巻いていた。

「……よかった」

 考えた末に口から出た言葉はとても短かったが、本心だった。何百年もずっと想い続けていた。何百年もずっと自分の行いを悔いていた。カイアスは表情を変えずにただそこにじっと佇みその瞳でノエルを見ている。
 ここがただの夢の中ではないことくらい、分かっていた。前に一度だけ経験したことがある。ここはカイアスが前に俺を閉じ込めるために作った、偽りの世界……夢の世界と同質のものだ。
 自分の望みを映す世界。でもここは少し違う。そう、ここはきっと――。

「あんた、俺の中でずっと生きてたんだな」
「……人の心はヴァルハラと同じだ」
「納得……」

 カイアスの心臓を貫いた瞬間、ノエルは無意識のうちに師の混沌を心に受け入れてしまっていた。女神に呪われる事はなかったが、代わりに女神は死んだ。そして世界に混沌が雪崩込んだ。それらの事実があまりに衝撃過ぎて心を閉ざしてしまった。だからずっと一緒にいたのに気が付くことができなかった。
 人の心はヴァルハラと同じ……どちらかと言うとヴァルハラの混沌と同じ様なモノだ。人の心も一つの世界になっている。カイアスは俺の心に入り込み、何百年もの間見守り続け、俺が気がつく時を待っていた。
 漸くあんたに気が付く事ができた――ここは俺の心の中だ。
 ノエルは目線を足元に落とした。

「誰かを殺す度に、罪悪感に押し潰されそうだった。それと同時にざわざわしたんだ。何かが俺の中に入り込んでくるような感じがして……怖かった。けど、あんたが守ってくれてたんだろ?」
「……。」
「……分かってるよ。守ったんじゃなくて、俺が必要だったからそうしたんだろ」

 カイアスは何も言わなかったが、沈黙は肯定だとノエルは受け取った。
 もう自分は愚かだった子供ではない。何百年も生きてきて、ユールの死を幾度と見てきたカイアスには到底及ばないが、沢山の苦しみを味わった。だから痛いほど師の気持ちがわかる。
 カイアスがしたことを許した訳じゃない。けれど、そんな事はどうでもよかった。世界を滅ぼしてしまった以上、師を責めたところで何かが変わる訳ではない。
 ――もう取り返しのつかない事なのだ。
 長い間師を殺したことで自分を責めつづけていた。でもカイアスはこうして俺の中で生きている。カイアスが居れば、全ての物事がうまくいく様な気がしていた。

「俺は何をすればいい?」

 ノエルはほんの数歩先にいるカイアスの闇色の瞳をじっと見つめた。ずっと見つめているとその中に引き込まれてしまう気がする。深い闇の中に。それもいいかもしれない。
 償なえない程の罪を犯して、無気力に生きてきた。それでも罪のない人が殺されていくのをただ見ているのは耐えられなくて、人々を苦しめる悪人たちを殺した。殺す度に心が軋んだ。――でもそれも自分の罪へ対する罰なんだと思って受け入れてきた。
 もし、世界を救えるなら自分が犠牲になってもいい。俺の命で世界が救われて、みんなが普通に生きることができるのであれば、喜んで命なんて差し出す。もう自分だけが生き残って、誰かが犠牲になる姿も、死ぬ姿も見たくなかった。

「ノエル」

 名を呼ばれ、抱きしめられた。突然の事で何が起こったのか理解できないまま目をただ瞬かせていると、遠い昔にそうされたように頭をそっと撫でられた。

「……苦しい思いをさせて、すまなかったな。辛かっただろう」

 穏やかな口調でそう言われ、堪えていた筈の涙がどっと溢れ出した。涙は次から次へと溢れ出ては頬を伝ってぼろぼろと零れ落ちる。救われた気がした。この言葉で全てが許されたと感じた。うまく呼吸が出来ない。涙が止まらない。
 ずっと苦しかった。辛かった。自分がしてきたことを顧みて慚愧に耐えなかった。自分の信じていたもの全てに見限られ、本当の意味で独りぼっちになってしまったと思っていた。でも、独りじゃなかった。師は俺のことを思ってくれていた。俺が殺してしまったのに、そんな声で謝らないでくれ。俺が悪いんだ。俺が全部悪かったんだ――。
 頭のどこかがこの言葉には裏がある、と訴えていたが、その考えを無理やりどこかへと押しやる。これが例え俺を傀儡にするための術だとしても構いはしない。独りぼっちになるよりも傀儡になったほうがマシだ。
 カイアスは幼い子供をあやすようにノエルの背を何度も往復して撫でる。彼は幼子に戻った様にそれを甘受していた。

「君が混沌の心臓を貫いたお陰で、私もユールも忌まわしい女神の呪いから解き放たれた。世界も神の手から離れ、新しく姿を変えようとしている。君には罪深いことをさせたが、お陰で私は救われた」

 ノエルを抱きしめたまま、静かに語る。ノエルは涙を拭うこともせずに、その言葉に耳を傾けた。溢れ出た涙の分だけカイアスの言葉が心に染み入るように感じる。

「今、新たに神を目覚めさせるために動いている者たちがいる。神を目覚めさせ、新たな世界をつくろうとしている者たちが。人は何も学んでいない。機械仕掛けの神であったファルシが何をしてきたのか。女神エトロが何をしてきたのか。神は私たちを苦しめてきたのにも関わらず、人は頼ろうとする。愚の骨頂だ。なんとしても阻止しなければならない」

 カイアスはノエルを少し離し、瞳からあふれる涙を指先で拭ってやった。目尻が赤くなり、瞼は腫れ始めている。ノエルは鼻水を啜ってから、涙で潤んだ青い瞳で師を見た。カイアスは僅かにではあるが口元を和らげ、まるで親の様な優しい面持ちで、ノエルの髪を撫でる。

「君の力が必要だ」
「……わかった」

 ひとつ頷き今度はノエルの方からカイアスを抱きしめた。
 硬質な鎧の感触はひやりとしていて冷たい筈だが、暖かさをもっていた。ひどく心地がいい。髪を撫でられる感触も、肌に感じる温度も全て。このままずっとこうして居たい。でも、このまま夢の中に閉じこもっているだけでは何もできない。今度こそ、望んだ未来を手に入れるのだ。ユールが居てカイアスも居る、何の変哲もない普通の生活を――神のいない世界で。

 至高神ブーニベルゼ。ブーニベルゼに選ばれ、人々の心の闇を払う誓約者。
 未来を手に入れるには、それらを止めなければならない、とカイアスは言った。止めるためには、今よりも混沌の力がなければならないらしい。混沌の力――人の心の力が。人を殺すたびに感じた、自分の中に入り込んでくるもの……。

 誰かがやらなければならない。その誰かは俺しかいない。
 人を殺すことには慣れた、とは言えない。けれど、やらなければまた知らない誰かが神とやらのせいで、俺と同じ思いをする。神を信じて疑わなかったのに、神のせいで愛するものたちが不幸になって嘆くのは、俺が最後でいい。

 神は慈悲など与えない。神は奪うだけだ。
 神なんていらない。

「……君には辛い思いをさせるな」
「大丈夫。あんたが見ていてくれるんだろ。独りじゃないから平気だって」
「……いい子だ」

 もう子供じゃない、とノエルはぎこちなく笑って見せる。それからもう一度強くカイアスを抱きしめた。その師の口元が僅かに歪んだ事に目を閉じたノエルには気付く術がなかった。


***


 朝日を瞼に感じ、目が覚めた。少し身じろいだだけでぎしぎしの悲鳴をあげる寝台の上で薄目を開ける。不自然に霞む視界を不思議に思い、手で瞼を擦ると少し濡れていた。ノエルは両目を荒っぽく拭い、夢の中のカイアスの言葉を反芻した。


 昔、本で読んだことのある神話に「エリニュス」という三女神がいた。その女神たちは正義を求めていたが無慈悲で、悪事を働くものを苦しめ、世界の果てまでも追いかけていき、彼らの気を狂わせたという。

 神様なんてロクなものはいない。

 でも例え世界が滅びかけているとはいえ、悪事を働くものが得をして、善い行いをするものが馬鹿を見る世界があって良いのだろうか。そんな事はあってはならない。絶対に。
 だから俺は、エリニュスになろう。弱い人々の代わりに悪人に報復を。そして力を手に入れる。
 神を名乗る程思い上がってなどいないが、エリニュスの様に世界に仇なすものたちに制裁を加えよう。未来を切り開くために。


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2013/02/25 執筆


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