! 年齢操作/1→6年




 こなもんさんはぁ、と伏木蔵は暗がりの中で囁いた。内緒話でもするように色の悪い口唇に立てられた人差し指を越えてふふ、と笑い声が零れる。雑渡は「昆奈門だよ」と言った。彼が改めたためしはないけれど云わばお約束というものである。雑渡がそうやって応えるだけでこの子供はなんとも上機嫌に笑うのだ。それが見たくてなどと微温湯い好意からではなかったが、少なくとも雑渡には理解できない風体で笑う理由が知れるまではきっとこの茶番に付き合い続けるのだろうと思う。そして雑渡が伏木蔵を理解する日が来ないであろうことはとっくに理解の上だった。微温湯い、微温湯い。なにせ、この少年に構うのは存外に楽しい。

「僕のことが好きですか?」
「そうだねえ、好きかな」
「あはは、スリル〜」

 目元に陰を落として邪気など無さそうに笑う伏木蔵に雑渡は目を細めた。この子はいやに危なっかしい。危ないもので遊ぶのが好きなのだ。雑渡は所謂ところのおとなの余裕等々其の他で一緒になって遊ぶが彼の級友などはさぞ苦労していように。雑渡の僅かな所作にも伏木蔵は首を傾げた。

「こなもんさん、怒っちゃいました?」

 伏木蔵は真っ黒な瞳で「怒ってたらとても楽しいのに」と言う。なんというか彼は、悪趣味だ。雑渡はにんまりと目を細める。「怒っていないよ」と応えてやるとふむ、と頷いた。再び人差し指を立てて、思案するような仕種でくるりと回す。二度三度と回してから雑渡の顔を見て「ああそういえば」と漏らした。ざあっ、と抜ける風に雲が流れる。その陰に太陽が隠れると途端、梢の陰は色を失う。暗澹に雑渡の包帯の白がやたらと目に付いた。伏木蔵は無防備に雑渡の手に触れた。両の手で雑渡の左手に触れる伏木蔵を許容しながら、雑渡はその指先を辿った。

「こなもんさん、まだ伊作先輩に会ってるんですね」

 伏木蔵の指先が包帯の下に在る掌の形を確かめるように動く。骨の形に触れ、次いで血の流れを辿る。雑渡は目を上げるが伏木蔵は双眸を伏せてその視線を一心に雑渡に注いでいた。再び視線を落とす。包帯越しの接触はなんともこそばゆい。

「そうだね」

 雑渡が肯くと、伏木蔵は「やっぱり」と小さく笑った。

「匂いでもしたかな」
「こなもんさんは血の臭いしかしないじゃないですか」
「あらそう」
「匂いって、伊作先輩と寝でもしたんですかあ?」
「気になるのかい」
「んー……」

 はて、とそこでようやく指先を止めて伏木蔵は上げた双眸で雑渡をまっすぐに見つめた。どこか胡乱とした瞳を同様に見返してみるが惜しいことに目がひとつ足りない。伏木蔵はにんまりと笑った。

「それはそれでえきさてぃんぐですねえ」
「ほう」
「寝たんですか?」
「残念ながら」
「スリル〜」

 きゃっきゃと笑うさまは十から変わらないように思う。しかし斯く言う彼ももう雑渡が出会った時の伊作と同じ歳だというのだからなんと言おうか、感慨深くすら思えて、はたと気付く。ああ、と何の気なしに呟くと伏木蔵はこてりと首を傾げた。

「伏木蔵は、私が伊作くんを訪ねるのが嫌なのかい」

 にんまりと笑うと、伏木蔵は少々気分を害したとでも言いたげに僅かに眉を顰めた。

「別に、それはどうでもいいんですよ」
「ほう」
「だってこなもんさんは伊作先輩のこと好きでしょう」
「まあね」
「だからそれはどうでもいいです」

 ふうんともっともらしく頷いてみせ、雑渡は右手を伸ばす。伏木蔵の額にその手をぽんと寄せれば、むっと眉を顰めてぐいぐいと額を押し遣ってくる。この子供にしては珍しいほどのあからさまな意思表示に雑渡は笑いが零れるのを抑えずには居れなかった。

「だが伏木蔵は不服そうだね」
「伊作先輩はもう保健委員ではありませんよ」

 おや、と雑渡は僅かに目を瞠った。こうもあっさり吐露してみせるとは思わなかったのだ。しかし掌の陰からじとりと雑渡をねめつける双眸に再び笑みが零れた。

「それでも元保健委員長に変わりはない」
「現保健委員長なら学園にいるでしょう。よく遊びに来るくせに」
「では乱太郎くんに頼もうか」
「こなもんさんは意地悪ですね」
「そうかな」

 ぎり、と左手が軋む。まさか骨が折れられることはないだろうが痛いものは痛い。だから「痛いよ」と言ったのに伏木蔵の両の手はますますきつく雑渡の手を締め付けた。一連のことのあまりの愛らしさに忍ばせたつもりの笑いがくすくすと漏れた。可愛い、可愛いと馬鹿のように幼子扱いしてやりくて胃の腑の裏側がむずむずとする。伏木蔵の真っ黒い瞳にちろりと瞬く光がいやに愛らしくてしかたないのだ。

「伏木蔵、指切りをしようか」

 伏木蔵はぱちり、と目を瞬かせた。さあ、と右手の小指を彼の前に立てて見せる。

「一個、君の好きな約束をしよう」
「……スリル〜」

 絆された顔をして、伏木蔵はゆっくりと雑渡の左手を解放した。ぐっぱ、と手を動かす雑渡に伏木蔵は「なんでも?」と尋ね、雑渡は双眸をまっすぐに見つめながら「なんでも」と応えた。それから伏木蔵が「では」と続けたのは直ぐであった。雑渡はそれにはなにも言わず、ただ右手の小指は真っ直ぐに相手を待っている。

「僕が今度処方してあげる薬をちゃあんと使い切ってくださいね」

 するり、と伏木蔵の小指が絡む。根元近くに巻き付いたそれに応えるように雑渡も指を折る。にっこりと満足げに笑った伏木蔵がゆるゆると歌う。囁くようなそれは暗澹にぞろりと広がる。

「そんなことでいいのかい?」
「ゆーびきった。……なにがです?」
「指切りのお願いがそれで」
「指切りはお願いじゃなくて約束をするんですよ」
「なるほどね」

 ふふ、と笑う伏木蔵に雑渡はなんとも不思議な気持ちを抱えることになる。なんというかもう少し、彼は直接的だと思ったのだ。ふむ、と雑渡は首を傾げた。それを見て伏木蔵はにたりと口唇で弧を描く。少しばかり、不気味なそれである。

「特別よく効いて、とぉーっても痛い薬とはりせんぼん用意して待ってますねえ」
「……思いの外怒らせたみたいだね」
「怒ってないですよお」

 ちょっとしたスリルです、と内緒話でもするように伏木蔵は立てた人差し指を自身の口唇へ寄せた。

「おじさん、痛いのは苦手なんだけど」
「なに言ってるんですかあ。知ってますよ?」






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