! これの数日後




 肺がからっぽになるまで息を吐けば自然、ぴんと張った背が弛む。格段珍しい薬を作っていたわけではないものの、慣れているからといって疎かにして良いものではない。一匙で毒にも成り得る。無暗な緊張は失敗を生むがあって油断もならない。一々意識しなければせずに居れない自分の未熟さにほんのり苦い情けなさも零れるが、妙な失敗よりはよほどましだ。
 調合の済んだものをまた一つひとつ薬包に分けて戸棚に仕舞い込むともうひとつ溜息。珍しく利用者どころか他の委員も無い保健室は妙にのびのびして見える。格段に騒々しい連中がまとめて補習で不在のせいもあるだろう。心配といえばまた妙な事件に巻き込まれてやしないかといったくらいなものなのだがさもありなん、なにせ六年生合同の実習課題の補習なものだからは組がなにか仕出かそうとすればい組とろ組が止めにかかってくれる筈だ。ただでさえの補習、ことさら、成績優秀が自慢のい組は本気を出して止めるに違いない。そこでのひと悶着で打撲やら打ち身くらいは拵えてくるかもしれないが妙な危険に首を突っ込んでいるよりは余程気が楽だ。ろ組の保健委員である鶴町伏木蔵だとて、飽きもせず生傷をこさえてくるやつらを見れば「スリル〜」などと笑ってようく沁みる薬をぐいぐい塗りたくったり傷口ついでに口まで縫いつけようとするけれど、なんだかんだと六年間も保健委員を務めた彼だからそう的外れたことを思ってもいないはずだ。伏木蔵は決して認めはしないだろうけれど、と思って小さく笑った。

「さあて」

 ふっ、と短く息を吐いて弛んだ背をしゃんと伸ばす。なにせそのように生傷をこさえるプロたち以外にも薬の入り用は残念なことに幾らでもあるので、こうして隙を見ては補充する必要がある。件の補習に伏木蔵も出払っていて、幸か不幸か後輩たちもすっかり留守にしている――なにせ保健委員の不運は人数が増えれば増える程に強烈になる――から効率こそ然程良いとは言えないが、たとえばこの壁一面を占める棚が倒れてなにからなにまでぐっちゃ混ぜになったのを片付けるのだけで朝を迎えるだとかいうこともなくそれなりにはかどっている。何時にない平和な委員会にやはりどうしても緩んだ息が零れる。好い日だ、とぽろりと漏らそうとしたところで乱太郎ははっと息を詰めた。

「やあ」

 いっそ無防備とさえ言えるくらいに当然と、普通に開けた戸から普通に保健室を訪ねた珍客に、乱太郎は目を瞬かせた。

「ちょっとこなもんさん」
「雑渡昆奈門だ。君達もいい加減、頑固だよねえ」
「伏木蔵なら留守ですが」
「うん知ってる」

 おや、と思う。次いで首を傾げてから、無防備に開かれっぱなしの戸にちょっと眉を顰めて中に促せば存外、彼は素直に踏み入った。作業途中のせいもあって床のほとんどが草で埋まった部屋だが、どうにか空間を見つけたくせものさんが、いやにおやじ臭い仕草で腰を下ろすものだから乱太郎としても笑うしかない。火鉢に掛けていた鉄瓶の湯は葉を練るためのものだったがまあ構うまい。少し考えて、急須にからりと乾いた葉と湯を注いで蒸らす合間に奥から二つ湯呑を持って戻って急須から茶を注ぐ。その僅かの間にお互いなにひとつ喋らないでいたがことさら険悪だというわけでもなく、なにげなしに「まあまあ、お茶でもひとつ」と無為にとぼけてみれば「ご丁寧にどうも」と晒された右目がにんまり細まった。子供に好かれる風体ではないよなあ、といやに冷静に思う。なにせ十の頃からの実体験だ。悪い人だか良い人だか判断に困る変な人は中々に神出鬼没で妙に恐ろしかった。なんでだか伏木蔵は昔からこの人にやたら懐いているのだけれど尋ねてみても「スリル〜」とやらだそうで理解にはほど遠い。
 今となってはこの変な人のこわさを別な意味で多少は知ったつもりだけれど、それでもやはり同年の伏木蔵がこの人に懐く意味は解りそうにない。ふう、と乱太郎はすとんと肩を落とした。

「さて、と。どのようなご用件で」
「なに、そう大した用でもないんだがね」

 そこで言葉を切ると、なにか、品定めでもするように乱太郎に向かってこてりと首を傾げる仕草の幼さになんとも不思議なむずがゆさが腹に広がる。乱太郎は緩みそうになる頬をくっと締めると、くせものさんはふうと溜息を吐いてみせる。

「伏木蔵から聞いてないかい?」
「いえなにも。……伏木蔵となにか?」
「いやあなに…おじさんも、年甲斐もなくはりせんぼんが怖くてね」

 次に首を傾げたのは乱太郎であった。しかし口の中ではりせんぼん、と三度唱えて四度目、乱太郎はああ、と頷いて小さく破顔した。

「だったら多分、私じゃあ駄目だと思いますよ」
「だよねえ…」

 雑渡はがくん、と首を背に落として虚空に向かってあーだとか漏らす。その様がなんというか、可笑しな形容ではあるのだがどうにも困っている――そう困っているように映って、乱太郎はまたも首を傾げる。どうもくせものさんは伏木蔵を避けたいらしかった。
 乱太郎の思うに、雑渡と直接に縁のあった善法寺先輩を除くのなら伏木蔵は忍術学園の中で最も密に雑渡と接触している人物である。それは伏木蔵自身がくせものさんに懐いているのに加えて、彼自身がそれなりの積極性をもって伏木蔵と接触しているからだ。ついでに言うなら乱太郎が居合わせたことだとてあるが二人の間にさしたる悪感情があったようにも思えない。はりせんぼんのせいだろうかと考えてみるが、くせものさんはああ言ったけれど本当に恐ろしく思っているわけでもないだろう。しかし今くせものさんはどうも伏木蔵との接触を避けていて、むしろ苦々しく思っている――伏木蔵自身か二人の間のことかは計りかねるが――らしい。ふむ、と乱太郎は少し視線を彷徨わす。

「まあ――そうですね、とりあえずお茶でも飲んで落ち着いてください」

 にっこり笑えばくせものさんはぐるりと起こした首を膝先の湯呑に落としてから乱太郎を見据え、そうして深々と溜息を吐いた。あれ、となお乱太郎は笑顔で首を傾げるとくせものさんはもうひとつ溜息を吐く。見る見る間に幸せが逃げてるなあと思えばドけちが性分の級友が脳裏で悲鳴を上げる。たとえ目に見えなかろうと、無暗にものを棄てるなど言語道断、棄てるくらいならただでくれと叫ぶ脳裏の友人の生々しさに小さく苦笑した。雑然と無意味な思考をしている間にのそりとくせものさんが腰を上げる。

「あれ、もう行っちゃうんですか」
「まあこれでもそれなりに忙しい身なもんでね。いや邪魔した」
「いえ、お役に立てず。伏木蔵になにかお伝えすることはありますか?」

 くせものさんはぱちりと目を瞬かせた。ひとつきりの目だが存外表情は豊かだ。それが真実感情に左右したものかはさて置かなければならないけれど。

「そうだな、ではもう少し待ってくれと」
「たしかに」
「それじゃあね」

 来た時と同様、くせものさんはまた普通に戸を開けてその陰に消えるかと、そう思ったときにはたと振り返る。無為にすら見える右目がまっすぐに乱太郎を見て、僅かに伏せられる。

「見た目に反して、君も大概だね」

 乱太郎はくりんと目を瞬かせてから、あっけらかんと笑った。

「ばれてましたか」
「まったくもって将来有望だよ、君達は」

 右目をくっと細めた彼が笑っているのだと知れて、どうもと小さく頭を下げれば可笑しそうにまた笑った。次に瞬けばすっかりその影までも消え失せる。
 乱太郎はひとつ瞬きをして、背後の棚にどっと崩れるように凭れ掛かる。棚は少し揺れこそしたが倒れてくるだとかいうことにはならなかった。指先まですっかり力が抜けてしまっているのに気付いて、情けなさに小さく笑う。ひい、ふう、みい、とゆっくり呼気を整えるとやっと指先が痺れるように熱くなった。

「ああー……疲れた」

 まったく、あんな人にも懐いていってしまうなんてのはどうも乱太郎の理解出来る範疇にない。膝をつきあわせて何の気ない雑談をするだけでこれなのだから、ゆびきりなど、少なくとも自分には出来ない芸当だ。すごいなあ伏木蔵、と呟いてからいやと思い直す。

「ええと、あれか、スリル〜…」

 いやいや。乱太郎はちょっと笑った。







110403
斯く言う乱太郎もくせものさんで薬を試そうとしたり