なまえは、その日は朝から病院でリハビリをしていた。いつものように右腕を動かすことを中心に、ゆっくりと、ゆっくりと。
(やり過ぎると右腕に負担がかかってしまうしまたすぐに貧血になっしまうので、たくさんはできない)
「最近なんだか、やる気にあふれてるね!」なんてリハビリの先生に言われると、自分ではそんな風に思っていなかったけれど、……きっと、やる気に満ちているのだろう。
きっかけはやはり、弓道部だった。
(いつか、引けたら)
兄の隣で引くことは、試合では無理だけど、部活動の時間だとか、そんなときでいい。一回だけでもいい。
なまえは、弓を引きたくなったのだ。これはまだ、七緒にも内緒にしている、自分だけの秘密の夢。
七緒と同じように弓を引けることを目標に。
新たな夢に向かって、なまえが進み出そうと決意したその昼下がり、
「五分で、いや三分だけで終わるから!簡単なアンケート、ね?君の負担にはならないから!」
なまえは、キャッチに捕まっていた。
これがこの間国語で習った『人間万事塞翁が馬』というものか、良いことの後には悪いことが起こるのだなあ、となまえは復習をしながら、目の前のスーツの男性の勧誘をやんわりと断り続けていた。しかし彼もノルマがあるのかなんなのか、なかなか諦めてくれない。移動しようにもその後に一緒に歩き出してくる始末で、なまえは寄り道すら許されなかった。新しく発売したフラペチーノが飲みたかったのに。
「いえ、ほんとうに、そういうのはやらないので」
「匿名だから大丈夫だって!ちょっと答えてくれるだけでいいから!」
「結構です……急いでますので、……」
先ほどから他の人はこちらをチラ見はするが助けてはくれないようで。交番も運悪く無人だった。こんなことなら七緒に着いてきてもらえば良かったと後悔するも、頼みの綱の双子の兄はデートだったと思い出してなまえは一人で落胆していた。
さてどうしよう。海斗は来てくれるだろうかとスマホを出した瞬間、誰かがなまえの肩をぽんと叩いた。
偶然にも海斗が助けに来てくれたのか、となまえが期待を込めて振り返ると、その目に飛び込んだ人物はなまえの記憶の中の誰でもなかった。
「ごめん、待った?」
ゆるくウエーブのかかった髪に切れ長の目もと。誰が見ても整った顔だと評されそうな少年。同い年か、もしかしたら年上かもしれない。なまえは驚いて少年を見上げたが、彼が小さく頷いたのを見てその意図を読み取った。
「……遅いです、」
「ごめん、寝坊して」
「埋め合わせはチョコ抹茶フラペチーノですよ」
「チーズケーキもお詫びにつける」
「解りました。許します」
「……で、何か用?しつこいなら警察呼ぶよ?」と彼がキャッチの人に声をかけたら、あっという間にいなくなってしまった。
「……、」「………」
お互い無言で見つめあっていたが、なまえが先に勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「いや、いいよ」
「チョコ抹茶フラペチーノ奢らせてください。お礼に!」
「……チーズケーキもつけてくれる?」
「もちろんです!」
さっきと逆ではないか。なまえと少年が二人とも同時に吹き出して、笑ってしまった。
***
「リハビリ、なんだ」
「そう。今までは日常生活を送れるくらいに使えればいいかなって思ってたんだけど……欲が出てきちゃって」
コーヒーショップ。なまえの目の前には飲みたがっていた念願のフラペチーノ、彼の前にはチーズケーキとブレンドコーヒーが置かれていた(なまえが強引に奢った。勝った)
キャッチから助けてくれた彼は、藤原愁という名前を教えてくれた。
「何かしたいこと?」
「弓を、引きたくて」
ごく自然に答えたなまえの言葉に、愁がはっとした。
「弓、を……」
「双子の兄がいるんだけどね。彼が今弓道部で弓を引いていて……見るのは昔から好きだったんだけど、見ていたら段々、自分も引きたくなってきたんだ。兄だけじゃない。他の部員もみんな、キラキラしてて。……ちょっと、羨ましくなっちゃった」
「……弓が好きなんだね、如月さんは」
「藤原くんは?部活動は、何を?」
「……ごめん、そろそろ行くね。ごちそうさまでした。ケーキ、残りは如月さんが食べていいよ」
はぐらかされた。愁はコーヒー片手にそそくさと出ていってしまった。
(藤原くん、弓道部だな……)
なまえはコーヒーショップの扉をすり抜ける愁の背中を見送っていた。
弓道部なら、県大会の予選で会うことがあるだろうか。
もし会えたら、きちんとお礼を言わなくては。
七緒にも今日のことを報告して。
チョコ抹茶フラペチーノの感想も言わなくては。
(県大会の予選、楽しみになってきた)
曇り空にて青天の夢を見る